1 | ナノ
私は槙島という男にひどく惚れていた。

私はセーラー服の学生で、彼は白いワイシャツの似合う大人の男だった。いつの日かのありきたりな毎日にするりと紛れ込んできた、濁った色の人々の中で一人、私の目を奪った白色。彼は人間の中でも特別な人間だと、そうなぜか直感した。彼と出会わなければ、と私は使命めいた強い思いを抱いたのは覚えている。その後はあまり記憶にない。彼の目を引くような異質な行為をしたのか、それとも恥じらいながらも彼に声をかけたのか、どちらでもないような気がする。ただ、鮮明に蘇るのは彼の目の前で崩れ落ちて涙している自分だった。槙島のいつでも真っ直ぐに世界のあり方を見定めようとする琥珀色の瞳の前に、私は自分の一切合切全てを吐露して泣きじゃくったのだ。シビュラ・システムに支配されている社会とそれに染まりかけている自分が気持ち悪い、機械とデータでつくられた何もかもが嘘みたいで信じられない、そして、何よりも逃げ出したいと。槙島は何も言わずに私を見て、その手を差し出した。

「僕のところへ来るといい」

その一言で私の世界だったものを全て壊して、リセットした。思春期に差し掛かった女学生の世界など、槙島の手によって簡単に崩されてしまう未熟なものだった。それからというもの私は彼の家に居座ることを許された。もう学校にも自宅にも戻っていないのに相変わらずセーラー服で、そして簡素なデザインのくせになぜか高価なソファーで(槙島は定職がない割には金持ちだった)ごろごろと毎日を惰性で潰している。逃げ出して、それからそこから動けずにいる私に対して、槙島は寛容だった。

「あ、あれー、おかえり槙島」
「ただいま」
「…ねぇねぇそれおみやげ?」
「いい子にしてたならあげよう」

してました!と言うと両手で抱えるぐらいのショップ・バッグが私に受け渡された。今やホログラムが衣服として主流だという中、本物の衣服は高価だというのに、私が我が儘を言えば槙島はそれを簡単に叶えてしまう。槙島を困らせるのは不可能だった。どんな要求を突きつけても彼がため息をつくことも、眉をひそめることもない。そんなところに彼が私よりずっと年上の男だと感じると同時に、ひどく居心地の悪さを感じた。私は槙島の前では子供でいることを認められていたから。大人になれ、と散々言われて辟易していた私はそれを嬉しく思えるはずなのに、槙島から、大人になれ、という声が何一つないのが不安で、不満だった。

「またその本読んでるんだ」
「ああ。君も読みたい本があるなら取り寄せてあげるのに」
「私はいいの。文学の知識なんて私空っぽだから」

思わず拗ねるようにそう口にすると、ソファーに座っていた槙島が、自分の部屋に戻ろうと階段に足をかけていた私を振り向いて優しく笑う。そして、また活字に目を戻した槙島の横顔にぎゅうと心臓を掴まれた私は、そっと彼の後ろに忍び寄った。首に腕を巻き付けて彼の読む本を覗き込む。槙島はただ読み続けた。そう、私が彼を呼び捨てにしても、どんなものをねだっても、媚びのある手つきで彼にすり寄っても、彼は私を咎めようとしない。きっと、同級生だった男子生徒なら顔を赤らめるぐらいはしてくれたろうに。槙島はいつもみたいな微笑を浮かべた顔で私を見上げた。「どうしたのかい」「別に何もー」女を連れ込んだりしない槙島に対して、私の嫉妬の矛先はいつも彼の手の中にある本だった。私の好きな指先がゆっくりとページを開くのはまるで恋人の頬を撫でるかのようだったし、ひとつひとつの言葉を追うその真摯な視線は恋人を見つめるみたいだから。

「僕はもう寝るよ、明日からやるべきことが多いからね。おやすみ」
「おやすみ。…ねぇ私も連れていってくれないの」
「危ないから連れていかないよ。君は家でおとなしくしていて」
「分かった」
「欲しいものでもあるのかい」

「無い」と言い切った私をすこし珍しい顔で見ると、槙島は机に本を置いてソファーから立ち上がった。入れ替わるようにしてソファーを占領した私はそっと本に手を伸ばす。数ページ目をやると私は本から手を引っ込めてしまう。私には槙島が読んでいた本を理解することができなかった。著者の主張だとか、文章に込められた意味、抽象的な表現、それらの全てが私を拒絶しているみたいだった。悔しく、思う。私には結局槙島がその心を委ねる文学の世界には住めない。そして槙島は私に学を教え込もうとはしないのだった。ふと私は思った、きっと槙島のところにいたら自分はずっと子供なんだろうなって。ここから自分の意志で出て行こうとするのを槙島は待っているのかもって。大人と子供の狭間で揺れる私を、槙島は優しくその手で引き留めているに過ぎない。そして、私はその手を振り払おうとしていない。彼はまだ私を認めてくれてはいない。彼をはねのけて、ここを出て、自分の好きに生きればいい。でもそれができない、槙島は私に蜜を与え続けて甘やかしてしまったから。

「大人ってさー、ずるいよね」
「そんなことないよ」

背後で槙島がそう言ったのが聞こえた。そうかな。私の、恥じらいもせずに隠しもしない、まるで裸婦のような恋心に気づかないふりをする槙島はずるいと思う。それでも、機嫌を取るように私の髪の毛を一束掬う槙島に胸が疼く私は、いまだに成長も、彼の元から抜け出すこともできなさそうなのだ。
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