SIREN | ナノ

「あら名前くん。貴方が眼鏡をかけていないなんて珍しいわね」

「ああその声は八尾さんですか?こんにちは。眼鏡は今朝壊してしまいまして」


牧野さんに呼び出されていた名前は教会を訪れると求道女の八尾に話し掛けられた。


「それは災難だったわね」

「まったくですよ。ところで牧野さんはどこに?」


きょろきょろと牧野を探す名前の様子に顔を綻ばせた八尾は窓の外を指差して裏の花壇にいると告げる。
名前は八尾に礼を言うと教会を出て裏庭に回る。


「牧野さん」

「あっ、名前さん!」


花壇の前にしゃがみこんでいる牧野に声を掛けてから、横に並ぶようにしてしゃがんだ。


「今日は眼鏡をかけていらっしゃらないんですね」

「あははっ、同じようなことを先程八尾さんにも言われました!」

「えっ!す、すみません」


牧野の慌てた様子に名前は牧野さんは相変わらずヘタレだなと思い、益々笑った。


「お恥ずかしながら今朝間違えて踏んでしまったんですよ。なので昼にでも町に降りて新しい眼鏡を買おうと思いまして」

「名前さんは生活に差し障るくらい視力が弱いのですか?」

「はい。この距離からだと牧野さんのこともぼやけてしまって見えないんです」


うんざりしたように言い放つ名前に牧野の瞳に僅かな好奇心の色が宿った。

一歩分名前の傍に寄り、「これではどうですか?」と尋ねる牧野に名前は苦笑。
視力がいい者にはわからないぼやけた世界に対して興味が湧くのは求道師も同じらしい。


「まだ見えませんね」

「ではこれではどうですか?」

「いえ、あまり変わりません」

「これでは?」

「いいえ」


一歩、一歩。
牧野は距離を詰めていくが変わらず名前の視界からはぼやけてしか見えない。

もうこれ以上距離を詰めることが出来なくなった牧野は上体を徐々に倒し、名前と顔を近付けていく。

牧野はこの距離になって漸く、簡単にキス出来てしまいそうだという考えに至り、顔が熱くなった。けれどここまできたのに引き下がりたくないという気持ちが強く、震える手にぐっと力を籠めた。


「私が見えますか?」

「まだぼんやりとしか」


眉尻を下げて笑う名前にどんどん顔を近付けていき、二人の距離は僅か10cm辺りになったところで牧野は遂に喋らなくなった。


「牧野さん……?」


首を傾げる名前。
固まったまま動かなくなった牧野。

花壇の花は風を受けて凪いだ。


その時牧野は背中を押され、バランスを崩してそのまま倒れこむ。倒れこむということはつまり目の前にいた名前も当然巻き込まれ……

──二人の唇は重なった。


牧野は慌てて起き上がり背中を押した人物を確認。


「やっ、八尾さん…!!?」

「ふふふ、だって見ていたら焦れったくなっちゃって」


そこには八尾が口元を押さえてくすくすと笑っていた。


「それに名前くんだって」

「えっ」

「やっぱり八尾さんには敵いませんね」


腰をあげて立ち上がる名前に牧野は八尾と名前の会話が理解できずにきょとんとしている。

それを笑う八尾と名前。


「そんなに近付いたら流石に俺だって見えますよ」

「だっ、だだ、騙したんですか?!」

「騙してませんよ、ただからかっただけです」


楽しげに名前は言い切り、服についた土を払った。それを見た牧野は少しだけむっとした後、いじけたように花壇に生えている雑草を毟る。

あらあら、と八尾は目の前に広がる光景を微笑ましく眺め、名前の肩に手を軽く置いて目で合図。

──機嫌直しておいてね。
──わかってますよ。




「牧野さん」

「……なんですか」


膝を抱えるようにして花壇の土を弄る牧野の姿に溜め息を吐きそうになったが、寸でのところで堪える。


「すみませんでした。いつまでもこんなところに座っている訳にもいかないでしょう?」

「私のことなら大丈夫ですから」

「牧野さん、立って」

「何故ですか」

「ごちゃごちゃ言っていないで、さあ」


一向に立ち上がる気配がない牧野に今度は堪えきれずに溜め息が出た。

名前は腰を屈めて牧野の腕を引っ張り、無理矢理立たせるという力業に出、そのまま腕の中に閉じ込めた。


「名前さん?!」


素っ頓狂な声をあげ、抵抗しようとする牧野を抱き締める力を強くする名前。


「牧野さんって俺のこと大好きですよね」

「なにを、いって」

「俺も好きですよ」


そして名前よりも低い位置にある牧野の旋毛に口付けをひとつ。

驚いたように顔をあげる牧野に笑いかける。


「この距離だと牧野さんがよく見えます」


今度は頬に口付けを。

名前の余裕綽々の笑みを見た牧野はこうも自分と相手には心に差があるのかと悔しくなり、名前のシャツを掴み強引に自分に近付け背伸びをした。


ちゅっ


唖然とした様子の名前に満足した牧野はほんのり赤く染まった顔で笑った。


裸眼


(この可愛さは反則ですよね)
(私だってやられっぱなしってわけじゃないんですから)