1 | ナノ
※一部オリキャラが登場
※一部性的およびグロテスクな表現有



「狡噛監視官はイニシエーションというものをご存知ですか」

 先を歩く女性が、肩越しに振り返ってこちらを見る。清潔な白衣の裾を翻し、ピンヒールの高い足音を緩ませることなく歩く女性の名前は、みょうじなまえ、救急セラピーセンターで働くセラピストだ。
 ゲスト用のIDカードを首に下げた狡噛は、少しだけ考えるような素振りを取る。

「……成人儀礼……いや、通過儀礼、でしたか」
「ええ、そうです。成人儀礼。割礼や抜歯、狩猟や刺青など、非日常的な儀式を通して、子供から大人へステップアップする体験のことを指します。もっとも、今上げたような例は、大昔に行われていたものばかりですが」
「現代にもあるでしょう。成人式がそれに当たるのでは?」
「そうですね。ある一面では。しかし、本来イニシエーションというものは、痛みを伴い、また命がけで遂行されるものなのです。昔の子供たちは自分自身を賭し、命がけで、大人になろうとしていた。そのぐらいでなければきっと、子供から大人へのボーダーを突破することはできなかったのでしょう」

 そう話しながら彼女は廊下を右に折れた。狡噛もその後に続いて角を曲がる。目を射るほどにクリーンな白が、延々と先まで伸びていた。
 救急セラピーセンターの施設内は、どこもかしこもが清潔な白、あるいは温かみのあるピンク色で、同じようなデザインにまとめ上げられていた。それは施設内の構造にとっても同様で、毛細血管のように細かく枝分かれした廊下は、どこをどう通っても先程と変わり映えがないように思えた。出口のない迷宮を歩かされているような気分になるが、掲げられているホログラムから読み取るに、この辺りはどうやら職員たちのオフィスやラボの並んでいるセクションのようだ。

 時折すれ違う、白衣姿や制服姿の職員たちと会釈を交わしながら、それにしては活気の乏しい職場だと狡噛は考える。この救急センターに公用車で乗り込んでから、耳にするものといえば、施設全体に流れているらしいリラクゼーションミュージックぐらいのものだった。
 そう考えてから、いや、と狡噛は首を振る。先を歩く女性の背中に目を向けた。ロビーまで狡噛を出迎えに来てからこちら、彼女は流れる水の如く、淀みなく言葉を重ね続けていた。まるで沈黙を恐れるかのように。

 緊張しているのだろう、と狡噛は彼女の背中を観察する。もちろん、狡噛自身も緊張していた。

「つい先日、セラピーの一環で、高校の普通科にお邪魔する機会があったんです。私はそこで生徒たちに尋ねてみました。もう若くないと思う人? ――大多数の子供たちが胸を張って手を上げていました。そして、これはまた別のセラピストの話になりますが、定年間近の五十代の大人たちに質問をしたそうなんです。自分はまだ若いと思う人?」
 ピンときた狡噛はその先の言葉を攫った。
「大多数が手を上げた?」
「そうです」
 肩越しにこちらを見たみょうじの目には、興味深そうな光が宿っていた。
 狡噛は大きく頷いてみせる。
「面白い。逆になっている」

 頷きを返したみょうじは、黙って速度を緩め、狡噛と肩を並べてきた。瞬間、ドキリと心臓が鳴ったが、表面上では顔色を変えずに、狡噛は隣の彼女を見下ろした。随分と小さく感じてしまうのは、あれから優に十年以上も歳月が経ったせいだろう。あの頃はまだ成長期前で、狡噛とみょうじの身長には差がなかったのだ。

「……本来一人の人間の中には、老若男女全ての顔があるものだと私は考えています」
 廊下の先に目を向けたままみょうじが口を開く。
「しかしその“顔”たちは――男らしさや女らしさといった――ステレオタイプのバイアスや、種々の通過儀礼によって、明確にボーダーを設定され、折り目正しく箱に収められ、そして不要な“顔”については無いものの如く扱われた――それが昔の話です。現代ではジェンダーフリーや成人儀礼の消失によって、そのボーダーが非常に曖昧になってしまった。少女性を捨てきれない女性がいたり、老成した子供がいたり、男のような女がいたり……」
「ボーダーレスの時代ですか」
「そうです。そしてあの少年たちは、恐らく、それに抗おうとしたのでしょう」
「つまり?」
「成人儀礼というものは本来ならば大人たちが用意するものです。しかし大人たちは一向にそんな気配を見せない。大人たちが用意してくれないというのなら、俺たちは俺たちなりでイニシエーションを行ってみせる…」

 狡噛は眉を上げた。

「……その結果が、街頭スキャナーを破壊して回ることだった、と?」
 皮肉気な声にも関わらず、頷くみょうじの顔色は変わらない。
「成人儀礼は命がけで行わなければならないものですから。多いんですよ、あの年頃の子供たちには。自傷に走る子や、引きこもりになる子もいますしね」

「……駆け落ちを企てる子も」

 それは口の中で呟くように小さな声だったので、もしかするとヒールの足音に紛れて、みょうじの耳にまでは届かなかったのかもしれない。しかし、わずかに一瞬だけ、会話のテンポが遅れたこともまた、事実であった。

「……反社会的とも取れるような行為と、イニシエーションには密接な関わりがあるんです」
 続けられた声は、物を読み上げているかのように色のない声だった。狡噛は隣の無表情を見下ろす。
「では、我々公安は、時代の犠牲になった憐れな子供たちを、それと知らずに問答無用でしょっぴいてしまったというわけですか」
「そうですね。それがあなた方の仕事ですから」
 迎え撃つ声に動揺はない。
「そして我々は1次センターの職員です。ここでサイコパス改善の見込みがなければ、子供たちのことを2次センターである更生施設に送らなければなりません。更生施設の実態についてはご存知ですね? 我々は出来得る限り、ここで患者たちを食い止めなければならない。そのためにはまず、患者たちの傍に寄り添うことが不可欠なのです」
「わかりますよ。あなた方の仕事はナイチンゲールだ。我々とは違う」
「しかしここにいる以上、あなたにもナイチンゲールになっていただく必要があります」

 不意にみょうじがこちらを見上げた。音がしそうなほどにはっきりと目が合う。知らず、肌が粟立った。

「狡噛監視官。今の話を念頭においたうえで、彼と面会をしてくださいますね?」
「……」

 狡噛は黙って両手を上げてみせた。元より、郷には従うつもりだ。
 前方から制服姿の職員がやって来る。みょうじは狡噛に少し待っているように言い、小走りでその職員の元に向かって行った。面会、という言葉が洩れ聞こえてくる。

 狡噛はじっと、みょうじの背中を見つめていた。

 不意に、手首に巻いている時計型のデバイスが小さく震えた。メールだ。内容を確認した狡噛は、あまりの馬鹿馬鹿しさにもう少しで声を上げて笑ってしまうところだった。

「狡噛監視官。面会の準備が整いました。どうぞこちらへ」

 振り返ったみょうじが自分を呼ぶ。メールを消去した狡噛は、ポケットに手を突っ込んでからそちらに向かった。
 それはシビュラシステムからの適合診断結果だった。診断不可能。つまり精査する必要もないぐらいに低い適合率であることを示すそれは、言ってしまえば異性との相性診断ツールだ。

 診断不可能。狡噛とみょうじの相性は、十年以上経った今でも変わらず、最悪の結果を叩き出す。

 みょうじの傍にまで近づくと、頷いた彼女が先に立って歩き始めた。今回ばかりは、それを有り難いと狡噛は思った。制服姿の職員に会釈をしてから、その背中を追いかける。

 再び、彼女が何かを話し始めたようだったが、ぼんやりとしてしまってよく聞き取ることができない。
 診断不可能。素っ気のない五文字が自分の頭の後ろをついて回るのを感じる。
 愉快がる自分がいることは事実だった。実際、狡噛の口許には笑みさえ浮かんでいた。しかし本当のところでは、自分があの診断結果をどう受け止めているのか、自分の気持ちのことだというのに、狡噛はよく理解することができずにいた。

 しかし、一昔前の自分なら、と狡噛は思う。もっとごく単純なこととして、悲しみを表出させていただろう。
 相変わらず白い廊下は、細かく枝分かれを繰り返しながらぐねぐねと先へ伸びている。
 ――もっとごく単純なこととして、まるでこの世の終わりを宣告されたかのように、驚き、動揺し、嘆き、悲しむのだ。

 いつの間にか、自分の頭の後ろには少年時代の狡噛がいた。泣き出しそうな顔をした幼い少年が、自分の後ろをついて回る。
 先を歩く白衣の背中を見つめた。
 そして、そんな少年に、少女は囁くのだ。同じく動揺し震えきった声で、それでも意志のこもった瞳で。

 逃げよう、と。




* * *




 ――逃げよう。

 握り締めてくる手は痛いほどに強かった。でもそうしなければ立っていられないほど、子供たちは狼狽していたのだ。
 少年は、自分と同じ高さにある少女の顔を見つめた。思い詰めた瞳は、涙できらきらと光っている。

 ――どうやって?
 ――わからないけど、とにかく逃げなきゃ。この診断結果、パパとママの所にもいってるはずだから、きっとすぐに引き離されちゃう。私は全寮制の学校に入れられるかもしれない。そういう話が出てたから。
 息を呑んだ少年と目を合わせ、少女は沈鬱な面持ちで呟く。
 ――そうしたら、もう二度と会えなくなる。
 だけど、と少年は、この非日常的な提案を現実の側面から考えてみる。
 ――逃げて、その後は? 俺たちだけでどうやって生きていくんだ?

 途方もない話に思えた。出来事があまりに大きすぎて、全貌を窺うこともできない。壮大すぎて眩暈がする。絶対に無理だ、そんなことできっこない、と警報みたいに喚き散らす自分が、頭の中のどこかにいた。
 わからないけど、と少女は煮え切らない答えを繰り返す。

 その時、車寄せの砂利を跳ね飛ばす音が聞こえてきた。少年と少女はハッと背筋を強張らせ、耳をすませる。握り合っている手に汗が浮かんだ。

 ――やってみなくちゃ、わからないよ。
 囁くような声で少女が言った。そろそろと立ち上がり、部屋の外の様子を窺う。そうして立ち尽くしたままの少年を振り返った。

 ――逃げよう、慎也。明日の**時に、駅前に来て。
 ――けど、なまえ。
 ――待ってる、ずっと待ってるから。

 駆け出して行った背を少年は見送る。心臓が不穏に粟立ち、少年は薄い胸を大きく波打たせた。絶対に無理だ、そんなことできっこない。

(でもそうしなきゃ二度と会えなくなる)

 歯を食い縛って少年は泣いた。眼前に迫ってくる世界のことが、恐ろしくて恐ろしくて仕方なかった。




* * *




 ピアスを空けようと思ったんだ、と出し抜けに少年は言った。患者衣姿の少年は、虚勢を張るかのように腕と足を組んでいる。

「ピアス?」
 繰り返しながら狡噛は椅子を引いて、そこに腰を下ろした。強化ガラスが、さして広くもない面会室を二つの個室に間仕切りしている。
 透明な壁の向こう側で、まだあどけなさの残る顔が鷹揚に頷いた。
「そうしたら親に止められた。親から貰った大事な体を傷つけるなって」

 面会室には、まず主治医であるみょうじが入室した。そこで少年に、面会希望者のパーソナルデータと、この面会の主旨を説明したうえで、入れ違いに狡噛が入室したのだ。
 経過報告書の作成のため、と面会申請書に記載した内容を、恐らくみょうじはそのままに伝えたのだろう。もしかすると併せて提出した質疑のアウトラインについても、掻い摘んで告知したのかもしれない。何故なら少年はこちらが質疑を始めるよりも先に、さっさと応答を始めたからだ。

 当時を振り返って、今思うことは?

「確かに俺はさ、親あっての俺だぜ。この手も足も心臓も全部親につくってもらって、親から貰ったもんだ。でも今は違う。そうだろ? 今この手と足と心臓を動かしてるのは親じゃない、俺なんだ。……そう言い返してやった時に思った。じゃあ、この世界で、本当に、これは俺の、俺だけのものだって言えるのは、今ここにある俺の体ひとつきりなんじゃないかって」
 そっぽを向いたまま少年は滔々と話し続ける。特に口を挟むこともなく、狡噛は黙ってその幼い頬の輪郭を眺めていた。
「だから俺は、俺を人質に取ることにしたんだ。この息苦しい世界に対して。何でもかんでも機械に決めてもらわなきゃいけないこの世界に対して。だっておかしいだろ、誰かを好きになるのにも機械の許可が必要なんてさ。俺は、どうしてあんたたちがこんな世界で平気にしてられるのかわからないよ」

 狡噛は、膝の上にある自分の両手を見下ろした。
 適合診断。診断不可能。
 十年以上を経ても変わらないその結果は、システムの確実性と信頼性を如実に物語っている。疑問を差し挟む余地もない。
 しかし、両手を透かして浮かび上がってくる先刻の診断結果は、狡噛の瞳に焼きついて離れなかった。

「スキャナーじゃなくても良かったんだ。別の何かでも良かった。あんたたちを困らせられるのなら何でも。ま、捕まちゃったわけなんだけどさ。でもおかげであんたたちは、貴重な働き手を何人も失うハメになったんだ。どっちにしたって俺らの勝利ってワケ。ご愁傷さま」

 そう言って、少年は皮肉気に片頬を歪めてみせた。狡噛は顔を上げ、目を細める。
 確かに少年たちは目論見通り、社会に対して一矢を報いることはできただろう。しかし失った代償はあまりに大きいはずだ。パラライザーで制圧され、更生施設に送られかけている。社会復帰は望むべくもない。それなのに少年たちには頓着した様子がなかった。人質である自身の価値については承知していても、望む結果が手に入るのならば、人質がどうなろうと知ったことではないのだろう。彼らは自身を顧みない。
 そんな子供たちを指して、反抗期をこじらせたクソガキ、と嘲笑することは簡単だった。実際、少し前までの狡噛ならば、そのような目で彼らのことを見ていただろう。青いばかりで、社会の実情を何も知らない、愚かで憐れな子供たち……。

 囁く声がよみがえる。
 ――逃げよう、慎也。

「なぁ」
 強化ガラスの向こう側で、少年が訝しそうな顔をしている。
「あんたさ、何かあったの?」
「…何か?」
 だってさ、と言ったきり、少年は口を噤んでしまった。ただ探るような目をこちらに向けてくる。
 その視線から逃れるように、狡噛は片手で顔を覆った。何かをしたわけではないというのに、疲労を感じるのはどうしてなのだろう。

「あんたさ、俺目当てで来たわけじゃないだろ」
 不意に少年が口を開いた。
「俺のことは口実だろ。本当は何しに来たんだよ」
 妙に確信のこもった声だ。笑い飛ばしてやろうとして、結局失敗してしまった狡噛の顔を見据えながら、少年は小さく呟いた。

「本当の目的は先生だろ」

 彼が先生と評する人間は、主治医以外に置いていない。

 狡噛は立ち上がった。
「また来るよ」




* * *




 面会室を出た先の周囲に、みょうじの姿はなかった。どうしたものかと立ち止まっていると、近くにいた警備ドローンがすべるように近づいてきて、サインが欲しいので私の研究室まで来て欲しい、といった内容を、みょうじの音声で告げてきた。頷いた狡噛は指示されたルートをデバイスに入力し、手首のマップと目の前の廊下を見比べながら、みょうじのラボに向かった。
 変わり映えのしない迷路のような廊下を右に左に歩かされ続けた挙句、ようやく到着したドアもやはり、今まで通り過ぎてきたドアと全く同じように思えたが、浮かんでいるホログラムにはみょうじなまえの文字が見える。

 スーツの上から心臓を抑えて、狡噛は少し息を吐いた。――サインなんて、どこででもできる。わざわざラボにまで呼ぶようなことじゃない。

 逸る気持ちを殺しながら、一歩足を踏み出して、セキュリティ・アイに姿を晒す。ドアの脇に取り付けられている機械が、狡噛の色相とパーソナルをチェックし、クリアであることをマスターに告げる。少しの間を挟んでから、どうぞ、という声がドア越しに聞こえてきた。

 中に入った狡噛は、少なからず驚いた。大型のコンピュータや配線コードで溢れる室内には、同時に、たくさんの書籍が散在していたからだ。それはデッドメディアと呼ばれる類のもので、文字通り既に死に絶えた文化であることを指す。それを今でも好んで手にする人間なんて、一部のコレクターか、余程の変わり者ぐらいしかいなかった。
 ああ、だが、と狡噛は、ひたひたと近づいてくる記憶に思いを馳せる。みょうじなまえは、確かにそういう子供だった。

 室内には明かりがなく、デスクの向こう側で広がる窓と、そこから射し込む陽光が唯一の光源だったが、生憎と天気は曇り空で、だから室内は霞がかったように暗んでいた。
 みょうじはデスクの前で、そしてそこに軽く寄り掛かかるようにして立っていた。薄暗い室内のせいで、みょうじの顔には影が落ちている。
 郷愁に胸がひりついた。そうだ、彼女は昔から、そういう“影”を持っているような女の子で、幼い自分は、彼女のその部分に惹かれたのだった。

「いかがでしたか」
 淡々とした表情と声色にそう尋ねられたが、込み上げてきた感情に胸が圧されて、とてもではないが何かを言えるような状態ではなかった。それで、黙って首を横に振ったのだが、それをみょうじはどう解釈したのか、そうですか、とやはり淡白な調子で呟いて、それきり黙り込んでしまう。

 リラクゼーションミュージックが、どこか遠くから聞こえてきていた。

 不意に、学校のことを思い出した。小学校の放課後だ。遅くまで学校に残っていると、こんなふうに、どこか遠くから、人の声やピアノの音が、薄暗い室内に沁み込むようにして聞こえてきていた。

 過去が逆流する。現実との境目を曖昧に溶かす。

 彼女は、サインの話を切り出さない。待っているのだ、と狡噛は思った。

 だから狡噛は口を開いた。

「みょうじ先生。ひとつ伺っても構いませんか」

 目線を上げた彼女がこちらを見る。
「ええ、何でしょう」
「成人儀礼のなかった子供は、どうなりますか」
「それこそ、ボーダーレスでしょう。ステップアップがなかったわけですから」
「子供のような大人になる」
「いいえ、そんなふうに分かりやすいものではなくて……」
 珍しく、彼女は言い淀んだ。額に手を当て、どこかから何かを絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
「……常識も、社会性も、あるんです。ぱっと見では、いっぱしの大人の顔をしている。けれどその内面では、自分のことを大人だとも子供だとも思えず……」
「では、成人儀礼に失敗した子供は?」
「……」

 今度こそ、みょうじは黙り込んでしまった。
 それには気づかない振りをして、狡噛は質問を重ねる。

「先生は、お済みですか。成人儀礼」
「……いいえ」
「奇遇ですね、俺もです。しかし、俺の場合は、失敗したんです。当時好きだった女性と、駆け落ちをしようとして…」

 さっと何かに遮られるようにして、室内が一層暗くなった。太陽が分厚い雲にでも覆われたのだろうか、と窓の外に視線を向けていると、掠れたような声で彼女は言った。

「……今、その女性は?」
「さあ。わかりません。それを境に、連絡が取れなくなったものですから」
 しかし、と言葉を継いで、狡噛は俯いている彼女を見つめた。
「……もしかしたら、どこかのセラピーセンターで、セラピストとして働いているのかもしれません」

 いくら待っても、彼女は何も答えなかった。
 だから狡噛は言ったのだ。

「なまえ」

 果たして彼女は肩を揺らし、動揺を露わにした。

 どこか深いところから、どっと感情が溢れてくる。勢いづいた狡噛は足元のコードや書籍を蹴飛ばすようにして距離を詰め、強い力で彼女の腕を掴んだ。引き寄せて、向き合わせ、間近から声を重ねる。自分でも驚くほど切羽詰まった声だった。

「なまえ、俺は――」
「言わないで」

 ひどく感情的な声が返ってきた。見ると、なまえは思い詰めたような瞳でこちらを見上げていた。潤んだ瞳がきらきらと光っている。

「お願い、何も言わないで」

 囁くような声で懇願し、狡噛の頬に手を伸ばしてくる。

 悟った狡噛は体を屈め、彼女のその柔らかな唇を、十年以上ぶりに受け止めた。




* * *




 セックスという行為については、知識としては了解していたけれど、それはとても漠然とした把握の仕方だったものだから、細かな手順や留意すべき点については何もわからなくて、結局少年と少女は下着姿でぴったりとくっつくことしかできなかった。
 ベッドの上で横になったまま、他愛もない話を繰り返しては、時折、触れるだけのキスをした。
 当時の子供たちの口癖は、早く大人になろう、というもので、実際たくさんの儀式に取り掛かってみたけれど、あまり成果は上がっていなかった。

 ――ねぇ。
 くすくすと微笑いながら少女は囁く。
 ――魂ってどこにあると思う。
 ――たましい?
 すぐ目の前にある少女の顔を見つめながら、少年はうーんと首を捻る。
 ――心臓……あ、脳かな。
 ――皮膚だよ。
 ――皮膚?
 ――ミシェル・セールっていう人はね、魂とは、皮膚と皮膚が接するところに生まれるって言ったの。

 また何かの本を読んだんだな、と少年は思ったけれど、口にはしなかった。デッドメディアであるペーパーブックを好む少女は、同じように古い書籍を好んで読んでいた。百年以上前の、もうほとんど化石になりそうな書籍を発掘しては、のめり込むようにして読み耽るのだ。
 だから彼女はとても物知りだった。そんな彼女の薀蓄を聞くのが、少年は好きだった。自分の中の方向性を定めてくれるようなところが、いいと思っていた。少女の知識の範囲には、偏りがあったけれど。

 ――閉じてる唇とか、閉じてる瞼とか……。
 そう言いながら、少女は少年の手を取り、そこにそっと指を絡める。
 ――こうやって、誰かとつないだ手とかに、魂は生まれるんだって。

 少女の手のひらはやわらかく、ただ手をつないでいるだけだというのに、他人と触れているというたったそれだけのことで、少年は満たされるような充足感を覚えた。

 ――気持ちいいよね。誰かとこうしてるのが気持ちいいのって、きっと、魂と魂が触れ合って震えてるからなんだよ。自分一人でも――閉じた唇とか、閉じた瞼とかで――魂を感じることはできるけど、それは一人の魂だから。……私の魂。一人きりの、孤独な。

 少女の瞳に憂いがよぎる。少年は、少女にそんな顔をさせたくないと思い、そしてそれと同じぐらいに強く、その影をもっと見ていたい、とも思ってしまうのだった。

 でも、と言って少女は微笑う。
 ――こうして、誰かと手をつなげば、つないだ手のひらの上で、孤独な魂たちは出会うことができる。出会って、触れ合って、嬉しくて震えるから、私たちも気持ちが昂って、気持ちいいって感じたりするんだよ。

 孤独な魂、と少年は繰り返した。少年と少女の、それぞれの。

 ――魂と、魂。
 ――“私”と“あなた”の間にある溝を、埋めることはできなくて、きっと私たちは永遠に孤独な魂だろうけど。

 まるで神聖な誓いをするかのように、少女は少年の唇に、触れるだけのキスをした。

 間近で微笑む少女の瞳は、瑞々しく濡れている。

 ――手を伸ばせば、触れ合うことはできる。孤独な魂たちを、触れ合わせて、震わせることはできるんだよ。
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