かなえは近所に住む女子大生だった。もううんと前、未だかつてないほどの胃の痛みに鍵を取り出すことさえ出来ず、玄関の前でのたうち回っているところを見つけたのが彼女だった。以来かなえは何かと俺の世話を焼くようになり、今ではすっかり俺の家に棲みついていた。

贔屓目に見ても、かなえは可愛かった。細くて、丸っこくて、いかにも男の好きそうな感じだ。いつだったか、学校ではモテるんだろ?と聞いてみたことがある。その問いにかなえははにかんだような笑みで「全然ですよ!」と答えたが、どう考えても嘘だと思った。もし俺が大学生だとして、同じ教室にかなえがいたら、講義なんてまるで耳に入らない自信がある。そしてきっと、若さゆえの無謀さで口説いていたに違いない。けれど今の俺は若さなんて微塵もなければ将棋以外に取り柄もないただのオッサンで。故に、ひとつ屋根の下で他の誰よりも長い時間を共に過ごしていながら、俺とかなえの間に男女の関係は一切なかった。

「島田さん、はい。」
「……ありがとう。」

渡されたマグカップの中には薄茶色の液体が入っていた。俺はもともとコーヒーはブラック派だったが、「そんな胃が弱いのにそんな刺激物飲むなんて自殺行為ですよ!」というかなえの言葉により、家では問答無用でミルクコーヒーが出されるようになった。

最初はコーヒーくらいで、と思っていたのだけれど、いつだったかに久しぶりにブラックを飲んだとき、確かに胃が悲鳴を上げたので、かなえの言うことは確かだったと反省したものだ。

そもそもコーヒー自体、味が好きというよりは頭をシャキッとさせるために飲んでいたのだが、実際のところミルクが入っていようがいまいが頭の働きにさしたる差はないことに気付いてからは自分でもミルクを入れるようになった。

猫舌のかなえがズズズとすする音を聞きながら、俺は新聞を開く。山盛り入れられたチラシにはデカデカと年末大売り出し!の文字が踊っていた。そうか、もうそんな時期なのか。

「そういえばかなえ、正月はどうすんの?」
「お正月ですか。」
「っていうか実家どこだっけ?都内?」
「はい。」
「じゃあすぐ帰れるな。」
「でも……うちは父も母も忙しいので昔からあんまりお正月とか関係なくって……」
「そうなの?親戚で集まったりしねえの?」
「親戚付き合いも希薄なもので……」
「そうなんか。」

楽っちゃ楽なんですけどね、と伏し目がちに笑うかなえの顔は言葉の割にどこか寂しそうで。かなえが年の割にしっかりしてる理由とか、妙に家事スキルが高い理由とか、ここに入り浸ってる理由とか、今まで深くは追求してこなかった色んな事情ってやつを、なんとなく察してしまった気がした。

「島田さんは?」
「俺?俺は……そうだなあ。」

棋士は基本的に年末年始は暇だ。新春の番組なんかに呼ばれることもあるが、そういうのは華のある一部の棋士の仕事で、俺には関係ない。正月くらい帰ってこいとは言われるものの、正月というのは皆それぞれ自分の家族と過ごすものなので、妙な気を使わせてしまうのが嫌で、基本的に正月には帰らないことにしていた。

「俺も、こっちでゆっくり過ごすつもりだよ。」

その言葉に、かなえはわかりやすく表情を変えた。うん、やっぱりかなえにはそうやって笑っていて欲しい。

「じゃあ、じゃあっ、今年の大晦日は年越しそば食べながら紅白見て過ごしましょう!それで元旦は私、お赤飯とお雑煮作りますから。初詣も行って、おみくじ引きましょう!」
「ああ、じゃあ、そうしようか。」

実家に帰ったほうがいいんじゃないかとか、友達とは過ごさないのかとか、そんなことを言うつもりはない。言わなくったってそうなる時はそうなるのだし、自ら墓穴を掘るような真似はしたくない。彼氏が出来たタイミングか、大学を卒業したタイミングか、一体いつになるかはわからないが、遅かれ早かれかなえは俺のもとから去っていくのだ。だからその時まで俺は、精一杯かなえと過ごす時間を大事にしたいと思う。
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