1 | ナノ
 間近で微笑んだ記憶の中の少女の瞳と、こちらを真っ直ぐに見返してくる成人女性の写真画像が、重なってぶれあって大きくさんざめく。

 公安局刑事課一係の自席で、タブレットに片手を置いたまま、狡噛がぼんやりとディスプレイを――表示されている、パーソナルデータの写真画像を眺めていると、入室して来た宜野座に声をかけられた。

「どうだった、内偵は」
 狡噛はゆっくりと視線を移す。同期の監視官である宜野座は、このところ、狡噛の姿を見かけるたびに、何くれとなく声をかけてくるようになった。
 一係のオフィス内には、狡噛と宜野座の他に人はいない。

「目星はついたのか?」
 宜野座の問いに、ああ、と頷いて、狡噛はディスプレイ全面にパーソナルデータを表示させた。
「恐らくは、この女がホシだ」
 横から画面を覗き込んだ宜野座は、女の氏名を読み上げる。

「……みょうじなまえ。セラピストか。色相は?」
「クリアカラーだ」
「犯罪係数は?」
「先月の定期検診の記録がある。平均より高めだが、業務内容を考えるとこんなところだろう。引っ張ってこれるほどの材料ではないな」
 だが、と言って宜野座は眉を顰めた。
「サイコパス改竄の疑いがあるホシだろう? 自分の犯罪係数も誤魔化してるんじゃないのか」
「有り得るが、そこまでの裏は取れていない」
「……内部告発者の身元は?」
「志恩に洗わせているが、難しいだろうな。匿名でこっちに情報を流してきた以上、割れたところで協力を仰げるとも限らない」

 確かにあの救急セラピーセンターは、告発の通り、他センターと比べて退所者の数が倍以上に多かった。一度濁ってしまったサイコパスを、正常値にまで引き戻すことは極めて難しいという定説の中で、この改善更生数を誇るセンターの名前は賞賛と共に知れ渡っているが、公安局刑事課に舞い込んできた一報は、そんなセンターの虚偽を訴える、職員からの内部告発だった。

「どうするつもりだ」
 考え込むような仕草を見せていた宜野座が尋ねてくる。狡噛は息を吐いた。
「調査を続ける。……もう少し俺に任せてくれないか、ギノ」
「それは構わないが…」
 そう答えてから、宜野座は少し迷うような素振りを見せた。しかし結局はこちらに向き直り、律儀に忠告を出してくる。
「狡噛、次からは同行者をつけろ。単独で行動するな。俺でも、征陸執行官でも…」
 真面目だな、と狡噛は思い、とりあえず片頬で微笑って頷いておいた。しかし聞く気がないことは、そういう気配に疎い宜野座の目から見ても明らかだったのだろう、彼は更に迷うような素振りを見せて、結局それを口にした。

「佐々山のことは…」

 瞬間、心の一部分が硬直した。何かから身を守るように。

 宜野座は苦しそうに言葉を続ける。
「あいつのことは……お前一人の、責任じゃない。だからあまり、背負い込むな」

 それは善意と、親切心と、そして狡噛を慮ってこそ出てきた言葉だった。だからこそ狡噛は、その気遣いを煩わしいと思った。いっそ不快感すら覚えるほどに、煩わしいと思った。
 けれどそれをそのまま口に出すほど、狡噛も子供ではなかった。

「…わかってるよ」

 表面上だけで微笑ってから、狡噛はディスプレイに目を戻した。さあ、この話はこれで終わりだ、というように、タブレットを叩き、作業を再開して見せると、悟った宜野座も息を吐きながら自席に戻って行く。

 中断していた報告書を呼び出して、順当に空欄を埋めていく。努めて目の前の報告書に意識を向かわせるが、そうすればそうするほどに、自分の意識がてんでばらばらな方角に散っていくのを狡噛は感じていた。

 間近で微笑んだ少女の瞳と、こちらを真っ直ぐに見返してくる成人女性の眼差しが、報告書を透かして浮かび上がってくる。

 ねぇ、魂ってどこにあると思う。

 それが本当に皮膚の上で折り畳まれているというのなら、狡噛はきっと彼女の魂に触れて、触れ合って、その拍子にどこかの箍が緩んでしまったのだろう。それはきつく締められていなければならない部分で、いつもの狡噛ならばきっと、そんな失態を犯さなかったはずだから。

 ――悲しいの?
 驚くわけでも、不思議そうにするわけでもなく、どこか確認するような口調で彼女は言った。狡噛の目から溢れたそれを指先で受け止めて、彼女は繰り返す。
 ――悲しいのね。

 薄暗い研究室で、彼女の上に圧し掛かったまま、ああ、そうだったのだ、と狡噛は思った。目が覚めるような思いだった。――そう、狡噛は、悲しかったのだ。悲しくて、つらくて、それに向き合っていることがあまりにも痛くて、痛すぎて、狡噛は結局、それ自体に蓋をかぶせてしまったのだ。蓋をして、仕舞い込んで、無いもののようにしてしまった。そうすると随分気が楽になった。しかし硬い種子のようなものは身の内で凝っていたのだろう。内部告発を受けて、用意された捜査資料の中に、彼女の名前を見つけた狡噛は、仕舞い込んだはずの過去が音を立てて溢れ出てくるのを感じた。

 幼い少年が泣いている。歯を食い縛って泣いている。仕舞い込んだはずの過去から飛び出してきた少年は、狡噛の体中にどんどんと広がって胸をきりきりと締めつける。

 ボーダーレス。狡噛はこのところ、果たして自分が大人なのか、子供なのか、よくわからないでいる。




* * *




 それから、彼女とは幾度も体を重ねた。
 自分の体の下で、背をしならせて喘ぐ豊満な肉体は白く美しくなまめかしく、どこか幻想的ですらあって、新しいおもちゃを与えられた子供のように、狡噛はその遊びに夢中になった。
 幾度も交わり、幾度も果てた。快哉を叫ぶように思った。気持ちがいいと。

 瑞々しい目がこちらを見ている。
 ――ねぇ、魂ってどこにあると思う。
 ……それは皮膚の上で折り畳まれて、静かに息衝く。
 ――誰かとこうしてるのが気持ちいいのって、きっと、魂と魂が触れ合って震えてるからなんだよ。
 ……そのためには、出会わなければいけない。自分一人の孤独な魂ではなく。孤独な魂と、孤独な魂が。
 ――“私”と“あなた”の間にある溝を、埋めることはできなくて、きっと私たちは永遠に孤独な魂だろうけど。

 全ての輪郭がとろけ出していくようなまどろみの中で、夢か現かわからない声が狡噛の中で幾重にも反響する。

 ――手を伸ばせば、触れ合うことはできる。孤独な魂たちを、触れ合わせて、震わせることはできるんだよ……。

「メール」

 呟いた体ががばりと起き上がる。寄り添い合っていた温度が離れていくのを、狡噛は起き抜けの頭でぼんやりと理解した。 狡噛の腕の中から抜け出したみょうじは、半身を捻りサイドテーブルに手を伸ばす。真っ暗闇のホテルの一室に、携帯電話の明かりが白々と灯った。
 しばらくの沈黙の後、彼女は放り投げるようにしてデバイスを置き、狡噛の腕の中に戻ってきた。布団ごと彼女を抱きしめる。素肌が触れ合う。魂が震える。

「職場からだった」
 しんとした暗闇の中で、間近から声だけが聞こえてくる。
「脱走されたって」
「脱走?」

 物騒な単語に、意識が覚醒する。

「誰が」
「少年A。あなたも前に会ったでしょう」

 強化ガラスの向こう側で、虚勢を張るかのように腕と足を組んでいた、患者衣姿の少年の顔が脳裏でよみがえった。
 ――じゃあ、この世界で、本当に、これは俺の、俺だけのものだって言えるのは、今ここにある俺の体ひとつきりなんじゃないかって……。

「いいのか。お前が受け持ってた患者だろ」
 刑事課員としての自分が急速に目覚めてくるのを感じながら、焦った様子のない彼女の両肩を掴み、自分の体から引き離す。いくら非番だからといって、受け持ちの患者が脱走したのだ。悠長にはしていられないだろう。

 しかし、対する彼女の声はあくまでも平然としている。

「いいのよ」
 と彼女は言った。闇に慣れ始めた視野の中で、瑞々しく濡れた目が狡噛を見ている。
「だって、私が手引きしたんだもの」

 ほとんど反射的に、狡噛は彼女の口を塞ぎかけていた。聞きたくないと思った。それ以上のことなんて聞きたくないと幼い少年が泣いていたが、刑事課員である自分の意識がぎりぎりのところで少年を押さえつける。
 みょうじは流暢に言葉を続ける。

「あの子のサイコパスをこれ以上クリアにすることはできそうになかったし、公安に目をつけられている以上、いつものように改竄もできないし。だから、強行突破。セキュリティをいじってね。どのみち私にはもう、後がないだろうし」

 わかっていたことだった。わかりきっていたことだった。しかしそれと同時に、狡噛は、そんなことは全く予想外のことだった、とも思うのだった。

「…どうして…」
 零れた言葉はひどく弱く、狡噛は自分を惨めだと思った。

 彼女はゆっくりと半身を起こす。
「支援者なの、私。でも私を調べたところで何も出てこないよ。結果的にそういう立ち位置におさまってるだけで、そもそもは組織と関係なく、私の一存で始めたことだから」
「どうして」
「成人儀礼に失敗した子供はどうなると思う」
 間接照明が柔らかく灯る。照明を調節し終えたみょうじは、サイドテーブルから体を戻し、狡噛を見下ろした。
「事あるごとに、イニシエーションにトライし続けるのよ。大人になった後でも、みっともなく」

 イニシエーション。

「……逃げなきゃ」
 裸のまま立ち上がった彼女が、どこかを見つめながらぽつりと呟く。
 半身を起こした狡噛は、まるで誘われるようにして尋ねていた。

「どうやって?」
「わからないけど、とにかく逃げなきゃ」

 静かな声で呟いた彼女が、瑞々しく濡れた目をこちらに向けてきた。

 狡噛は待つ。その瞬間を。

 果たして彼女は口を開いた。

「逃げよう、慎也。明日の**時に、駅前に来て」
「けど、なまえ」
「待ってる、ずっと待ってるから」




* * *




「最低だな、あんた」

 唐突な侮辱に驚いて振り返ると、人ごみの中から紺色のコートを着た子供が歩み出てきた。かぶったフードを目深にまで下ろし、顔を隠してはいるが、憤りを込めてこちらを睨みつけてくるそのあどけなさの残る顔立ちは、以前強化ガラス越しに対面したものと変わらない。

 少年Aだ。
 無事だったのか、と意外にも嬉しく思う気持ちで狡噛は微笑う。
 しかし少年は、狡噛のその反応を嘲笑とでも受け取ったのか、ますます苛立たしげに顔を歪めた。

「……あんたさ、先生がどんな気持ちでここを指定したのかわかってんのかよ」

 引き抜こうとしていたドミネーターから手を離し、狡噛は装備運搬用のドローンに軽く寄り掛かる。そんなセリフが少年の口から出てくるということは、みょうじは相当この少年に入れ込んでいたらしい。明瞭なことだ。でなければ自身の安全を引き換えにしてでも、少年を逃がしはしなかっただろう。――あるいは。
 狡噛はそこで一旦、思考を棚上げにする。

 駅前広場の外れには、覆面車と護送車が目立たない暗がりに停められていた。周囲に狡噛以外の刑事課員はいない。皆広場のあちこちに散っているのだ。今頃、転送された顔写真データと行き交う通行人を見比べては、神経を張り詰めさせているのだろう。

 そんなところに自ら進んで出てくるなんて。狡噛はうすく微笑って少年を見た。
「いいのか、ほいほい出てきちまって」
「よくねぇよ。でも見過ごせねぇ。俺らみたいなのを助けたせいで先生は殺されかけてんだ、大人しくなんかしてらんねぇよ」
 子供らしい青臭さで言い切った少年は、でも、と言って悔しそうに項垂れた。
「……わかってんだ。先生はバカじゃない。逃げるつもりならもっと上手くやる。こんな大事にしたりなんかしない」
 少年が顔を上げた。切羽詰まった表情で囁く。

「先生、死ぬ気だよ」

 狡噛の背後には覆面車と護送車が壁のように並んでおり、更にその背後には、広場の内外を隔てる植込みが敷地をぐるりと周遊するように連なっていた。ホログラムではなく、リアルの植物だ。その植込みと護送車が、広場外に比べて密度の濃い内の群衆を、そのざわめきを、壁のように吸い取ってしまう。だから足元に漏れてくる強い明かりだけが、広場内の喧騒を伝える唯一のものだった。

「わざわざスキャナーを破壊して回るより、もっと手っ取り早い方法があるんだ。あんたたち大人や、社会や、シビュラに、ダメージを与えて、困らせる方法」
 少年はまるで説得するような口調で言い募る。
「あんたたち大人は俺らみたいな若者が大事で、貴重な働き手だと思ってて、俺らも俺らで、人質に取れそうなもんは俺ら自身の命ぐらいしかないから――だから死ぬんだ。自殺する。それが一番手っ取り早い、反社会的な行為だって、先生は言ってた」

 狡噛は黙って足元の線を見つめる。

 少し時間は遡るが、今日の早朝、唐之杜から結果レポートを受け取った。調査を依頼していた、内部告発者の身元だった。
 ――どういう心境なのかは知らないけどさ、この子の手のひらの上で遊ばれてたってわけなのかしらね、あたしたち。
 ため息を吐く唐之杜の前で、狡噛は黙ってそのデータに目を落とした。こちらを真っ直ぐに見返してくる成人女性の写真画像。

 みょうじなまえ。彼女は自身の悪事を、自ら、匿名で密告してきたのだった。

 明瞭なことだ。自身の安全と、少年の自由。それを引き換えにする。引き換えにしても構わないぐらいに。――あるいは。

 あるいは、そもそもの始めから、彼女は。

「死ぬ気だよ、あの人」
 狡噛は黙って目を細めた。
「いいのかよ、あんたはそれで。恋人なんだろ? 好きなんだろ?」
 ひどく必死な声色に、微笑が零れた。みょうじがどうしてこの少年に肩入れをしたのか、今なら少しわかる気がする。

「……お前の場合はスキャナー破壊だったが、俺の場合は駆け落ちだった」

 少年が口を噤むのを気配で感じる。足元に目を落としたまま、狡噛は続けた。

「昔、今のお前よりもっとガキだった頃、好きな女がいた。ガキなりに本気だった。愛してた。だがシビュラには否定された。診断不可能とまでいわれた。最悪の相性だ。子供たちは無い知恵を振り絞って考えて、考えて、考え抜いたあげく、こんな生きにくいクソな世の中からは脱出しようと考えた。駆け落ちだ。どうなるかなんてわからない。でも何もしなければ大人たちに引き離される。必死だった、ガキなりに」

 逃げよう、慎也。瑞々しく濡れた瞳。

「俺は待ち合わせ場所に行って女を待った。ずっと待った。ずっと」

 目を閉じる。あの日の、幼い自分の姿がまなうらでゆっくりと浮かび上がる。行き交う通行人に目を走らせながら、逸る気持ちを宥めていた。不安と、緊張と、恐怖に、心臓が張り裂けてしまいそうだった。早く彼女に会いたかった。だから懸命に目を凝らしていた。

「……だが、女は来なかった」
「だから殺すのか」
 続きを攫うようにして少年が感情的な声をぶつけてくる。
「約束したのに来なかったから、憎んでるのか」
 狡噛は弱く微笑う。
「殺しになるかはわからねぇだろ」
「なるよ。なる。だって先生言ってた。俺らみたいなのに手を貸してるうちに、犯罪係数がエリミネーターレベルにまで上昇しちまって、もうどんな薬を使っても戻らないって、だから――」

 遮るようにして電子音が鳴った。手首のデバイスで内容を確認する。
 一読した狡噛が目を上げると、青ざめた顔をした少年が硬直したように立ち竦んでいた。一体今の音を何の結果だと思ったのだろう。子供の浅慮に、狡噛は微笑ってしまう。安心しろ、と言ってやれないところが辛い。

「ホシがスキャナーに引っかかった」
 手首のデバイスを指して狡噛は言う。
「お前らが壊しまくってくれたおかげで、ここらのスキャナー数は激減してんだ。見つけるのに時間がかかちまった」
 寄り掛かっていたドローンから体を離し、ドミネーターのグリップに手を伸ばす。
「仕事の時間だ。ガキは帰って寝てな」
 え、とでも言いそうな驚いた口調で、少年が呟く。
「……いいのかよ」
 狡噛は少年を横目で見る。
「お前こそ、それでいいのかよ。俺から逃げて、その後は? どうやって生きていく気だ」
「そんなのわかんねぇよ」
 むっとしたように少年は唇を尖らせる。
「でも、やってみなくちゃ、わからねぇだろ」

 動きを止めて、狡噛は少年を見た。郷愁に胸がざわめく。
 わからないけど。涙に濡れた瞳で呟いた少女の声。やってみなくちゃ、わからないよ。

 なぁ、と目の前の少年は、どこか困惑したような様子さえ見せる。
「もしかして情けでもかけてるつもりなのか? 自分は逃げられなかったから、俺のことは逃がしてやろうとか思ってるワケ? 冗談じゃない。だったらここで撃たれた方が百倍マシだ。俺はあんたの気持ちなんか背負わないし、背負えない。俺は俺のためにしか逃げないからな」

「……いいぜ、それで」
 何かに別れを告げるような気持ちで狡噛は微笑う。
「せいぜい逃げ延びな」

 少年は束の間こちらを見つめてから、不意に踵を返し、脇目も振らずに人ごみの中へ駆け込んで行った。

 しばらくその背を見送ってから、狡噛は改めて、ドミネーターのグリップに手を伸ばした。デバイスに届けられた、宜野座からの一報を思い返す。

 みょうじなまえが街頭スキャナーに引っかかった。人待ちをしている様子だ。どうする、狡噛。




* * *




「俺が単独で先行する」
「狡噛っ」
「場所を考えろ、ギノ。これだけの人通りなんだ、大人数で派手に動けば即サイコハザード、エリアストレス上昇につながる恐れがある」
「だから、そのためのホロコスで」
「ホロコスしたヤツらがわらわら向かってくるのが見えた時点で、ホシは逃げるぜ。そしてこの人ごみだ。一度逃げられたら捕まえられない」
「しかし」

 そう食い下がる声は血相を変えたように感情的だったが、通信相手としてホログラム表示されている写真画像は平素と変わらぬ仏頂面で、その落差に狡噛は少し微笑ってしまった。

 ギノ、と親しみを込めて呼びかける。
「こいつは、俺の獲物だ。俺にやらせてくれ」

 対して、デバイスの向こうの声は押し黙ってしまう。何か気に障るような言い方でもしただろうかと首を捻っていると、少しの空白を置いてから、ひどく苦々しい声が聞こえてきた。

「……佐々山が死んでから、少しおかしいぞ、お前は」

 その言葉を最後にホログラムの写真画像が消える。通信が切られたのだ。

 沈黙するデバイスを見つめながら、そうか、と狡噛は他人事のように思う。そうかもしれない、と。
 あの日から、狡噛の世界は加速度的に歪みと傾きを増している。このままではいつしか取り返しのつかない深みにまで落ちていく、そんな予感はあったし、狡噛の周囲にいる人間――例えば、宜野座は、そんな未来に手をこまねいているようだったけれど、狡噛はどうしても、周囲の言うように、長期療養を取る気にはなれなかった。
 確かに、自分は、どこかがおかしくなってきているのだろう。

 ドミネーターをヒップホルスターにセットし、着込んだ上着で覆い隠す。

 駅前広場の内側は、人いきれで息苦しいほどだった。ふんだんに彩られたホログラムの光の中で、老若男女の人々が忙しなく行き交っている。今日は何かのイベントでもあったのかと思うほどの人ごみだったが、乗降客数の多いこの駅では、これが日常茶飯事なのだという。
 人波の間を縫うようにして歩いていた狡噛は、やがて広場の一角に辿り着いた。モノトーンの箱と線がまぐわり合う奇怪なオブジェは、ホログラムで映し出されたものではなく、公認芸術家が作製したものだという。

 みょうじなまえは、そのオブジェの手前にいた。街頭スキャナーが探知した時のまま、重たげなボストンバッグを手に提げて、誰かと落ち合う約束でもしているかのように、時折近くの時計台と目の前の人波を見つめている。

 その姿に、かつての幼い自分の姿が重なったかと思うと、またそれはすぐに、瑞々しく濡れた目をした少女の姿に変わるのだ。
 過去が逆流する。現実との境目を曖昧に溶かす。
 狡噛は子供のような足取りで、残りの距離を走って詰めた。

 瑞々しく濡れた目が狡噛を見上げる。
「来てくれると思ってた」

 その微笑を受けて、ほとんど反射的に、彼女の手を取ってこの場から逃げ出してしまいたい、と狡噛は眩暈を覚えるほどに強い感情で思い、そしてそれとほぼ同時に、ヒップホルスターにあるドミネーターの重みを自覚するのだった。

 呻くような声で狡噛は言った。
「あいつに会ったよ」
「あいつ?」
「少年A」
 そう、と言ってみょうじは何でもないことのように微笑う。
「元気そうだった?」
「……監視官が、施設からの脱走者を見つけたって言ってんだぜ。しょっぴかれたとは思わないのか」
「だって、見逃してくれたんでしょう?」
 まさにその通りだったので、狡噛は何も答えられなかった。

 見透かしたような顔でみょうじは微笑む。
「あの子、昔の私と慎也に似てる」
「あいつが?」
「そう。だから最後の子は、あの子にしようって決めてたの」

 言って彼女は、こちらに片手を伸べてきた。
 狡噛は黙って、その手を見つめる。周囲の喧騒が、壁を隔てたように遠くに聞こえる。

 果たして、彼女は口を開いた。

「逃げよう、慎也」
「……どうやって」
「わからないけど、とにかく逃げなきゃ。そうしなきゃ、もう二度と会えなくなる」

 幼い少年が泣いている。歯を食い縛って泣いている。眼前に迫ってくる世界が恐くて、突きつけられた選択肢が恐くて、どちらを選べばいいのかわからなくて。
 自分の中の一部分を握り潰してしまうような気持ちで、狡噛は、ホルスターに手を伸ばした。ドミネーターのグリップを握る。

 みょうじは、そんな狡噛を淡々と見上げた。
「あなたのサイコパスも、このままにしておくと危ないよ。薬で誤魔化しているみたいだけど、その場しのぎの対症療法を続けてたって改善は見込めない。長期で休みを取って、セラピーに専念する療養期間を取らなければ、いずれあなたのサイコパスは手のつけようがないところにまで落ちてしまう」
 言いながらちらりと、捲れた上着から見えるそれに目を遣る。
「このままだと、潜在犯になるよ。それを握ることすら許されなくなる」
「だとしたら、今度は執行官として、こいつを扱うまでだ」

 反射的に言い切ってしまってから、狡噛は自分の言葉に自分で驚いた。そうか、と目の覚めるような気持ちで思う。――自分は、そうなってしまいたかったのだ。
 底の底まで落ちてしまいたい。傷めつけられるところまで自分を傷めつけたい。容赦なく、徹底的に、どこまでも。

「それがあなたのイニシエーション?」

 狡噛は束の間みょうじの顔を見返してから、いや、と首を振った。
 ホルスターからドミネーターを引き抜き、みょうじの顔に、過たず銃口を向ける。
 狡噛のイニシエーションは、おそらく、ここで終わるのだ。

 群衆の只中でドミネーターを引き抜いたというのに、動揺や混乱は起こらなかった。向かい合っている狡噛とみょうじを避けるようにして歩く通行人たちは、狡噛の手にある銃器に不思議そうな目を向けてくるが、表立って咎めはしない。不可思議そうな表情で、そのまま通り過ぎて行く。

「私を失えば、あなたは一人になるよ」
 ドミネーターを向けられているみょうじは、悲しそうに銃口と、それを握る狡噛を見つめている。
 汗で滑るグリップを握り直しながら、狡噛は震えそうになる声を叱咤してみょうじを気丈に跳ねつける。
「人はどこまでも一人だ」
「一人と一人で、二人になることはできるよ。でも私を失えば、あなたは独りになってしまう。永遠に、孤独な」
「ひどい自惚れだな」
「違う?」
 どこか疲労感さえ滲ませて、みょうじは弱々しく微笑んだ。
 狡噛は答えない。答えられない。
 ひりつく感情に胸が塞がる。幼い少年が泣いている。
 狡噛はそれを自身の杖とするかのように、ドミネーターの重みに意識を向けた。

「私の手を取って、慎也」
 ボストンバッグを足元に置いたみょうじが、お願い、と囁きながら、一歩、こちらに踏み出してくる。
 反射的に後ずさりかけてから、狡噛は理性でそれを押し留めた。
 幼い少女のような表情で、みょうじは狡噛に向かって手を伸ばす。
「私の魂を、独りにしないで」

「――だったらどうして」

 滑稽なほどに銃口が震えた。浅く早く呼吸を繰り返しながら、狡噛は感情を縺れさせる。
 **時、駅前。幼い少年。早く彼女に会いたくて。ずっと。
 狡噛は言葉を詰まらせた。

「……っ、どうして! あの日っ、ここに来なかったんだ!!」
「来たよ」
 反して、返ってきた声音はひどく落ち着き払っていた。
「来て、遠くから、慎也を見つけた。嬉しかった。来てくれたんだって嬉しくて、すぐに駆け寄ろうとして、気づいたの」

 ドミネーターの向こうから、二つの眼が、覗き込むようにしてこちらを見上げてくる。

「あなたは手ぶらだった。何の荷物も持ってなかった」
 恐ろしいぐらいに平坦な声が、狡噛の胸を深く抉り取る。
「ねぇ慎也。あなた、逃げるつもりなんてなかったんでしょう?」




* * *




 あの日は今日よりも人通りが少なくて、天気が悪くて、今にも雨が降り出してきそうな不穏な気配が世界のあちこちに満ちていた。
 駅前広場の待ち合わせ場所といえば、モノトーンの箱と線がまぐわり合う奇怪なオブジェの前と、少年と少女の間では暗黙の内に決まっていたので、それで少年はその日もオブジェの前にいた。

 **時。指定された時刻。少年は手ぶらだった。

 逃げるか、逃げないか。突きつけられた選択肢を、少年は取捨することができずにいた。
 感情のままに、後先を考えず、向う見ずな気持ちで選ぶのなら、少年は迷わず少女の手を取る。けれど、“しかし”、と叫ぶ声が少年の内側で警告してくるのだ。絶対に無理だ、そんなことできっこない、子供だけでどうやって生きていくんだ。少年は、自分がまだ子供であるということを自覚していた。まだ大人たちに守られなければ立ち行かない子供であることを、承知していた。

 でも、少女と会えなくなるなんて、そんなのはイヤだった。

 眼前に迫ってくる世界が恐くて、突きつけられた選択肢が恐くて、どちらを選べばいいのかわからなくて、少年はその小さな体の内側で巻き起こる、不安と緊張と恐怖に、心がばらばらに張り裂けてしまいそうだった。
 早く彼女に会いたかった。いつものように、何かの本の引用でもして、尤もらしい言い訳をつけて、少年のことを説得して欲しかった。決めて欲しかった。少年がこれからどうすれば良いのかを。

 だから待った。ずっと待っていた。でも少女は、姿を見せなかった。




* * *




「迷ってたんだ」
 全身から力が抜けていくかのようだった。辛うじてその場に踏み留まることはできたが、ドミネーターを握る狡噛の腕はだらりと垂れ下がってしまう。
「どうすればいいかわからなかった。逃げ出そうと準備する度胸まではなくて、でもお前に会って、お前が、いつもみたいに俺を説得してくれていれば、俺は」
 我ながら笑いたくなるぐらいの主体性のなさだ。けれどあの頃の少年にとって、少女はそういう存在だったのだ。

 紙のように白い顔をしたみょうじが、ぽつりと呟く。
「……そうしていれば、こんなことにはならなかった?」

 狡噛は答えることができない。

 狡噛の反応を見ていた彼女は、やがてうすく微笑んだ。
「……やっぱり、私たちの相性って、最悪なのね」

 そして大胆に距離を詰めてくる。ぎょっとする狡噛の腕を取って、彼女は自分の額にドミネーターの銃口を押し当てた。

「これでわかった。シビュラシステムは正しかったんだよ」
 どこか励ますような口調で、彼女は言った。
「間違ってたのは、私だった」

 狡噛は瞠目して彼女を見つめる。

『犯罪係数350、執行モード、リーサルエリミネーター』
 ドミネーターの指向性音声が狡噛の中に流れ込んでくる。
 みょうじはドミネーターから手を離した。しかし狡噛はドミネーターを下げない。

『慎重に照準を定め、対象を排除してください』

 ――それがあなたのイニシエーション?

 集中電磁波の光が一瞬だけ辺りを強く染め上げた。一泊遅れてやってきたのは、舞い上がっていた血飛沫や臓物の自由落下で、それは先の光よりも濃く、臭気と粘液を孕んで辺りを真っ赤に染め上げた。

 道行く通行人たちが立ち止まる。注視する先にあるのは、スーツ姿で立ち尽くしている血まみれの男と、その男の手に握られている見慣れぬ物体だ。そして男の足元に転がっている赤黒いものは、確か先程まで女性の姿をしていなかっただろうか。

 奇妙な静寂の中、人々の間で無言の内に広まった疑惑はやがて確信となり、誰かが上げた叫びを皮切りにそれは大恐慌へと変じていった。

 あられもなく泣き叫ぶ剥き出しの感情を耳にしながら、狡噛は足元に転がっている物体を黙って眺める。かつて彼女だったものは、もう面影もないぐらいにばらばらに粉砕され、狡噛の足元で静かに横たわっている。

 耳をすましても、幼い少年の泣き声はもう聞こえなかった。

 狡噛は大人になったのだ。
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