たまたま、本当にたまたまだった。
家につくと隣の家から今にも泣きそうな顔で同じクラスの志野くんが出てきた。
何してるんだろうとか、どうしているんだろうとか、何で泣きそうなのとか、疑問が頭を埋め尽くす。
「どうしたの」って口を開こうとしたのと、志野くんがこちらを見たのは同時だった。
志野くんは今にも泣きそうな顔からバツが悪そうな顔になり、わたしから視線を外した。
いたたまれなくなって、わたしは玄関を開けて鍵を閉めた。そしたら隣の玄関から家の主のまゆみさんが出てきた音がした。
「・・・ごめん」
「ううん、わたしが悪いの、あなたを苦しめてばかりでいて」
「違う、俺が悪いんだ。まゆみさんを好 きでいちゃいけないのに・・・ごめん」
「謝らないで、わたしが悪いんだから」
泣きたくなった。悲しくなる会話だった。
ああ、そっか。志野くんはこの人に恋をしているんだ。
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「ちょっと、痩せた?」
そういうと志野(しの)くんはひどく驚いた顔をして、笑った。
「そーかな、最近ダイエットしてるからかもしれないね」
ふざけたことをぬかすもんだ。もとから周りより少し細身な彼だが、今日は一段とか細く見えた。
志野くんの大事な秘密。この間見てしまった秘密。どうせ、言っても志乃くんは「どうかな」なんて軽くあしらうんだろうな。
だからわたしはあくまで知らないふり をしていようと思った。
「そっか・・・わたしもダイエットしなきゃなあ」
「ふふ、がんばれ」
「・・・お世辞でも、ダイエットしなくても大丈夫、痩せてるよって言ってくれよ志野くん」
「え、あ、ごめん。えっと、円野(えんの)さん痩せてるよ?」
「うん・・・ごめん、ありがと」
どれだけ頑張っても、わたしは彼を引き止められない。
彼の秘密を知って3週間か経った。未だに、わたしは志野くんにあのことを言い出せない。
どうしようもないくらいに彼はまゆみさんに溺れていくのをただただ黙ってみているだけのわたしは、本当にひどい奴だと思う。
彼はほぼ毎日まゆみさんの家に通いつめている。毎日なんか行ったらまゆみさんの夫さんに勘付か れないのかって思ったけど、そういえばまゆみさんの夫さんは今は海外出張中だから勘付かれる確率はほぼ0に近い。
いっそ、ばれてしまえばいいのに。
「し、のくん・・・・・・」
「うん?どーしたの?」
「がんばってね・・・大丈夫だよ」
この3週間、志野くんにこれしか切り出せない。何が大丈夫なんだか。何ががんばってなんだか。自分で言って自分の発した言葉を悔やんでばかりでいる。
「うん、ありがとう」
彼はどこまでも優しい人だった。同時に悲しい人だった。わたしだったらそんな辛い思いさせないのに、なんてこれは男が言う言葉か、なんて。
いっそ、ばれてしまえばいいのに。
「ま、・・・・・・・・・ゆみさ 、」
「しーのーちゃーんー今日こそはカラオケ行こうじゃないか!」
わたしが志野くんに声をかけたのと、隣のクラスの自称志野くんの親友の愛野くんが志野くんに声をかけたのはほぼ同時だった。
や、ばい。やばいやばいやばい。わたし、今何言おうとしたんだよ。そんなこといったら、志野くんが悲しむ。本当クズバカアホシネわたし!どうか聞こえてませんように!
でも願いは虚しく、志野くんにはばっちり聞こえていたみたいで、
「愛野、ちょっと黙って」
いつもは滅多に友達を呼び捨てなんかにしない志野くんが、少しばかり怒りを込めて愛野くんを黙らせた。
ああ、わたしなにやってんだ本当。
「あれー?お取り込み中なかんじかい?」
「うるさい 」
「ごめんてー、俺黙るから怒んないで志野ちゃ、」
「うるさい」
いつもは誰の話でも遮ったりしないで、最後まで耳を傾けて聞いている志野くんが遮る。ああ、怒らせてしまった。
「やっぱり円野さんだったんだね、見ちゃった?」
「・・・・・・うん、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。あんなところにいた俺がいけないんだから」
「ち、ちがっ、それはちがくて!」
自分でも思っていたより大きな声を出していたみたいで、志野くんと愛野くんは少し驚いていた。でも違う、志野くんがいけないんじゃない。
「何が、違うの?」
黙り込んでしまった、志野くんに変わってか今度は愛野くんがわたしに問いかけてきた。
そこで初めて 気が付いた。愛野くんがいるのにこの話をしていいのだろうか。そう思っているうちになんて言えばいいか分からず「あの、えと・・・」一人で言葉を濁していると、わたしの言いたいことがわかったのか愛野くんは、か細く笑った。
「ああ、俺も知ってるから、大丈夫だよ。志野ちゃんの秘密」
「そ、そうなんだ?」
「うん、俺と志野ちゃんは保育園時代からの幼馴染なんです、意外でしょ?」
「う、うん、意外です・・・」
「ふふふ、そんな縮こまらないでよー。あ、あと志野ちゃん別に怒ってるわけじゃないから大丈夫だよ」
「え、そうなの?でもいつも志野くん呼び捨てとかしないから、わたしそうとう怒ってるのかと・・・」
「えー?俺にはいっつもこんなんだよ 。俺の話は最後まで聞かないし、俺だけ呼び捨てだしー」
言われてみれば、志野くんは愛野くんだけ呼び捨てで呼んでいた気もしなくもないような・・・。
「あと、怒ってるんじゃなくて、考え込んでるんだ。そん時はだいたいそっけないから」
「なんでも知っているのでーす」なんて、おちゃらけた態度で話す愛野くんにわたしの胸はだんだんと軽くなっていく。ああ、愛野くんも癒し系男子なのか。なるほど。
「ああ、ごめんね。話戻すけど、何が違うの?」
「なんていうか、志野くんが悪いわけじゃないと思う・・・っていうか」
「それって、どういう・・・・・・」
「あの、なんて言ったらいいかわかんないんだけど・・・人を好きになるのは自由だと思 うから、例えそれが人妻であっても変わらないことだから、悪いわけじゃないよ、志野くんが恋してることが悪いことなわけないよ・・・・・・、と思います」
3人にしかいない教室は、いやに静かだった。愛野くんか志野くんは、はたまたわたしのかもしれない息を呑む音が聞こえた。それっきり誰も喋らない。
世間一般では、志野くんのしていることは悪いことなのだろう。
でも誰しも誰かに恋をして生きているのだから、しょうがない。志野くんの場合それが運悪く人妻だっただけの話なのだから。いいのだ、恋をして。
「俺、いつもまゆみさんに謝ってたんだ」
ぽつり、ぽつりと志野くんはしゃべりだした。悲しそうな顔をしていた。
「うん」
「俺が諦めれ ば、みんな幸せになれるのに、それがどうしてもできなくて」
「うん」
「どうしようもなく好きだったんだ。まゆみに迷惑かけてるって、もう今日で終わりにしようって」
「うん」
「思って毎回まゆみさん家に行くんだ。でも馬鹿だよね、終わりになっちゃうって思うとどうしても怖くてさ」
「うん」
「いつも謝ることしかできなかった」
「うん」
「その度、まゆみさんは【わたしが悪いの】って言うんだ」
「うん」
「俺その度に消えたくなってさ、俺好きな女の人にこんな顔させてんのか、こんなこと言わせてんのかって」
「うん」
それが最後だった。
志野くんは涙を隠すように右手で顔を覆ってしゃがみこんだ。
「お、おれ っ、まだ好きでいて、いいのかっなっ・・・・・・・・・・・・っ」
「いいんだよ、志野。誰を好きになってもいいって円野さん言ってたじゃん」
「うんっ・・・うん・・・・・・え、んのさんと、あい、のありが・・・とうっ」
「ううん、わたしは何もしてないのです」
「ありがとう、・・・・・・俺、俺っ・・・・・・まゆみさんに思ってること言ってくる」
「いってらっしゃい」
志野くんは強かった。諦めなかった。わたしも強くならなくちゃいけない。
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「えーんのさん」
「な、なに・・・?」
志野くんが出て行った教室で二人きり。愛野くんは相変わらずのふにゃふにゃ笑顔で話 しかけてきた。
「泣いてもいいんじゃない?」
「なん、で泣くの?全然悲しくないよ?」
「ふふ、なんでも。泣いていいよ、もう。よく頑張ったね、偉い偉い」
愛野くんはまるで小さい子をあやすみたいに、わたしの頭を撫でてくれた。
「泣かないよ・・・悲しくない」
「いーのいーの。泣いていーの。誰も見てないから、ね?」
ああ、きっと愛野くんは知ってるんだ。
「人を好きになるのは自由なんでしょ?」
ああ、だからこんなにも優しいのだ。
「なら円野さんだって、誰を好きになってもいいんだし」
ああ、何故こうも涙がとまらないんだ。
「がんばったね」
ああ、わたし志野くんが好きだったんだ。
「し、志野 くんは気付いちゃったかな・・・っ?」
「うーん、多分気付いてなかったんじゃないかな?」
「そっか、よかった」
「え?」
「志野くんは優しい人だから、わたしが志野くんのこと好きって言ったら受け入れてくれちゃいそうな気がするから」
「そうしちゃえば、いいのに」
「ふふ、自惚れて馬鹿みたいだよね」
「志野の恋は、きっと報われる日はこないよ。なら円野さんが幸せにしてあげればいいじゃん」
「ううん、わたしにはまゆみさんの役はちょっと荷が重すぎるよ」
きっと、志野くんはわたしとデートしたって、まゆみさんとデートした気分になっちゃうんじゃないかな、って。
「わたしじゃ、まゆみさんの代わりはつとめられないよ」
どんな に頑張ったって、まゆみさんには勝てないの。
「じゃあ、俺の秘密も知っといてよ」
「うん?」
まさか・・・愛野くんまで人妻が好きなのか!?そそそそそ、そしたらどうしよう!
「俺は、円野さんがずっと好きだった」
(え、え、え!?ななななななな!?)
(ずーっと、好きだったんだよ。小学校の頃から)
(き、気づかなかった!ごめん!)
(いーよいーよ。ずっとね、いっそ、ばれてしまえばいのに、って思ってた)
。End。