独特な匂いが鼻孔をつく。嫌で厭で仕方なかったこの匂い。なのに何故だろう??今では当たり前の様に感じてしまうのは。とどのつまりは私の気が触れてしまった証明の他ままならない。
「何、考えてる??」
グリュっと小気味が悪い音を立てたのは、紛れも無い私の右腕。ああ、遂に右腕ももげてしまった。
「はなこは痛いのが好きだね」
そう言いながらもげた右手の指を優しくなぞり、一本ずつ壊していく。一本一本、ゆっくりと、だけど確実に、在らぬ方向へと曲げては折っていく。手折られた指は既に原形を留めていなくて、何故かそんな形態になった右手が酷く滑稽に思えた。
「お前は、綺麗過ぎる」
突如感じた首筋の熱。この温もりはは間違いなく私の体液。ドクドクドクドクと脈を打ちながら溢れていく。とめどなく流れる鮮血は首筋を伝い、彼の右手をグロテスクに濡らす。
「だから、壊すんだ」
触れてしまえば汚れてしまいそうで怖い。そんな不可解な言葉を口にしたのは、散々私の躯を弄んだ天使の顔した悪魔。憎くて、憎くて、憎くて、出来るものならこの手に掛けてしまいとまで思った唯一の人。私を、私じゃなくした。人としての権利の全てを、剥奪したこの男を、私は殺したくて仕方なかった。
…なのに。
「はなこ、はなこ…」
どうしてこの人は泣くのだろう。泣きたいのは私の方。散々な扱いをこの身に余る程に受け、痛みを痛みとも感じぬ様な神経を手に入れ、人として最も大切な何もかもを奪われた。なのにこの人は、泣く。全てを懺悔する様に、だけど全て諦めてしまう様に。
「はなこ、…?」
毎日奮われる暴力は畏怖でしかなかった。同意のない性交には、度々精神が追い詰められた。光が入らぬこの部屋で、幾度も助けを求めては、無駄な行為なのだと自分で希望の全てを捨ててきた。四肢に感じる鎖に触れては、逃げられぬのだと絶望した。
なのに、どうして、
「…泣いてる、?」
頬を伝う涙の理由が判らない。痛さ故の涙なのか、逃げられぬ絶望故の涙なのか、それさえも自分ですら判らない。だけど私は泣く、泣く、泣く。
視界が霞む片隅に捕らえた哀れな人。ああ、きっと私は気付いてしまった。気付きたくなかった、知らないフリをするつもりだったのに。
そっと手を伸ばした。走る激痛などものともせず、原形すら留めていない肉の塊と化したかつて腕であったものを。さ迷う私の右手に宛がわれた彼の右手。
初めて触れた、初めて感じた彼の熱。温かくて、哀しくて、だけど何故か苦しくて。涙はとめどなく溢れるばかり。
胸の奥からは溢れんばかりの憎悪と、微かに感じる憐憫の情。この人は、私がいなきゃ生きていけない。そう、気付いてしまった。この人は私が全てなのだと。本当は弱くて小さな人なのだと。
そう思えば涙は先程以上に溢れた。愛の表現の仕方が判らない、幼くて不器用な人。想いの全てが狂気に満ち溢れているのに、それでも彼が求めるのは私だけ。
きっと彼は今日も壊す。明日も明後日も、これから先の見えぬ未来まで、ずっとずっと私の何かを壊し続ける。私が私でなくなるまで、私が私ではない何かに変わり果てた後もずっと。
それが彼の想いだと言うのなら別に構わない。彼を哀れだと感じた私は、きっと逆らうことさえしないだろう。この身が朽ちて腐敗していこうとも、屍と化してでも私の全てを捧げ続ける。
行き着いた先は闇
(可笑しくなった思考、例え闇の中でも最後の絶望は貴方だけだから)
20100522