見えるもの全部が道理に成り立っていなくて、仕方ないものだとしても君はそれよりもっと一番幸せなものを見つけられるさ、そういって私の頭を撫でた名前も知らない彼の瞳はひどく空虚で、色彩の無い廃棄物のガラクタが埋め込まれたような瞳孔をしていた。





「申し訳ございませんでした」

何度この言葉は空気中へ空しく溶けただろうか。ちょっとしたことでも、自分が悪いことをした訳でもないのに自然と口に出た「ごめんなさい」はいつの間にか感情のこもっていないただの挨拶となっていた。自然と迷惑をかけてしまった、とでもいうような顔色を浮かべて深深とお辞儀をすれば、生きてきた中で一度も許されないなんてことはなかった。

一枚台無しにしてしまった二ヶ月か前に設置作業を手伝った展示室のチケットを握りしめる。この展示も今日でおしまい。そして、最後の一枚は、私の手によって意味のないものになってしまった。

新入りと一緒に付く為に配属されたアルバイトのおばさん達は「あらあら、ごめんなさいねえ」と大げさにお客さんにあやまる。チケットはこれで一枚でしたが、お金を支払ってくださったのでぜひそのまま観覧していってください、愛想よく笑みを浮かべると真横でおろおろとしていた私を一瞬ギロリとにらみつけた。また?本当に使えないわね、とでも言うように。私は感情を押し殺してもう一度会釈した。「本当に、申し訳ございませんでした」


お客さんは「いいえ、全然大丈夫です」と微笑んでくれた。

このお客さんはこの何処にでもありそうな市運営の小さな美術館の常連さんだった。毎日グレーのリュックをしょっていて、洒落た私服を着こなしていて、二十代と見えることから私は大学生だと認識している。

アルバイトのおばさんからも密かに人気があって、いつも十七時頃になると腕時計を見たり何やらそわそわとさせる。彼はいつも十七時の閉館ギリギリの時間にやってくる。彼が来ればアルバイトさんたちは精一杯の笑顔を兼ねて「いらっしゃいませ」と揃えてお辞儀をする。


彼はいつも幸せそうに、愛しむように展示された作品を見つめていた。その瞳孔は宝石の埋め込まれた貪るようなまるで小さな子供のそれだった。彼が本当に芸術をこよなく愛していることは見ていてすぐに分かる。

とくに何も夢中になれるもののない私は普通科の高校でなんとなく日々をやり過ごして、一応欲しい物の為にたまたま見つけた美術館のアルバイトに入っただけだった。楽そうだからという理由でやってみたけど、最近はそろそろ限界かなあ、という感じだった。人付き合いは元々良い方ではなかったけれど、同じアルバイトのおばさんは可愛げのない娘だな、というような明らかに非難の目でこちらを見てくるし、暇すぎて別のことに時間を有効活用したいし。はあ、と溜息をつく。


でも何故か彼だけに目を離すことができない。私は何もやることがなくて、彼は真正面に夢を追いかけている姿をしているからだろうか。いや、そういう訳ではないと思う。

彼はもっとそんな情熱があふれている訳でもなく、ナチュラルなんだ。

私はそのシンプルな姿に惹かれたんだろう。





彼は十五分か展示室を見回ったところで美術館を出て行った。今日の私服もかっこよかったわねえ、と顔にも似つかず乙女な口調で話すおばさん達は、更衣室に戻った後はもうそれは当たり前のように私を叱った。

…また、失敗しちゃって。わざとじゃないことは分かっているのよ?でも、もっとその態度をどうにかしてほしいわ、私たちが見下されている気がしてならないのよ、美術館だってちゃんとした接客業よ、ちゃんとしてもらわなきゃ困るの。ねえ、なんて周りと目くばせしあいながら話すおばさん達に耳を塞ぎたくなった。

何度いわれただろうか。真面目くさって鏡に向かって表情の練習をしたりもした。それでもやっぱり同じことの繰り返しで「申し訳ございません、今度からは気をつけます」と謝る。私は私でなくなっている気がしてならなかった。どこにいてもただの挨拶をするロボットでしかないんだと思う。怒ったのはいつだっけか、最後に泣いたのは何年前だったか、それすらも思い出せない。













「それじゃあ館内の留守番お願いね、ちゃんと迷惑かかんないようにするのよ」

おばさん達はそう言って美術館を後にした。

途端に館内はシーンと静まった。いつもならおばさん達が受付で世間話をしていてうるさかったからだ。展示室にもたまに人が少し来るくらいですぐに帰ってしまう人ばかりだった。ああ、なんて平和なんだろう。ボーッとしながら前方を見つめていた。その時。


「すいません、こちらの展示、まだやってますか?」

「え…」

あの大学生の人だ。突然話しかけてきて私はえっと、と口をパクパクさせる。それから落ち着いて「そちらの展示は昨日まででしたので、多分、もうすぐ張り剥がす作業をするかと…」とボソボソ返答した。彼はそんなこともお構いなしに「そうですか」とだけ言って「ありがとうございました」と館内から出ようとしていた。なんとなく、その背中が寂しそうでほっとけなかった。

「あ、あの!ちょっと待って、ください」

ドアの前までバタバタと急いで引き止めると、彼は驚いたようにこちらを振り向いた。

「多分まだ、剥がしてないと思うんで、ちょっとくらいなら見ても平気…だと、思います。」
「え、いいんですか?」

彼はあのグレーのリュックの中から財布を取り出そうとした。いえ、料金は大丈夫です。私以外誰もいないので、と言うとそういう訳には、とやんわり断られた。

「他のアルバイトの方達もそうしていたと思います。本当、大丈夫なので…」

真剣にそう言うと彼は「それじゃあお言葉に甘えさせていただきます」と笑ってくれた。胸のどこかが高鳴った。私はまだこの想いの名前について気づかされていない。




「モネは好きですか」

彼は一通り作品を見た後に、突然私に話しかけてきた。

「…モネ、ですか」

実はあんまり詳しくなくて、と口ごもると、「モネの絵が、すごい好きなんですよ」と語りだした。モネは一枚の絵に数え切れないほどの絵の具を使うこと。印象派の画家であって、一番息が長かったこと。移りゆく光と色彩の変化を追求し続けたこと…。彼の美術品を見る瞳はとっても澄んでいて綺麗だけど、好きなものについて話している時の瞳も光沢を放っていて、まぶしかった。なんて純粋なのだろう、ポツンと心の中で呟く。

「もしかして、美大とかに行っていたりするんですか?将来、画家になりたいとか」

「いえ」

彼はすぐさま否定した。あまりにも早い返答にびっくりした。だって絵があんなにも好きなのに、どうして。その言葉を聞いた時、何故か自分のことを話したくてうずうずした。

「私、好きなものとか何もなくて。というか全然日常が、すっごい、楽しくないんですよ」

アルバイトの人からあまりよく思われていないこと、学校でもちょっとは友達はいるけど、女の子特有の陰口とか聞くのがすっごく面倒くさいこと、家でも親と上手くいってないこと。ただの愚痴なんだと思う。大げさかもしれないけど、私は何のために生きているんだろう、とたまに思うこと。彼はそんなきっと誰もが悩むようなありがちな話に耳をかたむけてずっと聞いてくれた。

すべてはき出した後に「俺は」と彼が口をはさんだ。


「画家になりたくはないじゃなくて、なれないんだよ」

元々無理かもしれないけど、と感情のこもってないかわいた笑顔を浮かべる彼。意味が解らなかった。




「色覚障害なんだ」




ひどく静かだった。彼はポツンポツン、と話し始めた。本当は青のはずなのに緑とか茶色に見えたり、色の識別ができないんだ、だから画家にはなりたいって思っていたけど、難しいこともあるし、何せすべてが、すべてが灰色にしか見えないんだ、



「見えるもの全部が道理に成り立っていなくて、仕方ないものだとしても君はそれよりもっと一番幸せなものを見つけられるさ」

名前も知らない彼は私の頭を撫でた。優しい手つきに、何故だか泣きたくなってしまった。泣きたいのはきっと彼の方なのに。彼の気も知らないで私は何を語ったのだろう。当の本人はそれじゃあ、と言って美術館から出て行ってしまった。また、来てくれるんだろうか。…でも美術館に来るっていうのは、自分で自分を苦しめているだけなんじゃないのか。不覚にもそう思ってしまった自分の首を絞めたいと思った。私はなんて馬鹿なんだろう。


手で顔を覆う。何も見えなかった。これが、彼には灰色に見えるという。それはまるで厚ぼったい画像を見ているようで、まるで自分が此処に存在していないみたいだった。恐ろしくて恐怖しかなかった。それからただひたすら泣いた。泣いて泣いて、泣いた。熱い涙が私の頬を伝って、心の芯に刺々しく突き刺さった。おばさん達が帰ってきた後も泣きやまずにわんわんわんわんと子供の頃の時のように泣いた。久しぶりの涙はしょっぱくて塩素がだらだらと流れる。そう、こんな感じだった。泣くって、辛いとかって、こういうことだった。ただひたすら辛くて苦しくてどうすることもできないやつだった。

思いのほかおばさん達も心配してくれて「今日はもう上がりなさい」と言ってくれた。


ガタンガタンと心地よい音と共にして電車が揺れる。

その間私はずっと何かを考えていた。



家に帰ってきた後、久しぶりに「ただいま」と言った。お母さんはびっくりしたように、バタバタと大げさに階段を下りて「おかえり」と笑ってくれた。携帯を久しぶりに開いたら数少ない友達から「バイトどう?私も一緒に仕事したいなあ」というメールが来てた。すんごい暇だし自給も少ないんだけどね、とメールを打って私は項垂れた。本当に馬鹿。こんなにもあたたかい愛が散らばって溢れんばかりに充満していたのに、私がただただ遮断して気づいていなかっただけじゃないか。

あたたかいご飯を食べている時も、あたたかい毛布に包まる時も、頭の脳裏にもどこにも彼だけしかいなかった。その感情の名前を、この感情に気づくことができた自分は、とっても幸せなんだろう。私は。名前もメルアドも何処の大学に通っているのかも解らない彼にいつの間にか恋をしていた、知ってるのは彼がモネの絵を好きなこと。私が、











透明の壁が静かに君を拒絶する
彼の目の代わりになれたら


fin



title 花畑心中/改変
モネ/ウィキペディア様を参考

20130320

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -