タッタッタッタッ。地面を何度も何度も蹴っ飛ばす。右足を宙に浮かせて左足で地面を蹴っ飛ばす。今度はその逆。ひたすらそれの繰り返し。おろしたてのパンプスはヒールが高くて走り難かったが、そんなことを気にかけてる場合ではない。走る、走る。わたしは走る。


徐々にわたしの息はつまりだした。酸素を吸い込もうと試みてもなかなか上手く吸い込めない。開きっぱなしのわたしの口からは生暖かい空気が何度も何度も零れ出た。苦しい。はっはっ、と細かく聞こえる自分の呼吸音が酷く耳障りだった。けれどわたしは足を止めない。止めてはいけない。生暖かい空気を思いっ切り吐き出して、無理矢理に冷たい空気を吸い込んだ。吐いて吸って、走る、走る。わたしは走る。


だんだん人が増えて来たが、その人と人の間を縫うようにわたしは進む。しかしさっきまでのようにスムーズに前へ進めない。なかなか足が前に出ないのだ。わたしの気持ちはどんどん焦る。すれ違う人と肩と肩がぶつかろうが、地面の凹凸に足を取られようがそんなことは気にしない。気にしてる場合ではない。急がないと。わたしは急がないといけないのだ。前に進みたい一心で「すいません!すいません!」と声を張り上げる。周りの人に白い目で見られていようがいまいが関係ない。とにかく走る、走る。わたしは走る。


遠く遠く遠く遠く。遠くの方に小さくだがようやく見えた。大きな金色の時計の下に立つ彼の姿。ドキン!ドキドキドキドキドキドキ。一度だけめいっぱい跳ねた心臓はうるさくうるさく喚き出す。わたしは酷く乱れてしまった髪の毛を手櫛で簡単に整えた。家を出る時は緩く、それでいて綺麗なカーブを描いていた髪の毛は早くも毛先の方の巻きがとれてとても無惨だった。けれどもそんなこと今更どうでもいい。今わたしの頭の中を支配しているのは彼の存在以外の何物でもないのだ。彼の元についたわたしは、彼の左肩を二回叩く。それは軽く、優しく、ポンポンと。そこで振り返った彼の右の目とわたしの両の目が合うのだ。そしてわたしは彼に言葉をかける。さて、最初はなんて言おうかしら。おはよう?ごめんね?それとも彼の名前を呼んでみようか。わたしの頭の中でほんの僅か数十秒後に目の前で起こるであろう出来事がぐるぐると浮かんで回る。心臓は相変わらずうるさく喚き立てていた。息をするものままならなくて、心臓がじんわりと痛む。走ってきたせいなどではない。彼を思うほど、これから彼に会うと思うほどにわたしの心臓は痛みを増し呼吸も難しくなる。その間も一瞬たりとも止まらないわたしの足はどんどん彼とわたしの距離を縮める。気付いたら30メートル。あっという間に10メートル。ほらもう5メートル。ゆっくりゆっくりスピードを落として彼の1メートル後ろで足はようやく止まった。肩で息をしながら口の中に溜まった唾液をごくりと飲み込む。そして大きく深呼吸3回。右手で彼の左肩を2回叩いた。彼を目の前にあまりにも頭がいっぱいいっぱいになってしまったわたしは、果たして思った通りに軽く優しく叩けていたかわからない。それでも彼は振り向いてくれた。彼の右目とわたしの両目が合う。時間が止まったような錯覚さえ起こせそうだった。彼の鋭い瞳に捕らえられたわたしは小さく息を吸い込む。そして吐き出す。



「お…おはよ、う」



消え入りそうな声だった、と思う。 もしかしたら人通りも多かったから周りの音に掻き消されてしまって本当に聞こえていなかったかもしれない。けれどわたしの言葉に彼は微かにだが口角をあげる。多分聞こえていたのだとわかった。



「テメェ俺を待たせるたァいい度胸してんなァ」

「ごごごごごごめんなさいごめんなさいごめんなさいィィイ」



その表情と合っているのか、はたまた合ってないのか。イマイチわからないが彼の口から飛び出したドスの利いた声にわたしはビクリと肩を竦めた。自分の口から零れ出た言葉は予想以上に吃ってしまって酷くマヌケである。「しね」だの「ウゼェ」だの容赦なく怒鳴り散らす彼の姿に、路行く人達は擦れ違い様にそれぞれ目を丸くしてわたし達を見ていた。



「し、晋助」

「あ゛?」

「ひひひ一つだけ言いたいことが」

「んだよ」



不機嫌窮まりない彼に声をかけると予想通りの低く震える声がわたしの脳みそを揺らした。怒った彼の態度にだけは未だに慣れない。別に怖い訳ではないのだけど、ただ少しびっくりする。彼の優しさや可愛い部分を知ってしまったからこそびっくりする。だけどどうしてもこれだけは言いたかった。彼の鋭い目つきに慣れなくともわたしは言いたかった。わたしだって本当なら彼のことを待たせたくなかった。けれど今日だけは、この場合だけは仕方ないじゃない。まっすぐに彼の顔を見る。鋭い目がより一層細くなる。



「非常に言いにくいのですが、」

「あ゛?」

「約束の時間、1時間間違えてるよ」

「…………」



彼はポケットから取り出した携帯と頭上の大きな時計を何度か見比べていた。そして聞こえたのが盛大な舌打ち。






待ち合わせ時間の1時間前、身支度を終えたわたしはのんびりテレビのワイドショーを見ていた。 そんなわたしに届いた一本の電話。

─もしもし?どーかした?

軽いノリで言葉を発すれば、受話器の向こうからは物凄く、それはそれは物凄く恐ろしい声が聞こえた。酷く低く凄みのある声はわたしを怒鳴りつける。

─テメェ今どこにいんだクソが!

─え、家だけ、ど…?

─しねっ!

プツッ!プー、プー、プー。規則的な機械音だけが厭に耳に残る。瞬時にわたしは確信した。彼は待っている。待ち合わせの時間までまだ1時間近くあるというのに待っている。それからわたしは走った走った。毎回と言っても過言ではないほど遅刻魔の彼が一体どういう了見かは知らないが、今日はこんなに早くから待っている。電話越しに伝わってくる彼のイライラの具合は半端なかった。このままのんびり行ったりでもしたら確実にわたしは御陀仏だ。だから走った。わたしは走った。足をくじこうと息が切れようとわたしは走った。








「腹減った」



わたしの手首を掴んで彼は歩きだす。機嫌が直った訳ではないようだがさっきまでよりも幾分もマシだった。彼を纏う雰囲気が少しだけ、ほんとにほんとにほんとーに少しだけ柔らかくなったのだから。わたしの手首を掴んだままどんどんどんどん足を進めていく彼にわたしは尋ねた。



「ごはん食べて来なかったの?」

「寝坊したと思った」



ぶっきらぼうに答える彼はわたしの数歩先を歩くものだからその表情がどんなものかわからない。 けれどわからなくても構わなかった。いつも遅刻ばかりの彼が、寝坊したくらいで腹ペコなのを忘れてまで急いで家を飛び出しきてくれたのだから。一人でずっとわたしのことを待っていてくれたのだから。顔なんて見えなくてもそれだけで十分だった。可愛い彼が愛しくて愛しくて堪らない。



「晋助、」

「しつけーな!今度はなんだよ」

「飴あるけど食べる?」

「…よこせ」



鞄の中から取り出したイチゴ味のキャンディを手渡すと、彼は直ぐさま小袋を剥いてその赤くて丸いキラキラした飴玉を口の中に放り込んだ。辺りにほんのり香るイチゴの匂いが、まさかこの無愛想な男から香っているなんて誰も思うまい。「行こう」と今度はわたしが彼の手を握り足を進める。そうね。本当だったら今日はわたしの新しい洋服を買いに連れ回したり、こないだ見つけたすごく可愛いケーキ屋さんに行ったりしたかったんだけど、今日くらいは彼の好きな場所を優先してあげようかしら。彼のおかげで今日は時間もたっぷりあるんだから。ゆっくりゆっくり歩幅を合わせて肩を並べて歩き出すわたし達の後ろを甘いイチゴの香りと二人分の足音が僅かに残った。













20100330
企画「ロト2」様に提出。高杉晋助で遅刻しちゃいました。素敵な企画に参加させて頂きありがとうございました!



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