欲しい物が沢山あった。小さかった頃は、兄の玩具を断りなく使って、そのまま返さなかったことだってある。スーパーでどうしても欲しいお菓子があって母さんに駄々をこねた。母さんは「この前買ったでしょ」と呆れていたけど俺はそこで精一杯「ほしいよ」と叫んで激しく泣いた。通りかかる人は顔をしかめてこちらを見ていたけど俺はその時何も感じなかった。いつかはきっと食べられるはずのお菓子を、今食べたいんだとずっと繰り返していた。お母さんは周りの目が気になったのか、仕方のないような顔をして買ってくれた。でもその後、お菓子は別にそんなすごく美味しいという訳でもなく、1日でさっさと食べきってしまった。お母さんにはひどく怒られて、俺はまた泣いた。目は赤く腫れて学校に行った時クラスメイトに「泣いたの?」と笑われた。気弱なくせをして、欲しいものにだけはどうしても目が眩んでしまうのだ。何があっても欲しい。自分のものにならないと気がすまない。

そして、あの時の記憶は、幻みたいに遠ざかっていった。

これは何かの長いような、短いような夢だったのかもしれない、と思ったことさえある。







「なあ、知ってる?水島、この前二年のの笹井に告白されたらしいよ」
「…は?」

太陽がギラギラと照りつく、午後の昼下がり。俺は友人の秋原といつものように教室で昼飯をとっていた。購買で久しぶりに人気のある焼きそばパンを購入することができて、いつもより少しだけ気分は晴れていた。そして、買ったそれを美味しく食べていたら彼が突然爆弾を投下した。

「水島、って。水島、咲子?」
「いや水島ってやつ学年に一人しかいないし有名だろ、…あれ」

そこで秋原は今気づいたかのように慌てて口に手を当てて大袈裟に、心配そうな顔色をした。俺は色素のない薄い笑みを浮かべた。別にいいんだよ、そんなこと。という意味を込めた笑いだった。別によくない。全然よくないのは分かっているけど、俺は周りには『水島のことはもうなんとも思っていない』という素振りを見せている。そうしないと何か、脆い何かがガシャーンと大きな音をたててわれてしまいそうで、怖かった。

「ごめん、そっか、お前」
「いや全然大丈夫。もう何も関係ないし、俺もそろそろ新しい彼女つくりたいなーとか考えているから。でも、出会いがないからさ、何かいい感じの子とか知らないの?」

秋原は少し疑わしいような顔をしてすぐにプッと吹き出した。俺は上手に頬の筋肉を強張らせながら笑顔を見せた。

「佐伯みたいなイケメンだったら出会いっていうか言い寄られるでしょ。この前、2組の中野に告白されたんだろ?」
「…何それ、何で知ってんの?」
「完璧に噂になっているけど。噂によると、お前中野フッたんでしょ?すげえびっくりした。中野玉砕した後教室でわんわん泣いたらしい。それで、」
「…うん?」
「同じクラスの佐伯に並ぶくらいのイケメンに慰められて、告白されて付き合ったそうです。」
「つまり俺のことはその程度だったってことだよ。ていうか、外見はいいと思うけどあの子なんか影ではいじめっぽいことしている、とか聞いたことあるし。」


気づけばパンをすでに食べ終えていて、袋を机の上に置いておいたはずなのに、教室の窓が空いていて風で地面に落ちた。俺は溜息をついてその袋をゴミ箱に捨てた。後から思った。焼きそばパン。ずっと食べたいな、と思っていて人気すぎてなかなか食べられずにいた。ちっちゃい頃みたいに泣き叫んで貰うなんて方法はさすがにしない。でもやっと、今日。食べることができたのだ。それなのにそんなにすごい美味しくはなかったと思う自分はどれだけ欲張りなのだろう。

いつもそうなのだ。俺がほしいと思うものは、味わってみると、触れてみると「別にそんな大したものじゃない」に変わってしまうのだ。いつの間にか適当に自動販売機で買ったミルクティーを飲んでいた。

水島も、水島もそうだったのかな。
水島が、すごい、欲しかった。あの時。

iPhoneのロック画面は2人が初めてのデートでとったプリクラだった。もう一年半は経つのに、ずっと変えていない。それはまだ未練が残っている証拠なんだろうか。いや、きっと最近思い始めたことなんだろう。未練がある、なんて。

水島のことを、何とも思っていないっていうのは真っ赤な嘘だ。
だけど、水島は俺のことを今、どう思ってる?好き?友情として?またヨリを戻したい、という意味で?

…そんな訳がない。プリクラの彼女の笑顔は、すごい可愛くて、まっすぐで、大好きだった。ひまわりみたいに暖かくて、色でいうと白とかオレンジとか。愛嬌がそのまま真っ正直に現れていて笑窪が愛らしい。裏表なんて感じさせないひどく素直な子なのだ。





一年生の時。ずっと心に決めていた陸上部に入った。走ることがちいさい頃から好きで、走っていると嫌なことを忘れられるし背中に押し寄せる風が気持ち良かった。ゴールに見えるありのままの景色を追いかけるのが楽しかった。中学の頃はリレーの代表選手にも選ばれたり、大会でもたくさん賞をとった。正直足には少しだけ自信があった。後先のことを考えずただ「走ることが好きだから」入部した。

その時秋原と、違う中学から来た人と初めて仲良くなった。秋原とは不思議な位気が合った。負けず嫌いなところは見事に一緒だし、俺が短距離のタイムで秋原より上だった時。秋原は本当に悔しそうな顔をして「次は負けない」と爽やかに笑顔をつくっていた。彼のそういう、素直さを好きだと思った。俺は素直さがにじみ出ている子に好意を持つことができた。

そして部活に入部して早三ヶ月は過ぎた頃。部活の雰囲気に慣れてきて、先輩とも仲良くすることができた。部活が終了した後に、近所の駄菓子屋さんに寄り道をして、アイスを食べて喋りながら帰るのが楽しかった。中学生の頃は校則に厳しくてそんなことをしたら内申点を落としてしまうのだけど、高校は自由な校風で寄り道を許可されていた。

それから。

陸上部はグラウンドのフェンスの内側の方で部活をしていた。グラウンドには陸上部の他に野球部、サッカー部、ソフトボール部、と4つの部活が占領していて、道を挟んで違う場所に大きなテニスコートがある。陸上部はグラウンドの左の隅を陣取っていて、そこはテニスコートがよく見える場所だった。





「そういえば佐伯」
「なんですか?」

ある日、何人かの先輩にそれぞれ同じ人の名前を聞かれたことがあった。

「テニス部に可愛い一年生がいるらしいじゃないか」
「はぁ…?すいませんよく分かりません」

すると、秋原が中に入ってって、「先輩ぃ、こいつモテまくるからみんな女子は同じに見えちゃうんですよぉ、興味ないんですよねー」と突然戯言をはさんできた。先輩はプッ、と笑って「確かに顔はいいのにこいつ、愛嬌がなー」と勝手なことを言い始めた。

「そんなことはどうでもいいんで、何ですか?」
「俺なら多分知ってると思いますけど、そのテニス部の可愛い一年生」

秋原が自信あり気な表情で笑みをこぼした。



「水島咲子ちゃん、だと思います」


みずしま、さきこ。

すると先輩たちは少し興奮気味に「そうそう!その名前!!」と指を指した。


みずしま、さきこ。水島、さきこ。水島咲子、か。

本人には失礼だけど、なんだかすごく、ありがちで平凡な名前。もっと可愛い名前の子だって、いると思うし。そのはずなのに、どうしてもその名前が頭から離れなかった。咲子。いやいや愛らしい名前だ。頭の中で凛と反響した。その名前を時間が経っても、いつまでも忘れることができなかった。



「で、どの子よ?」

先輩たちはテニスコートの方に目を集中させて、一人ずつ女子を見ていく。「しかしテニス部はみんな普通にかわいいな」などと口々言い合いながら指をあちらこちらに動かしていた。

「あ、見つけたかもしれない」

髪を茶髪に染めている少しヤンチャそうな先輩が指の動きを止めた。「あの子じゃない?」「どれどれよ?」「なんか一人だけえらく輝いていた」「マジで」などという会話をしながら皆の視線がその骨ばった指の指す先に集まる。俺は会話には参加していないつもりだったけれど、どうもその水島咲子を見てみたかったのか、視線を向けた。

あ、と思った。声に出そうであわてて喉に栓をした。

本当に、一人だけ。なんだか普通の人とは違うような輝きをしていた。彼女はひどく静かで、一点だけを見つめていた。他のテニス部の女子たちはすでに俺たちの視線を気づいているのか呆れたような顔をしているのが分かった。だけど彼女だけは何も気づいていない。ただ、顧問の先生が投げてくるテニスボールだけを、見ていた。異常なほどの集中力が伝わってきて、喉の唾を飲み込んだ。ポニーテールをした黒髪に長身。ピンク色のジャージがよく似合っていた。

そして、何よりも目が迫力があって。吸い込まれてしまいそうで、気づいたら彼女に見とれていた。その強い輝きをはなった目はすごい、かっこよくて。

「可愛いとかいうより…かっこいい」

心で思ったことが声に漏れたら秋原はおどろいたような目をしてこちらを見た。

「佐伯が人のこと褒めるなんて…何これ初めてなんじゃないの?」
「は?これ褒めてんの…?」

女子は可愛いって言われる方が喜ぶに決まっていると、思う。でも素直にかっこいい。

先輩のそろそろ部活始めるぞー、という普段なら耳に障るほど大きな声も耳に入らずに彼女を見ていた。「いつまで見てるんだよ、出会いはじまった?」という馬鹿にしたような笑いをふくんだ秋原の声にやっとハッとした。

「そんなんじゃないから」

なんだか突然恥ずかしくなって、顔を背けてさっさとフェンスから離れた。


その頃から俺はきっと、彼女の名前をきいた時から、恋に落ちていた。

水島咲子を、欲していた。





水島と初めて喋ったのは、名前をきいてから少しした後。六月の時期のことだった。

朝練で皆が来る前に先に練習したくて、iPhoneのアラームを5時に設定して、少し寒気のする朝にグラウンドに入った。さすがに学校には誰もいない。地面が少しだけ湿っていた。そういえば、昨日は雨が降った。ところどころに水溜りが見受けられる。


スパイクをエナメルバッグから取り出して足に装着している時に、人が近づいてきているのが分かった。なんとなくフェンスの方を見る。

「あ、」
「…え?」

あの子だ、ってすぐに分かった。
皆で部活の時に見ていた、あの目の鋭い子。水島咲子だ、って。

自分から声を出してしまった所為で、彼女は反射的に足を止めて不思議そうな目で俺を捉えていた。

「…あ、いや、すいませんなんか…はい」

しどろもどろで、謝っているような声色を全く見せていない俺に水島はプッ、と吹き出した。

「佐伯奏くん、だよね?」
「え、なんで知ってるの」
「クラスで有名で、陸上部にかっこいい男の子がいるー、って。結構騒いでたから自然と覚えちゃった」
「…はあ、そうですか」

意味が解からなかった。なんで騒がれているんだろう。本当に謎だった。
だけど、何よりも自分の名前を知ってくれていた水島さんに無性にも嬉しくなった。


「水島さん、だよね?」

「えっ、なんで知ってるの」

水島はひどく驚いて2、3歩ほど後ずさりした。なんだかその反応が意外、というか面白くてくすりと笑みがこぼれた。その時の彼女は始めて見た時とはまったくの正反対で、愛嬌がこぼれた優しい目だった。

「部活の時に先輩たちが水島さんの話をしてたから」

「えー、なにそれ。陸上部ちゃんと部活しなよ」

「ちゃんとしてるって」

それからしばらくクラスの人のこととか、色々話しこんだ後「そろそろ部活しようか」とどちらかが切り出した。



「ていうか、佐伯くん来るの早かったね?」
「水島こそ」
「私は、テニス初心者だし、下手だからこうやって頑張らないといけないんだよ。どうやら佐伯くんはすごい足が速いみたいじゃない?大会でもいっぱい賞状届いてさー、すごいなあって」
「そんな速く、ない。一位とれない時だってあるし」
「入賞するだけですごいって」
「…そーか?」
「そうだよ」
「水島だって、腕前とかは知らないけどすごい部活中、強い目してた」
「え、なにそれ。見てたの?」

水島は恥ずかしそうに俯いていた。頬が少し赤い気がする。そんなに恥ずかしがることだろうか。

「たまたま先輩たちが見てて、俺も見たら、結構びっくりした。他の部員たち普通の目して部活やってんのに、水島だけその何倍もすごい目してたもん。」
「す、すごい目…!! いや、なんか顧問の人にも言われるんだよ…!わ、私なんかやばそうな目してるのかな…!」

本気で焦り出していたから俺は「いやいや違う違う」と真っ向に否定して、あの時思ったことを口にした。

「かっこいい、って思った」


水島は少しだけ顔をあげた。まだ赤い頬がかすかに見えて俺も吹き出した。

「まだ恥ずかしがってるの?」


水島が小さい声で何かを言った気がした。
その声は聞こえなかったにも等しくて、何を言ったのか分からなかった。


「じゃあ、そろそろ練習するね!」

慌てたように背を向けてテニスコートに向かう水島に「お互い部活がんばろうなー」と手を振った。水島は顔を見せずに手を振った。



「佐伯くんが、かっこいいよ」

それは、あまりにもか細い声だったので聞き取れずに空に放たれたことば。





それからというもの。廊下で、移動教室の時、グラウンドの近くですれ違う時。自然と水島を追いかけていた。クラスが違うものの、俺が3組で水島が5組。わりと近かったので会う機会はちらほらとあった。水島と目が合うとなんとなく手を振った。水島もワンテンポ遅れて周りにいる友達に気づかれないように小さく手を振った。そして、朝練の前に会うことが習慣になり、喋るようになった。購買にある食べ物の話、国語の先生がクラスの恋愛ごとに勝手に首つっこんでくること、部活の先輩のこと、喋っている間の時間はあっというまだった。



「お前、最近なんか表情やわらかくなったね」
「…は?」
「なんかすごい目元優しくなった。なんか密かにファンクラブができてるらしいよ」
「え、何の?」
「鈍感だねえ、お前のだっつの!」
「い、意味わからん!」

ファンクラブとかなんとかは嘘だとして、表情がやわらかくなった、とか。多分これは水島のおかげだと思った。水島と喋っている時もすれ違う時も笑顔しかこぼれないから。あまり変化をしない表情筋が自然と笑顔をつくっているんだ。

「恋しちゃったから?」
「意味が、わからない」

不意をつかれたみたいに胸が高鳴った。あきらかに、そうだから。中学生の頃。一度か二度、それと似たような感情をもったことがある。あの子いいな、って思った事だって一度はある。だけど、水島に対する感情は彼女の目のまなざしと一緒なくらいで。水島のことが好きだ。大好きだ。

首筋をチリチリと熱が焦がした。俺は、水島が好きで。誰にもとられたくない。って。

目が眩む。そして俺はその後。小さい頃にお菓子が欲しくて欲しくてたまらなくて、泣いてしまった苦いモノクロな出来事を思い出していた。






水島と付き合うようになったのは、1月の肌寒い時期。

水島の涙を初めて見た日でもあった。彼女は綺麗に泣いていた。

久しぶりに水島が朝練の前にグラウンドに来なかった。一瞬何かあったのかと心配したけれど、寝坊でもしたんだろうと思った。そして朝練が始まった時。テニスコートの方を見た。水島はちゃんと部活に参加していたが、なんだか元気のなさそうな雰囲気がこちらからも伝わってきた。何か、あったのかな。そうなると本格的に心配した。それと同時に愛しさが溢れだした。もう、我慢ができなくなってきていたのかもしれない。

昼休み。初めてだった。水島と朝練前以外で話そうとすることは。勇気を出して5組へと足を急かした時。

「あ、佐伯くんじゃん」

誰だかよく解からない髪を染めたチャラそうな女の子が俺を見て突然まとわりついてきた。誰だお前、と目で訴えるが、その意思表示を彼女が気づくことはなかった。そして、「佐伯くんと話してみたかったんだよねー」と突然話し始めてきた。やめてくれ、せめてくっついてこないでほしい。水島のところへ行かなきゃ、いけない、のに。

と、その時。だった。


「佐伯くん?」

いつもより少し大きな声が聞こえた。すぐに水島の声だ、って分かった。

目の前にいるこの女みたいに着飾っていない、涼しいはっきりとした声。



「水島」

水島は教室から出てきて、おおきな目をさらに見開かせていた。そして、俺の手をとって突然駆け出した。

「あ、ちょっと!!」

後ろから叫び声が飛びかかってきたけど、俺と水島は無視した。水島は後ろを振り向かずに息を弾ませながらどこかへと向かっていた。水島に控えめに触れられている指先だけが熱を帯びていた。小さくて、なんだか壊れそうな白い肌。ピアニストみたいに長い指先が俺の指に絡まっている。胸を焦がした。水島の目とは対照的にその手は頼りなさそうだった。

たどり着いたのは屋上。1月にしては十分といっていいほど心地のよい暖かな風が吹きぬけた。
その風が水島のポニーテールをなびかせていて、なんだか背景と似合っていた。

「…水島」
「…ご、めん。でもなんかすごいいてもたってもいられなくて。最近嫌なこと続きで、意味わかんなくて…。」
「みずしま、」

水島は俺の話も聞かずに俯きながら拳を握り締めていた。

「最近全然部活上手くいかないし、それなのに、佐伯くんに、彼女できたっぽかったし、」
「水島」

水島はポロポロと涙を零していた。言葉は焦燥感に駆られていて上手く喋れてないのに、その涙だけは水島を表しているみたいだった。綺麗な涙。雫がポトリと地面に静かに落ちた。その涙を見た時俺は彼女の背中に手を回していた。

水島のにおい。優しいシャンプーのにおいが鼻をかすめた。やわらかい髪がさらりと俺の手の甲にかかる。水島は手だけじゃなくて、身体も随分と小さかった。その時彼女を形容するのにふさわしい言葉を見つけた。彼女は、壊れそうで儚い身体をしている。

「あの人とはなんにもない。勝手にあっちから絡んできただけ。俺は」

初めて知った。告白ってこんなに勇気いるのか。
喉の唾を飲み込んで押し出すように、小さな声。

「水島が好き、なんだよ」

水島の涙は止まらなかった。さらにぶわっと溢れ出していた。

「彼女できたからって嫉妬してもらえたと思って、結構、わりと嬉しかった」
「ばか、じゃないの…」


気が付いたら水島の震える手が、俺の背中を抱き締めていた。
付き合っていた時間はすごい楽しかった。毎日が突然輝きを増していて、目が明いた。

好きな音楽、好きな本、好きなスポーツ選手、昨日みたテレビ、部活のこと、たくさん喋れる機会が増えて手の平からこぼれるほどの幸せで芽生えていた。

はず、だったんだ。俺は浮かれていた。楽しくて、楽しくて。

知らないうちに水島を、傷つけていた。









別れた訳では、なかった。どちらかが別れようと言った訳じゃない。ただ距離が不思議なほど空いた。「もっとちゃんと付き合おう」と言うこともできなかった。言える勇気が振り絞れなかった。出そうにもなかった。

二年生の半ばごろ、水島と話が突然合わなくなった。疲れていた、というのも理由に入る。

陸上部のに笹井という実力のある一年生が入部してきた。笹井は俺よりも、足が速かった。短距離のタイムは、彼の方が0.1秒上だった。たった0.1秒差。だけどそれを知り、ひどく焦って練習に打ち込んだ。水島とずっと続いていた朝練前の会話もやめにして、一緒に帰るのもデートも何もしないで、ただひたすら練習した。

それから、突然タイムという言葉が重く圧し掛かってくるのだ。今までゴールする時は真正面の景色だけを意識していたのに、突然意識が変わってしまった。タイムという言葉だけで頭の中は埋め尽くされた。笹井は当然のような顔をして練習を次から次へとこなしていた。俺よりも、上手くできる。先輩がいなくなって、二年生で一番速いのは俺だった。部長も任せられた。なのに。笹井は涼しい表情をしていた。先輩にわざわざ変な気遣おうとタイムを遅めたりもしない。

笹井は練習の時と本番の時の目だけは違った。水島とはまったく違う目。その目のあらわしていることが最近になって分かってきた。彼はきっと、水島と一緒でタイムと景色と足と、たくさんのことを一つに縮めて本気の目をしていた。だけどそれだけじゃない。自信のある目。彼にはそれがある。これだけで決定的に違う。

笹井を、世は天才っていうんだろう。生まれた頃から才能があるから。才能をもっているから。胸の一番ひっかかる部分に何かがポトリ、と意図も簡単に落ちる音が聞こえた。

俺は、こいつに勝てない。


実力の差が分かってから、なんのために走っているのかも分からずにただただ無力に地面を蹴って走っていた。勝てないことを十分に理解していても、頭の中がそれが分かっていても、とりつかれたみたいに走っていた。それと同時に、水島のことが、フッと頭の中から消えた。水島は俺が意味のない走りをしている時に、泣いていたのかもしれない。

それからなんとなく水原と関わることがあっさりとなくなってしまった。

多分。水原から「もっとちゃんと付き合って」とかきつく言われれば、すぐに目が覚めたみたいに頭の中は水原でいっぱいになって、沢山また愛情で溢れるだろう。だけど水島は何も言わなかった。涙をこらえて、何も、言わなかったんだ。







三年生になって、部活を引退した日。それから受験に終われて頭の中は勉強のこといっぱいになっていた。
笹井に一度、言われた言葉がある。冷淡な口調で、はっきりとした声で。

「先輩は目の前のことしか見えてなくて、後回しされたものはもう全然見えなくなっちゃうんですよ。タイムばっかり気にしすぎて、結局肝心なことが見えていない」

最初その言葉を聞いて、正直生意気だと思った。
でも、笹井が水島に告白をした、と聞いた時。ああ、そうだ、と分かった。

笹井は、続けて言ったんだ。

「俺は先輩の走る姿がかっこよくて、入部したのに。タイムとか関係無しに先輩は景色だけを見ていた。その目に俺は何故か鳥肌が立った。なのに、今の先輩は」

今の先輩は、タイムを気にしていた時よりも、何も見えなくなって無意識に走っている。

そうだ。俺は、いつだって、そうなんだ。
目の前のことしかみえない異常なほどの欲張り。子供の頃からずっとずっと変わらない自分の特徴。






自然と屋上に足を踏み込んでいた。青い空が広がっていて、雲が千切れたわたあめのようにほんの少し浮かんでいた。雲は少なかった。多分、ついさっきまでの自分は青い空にしか気づいていなかった。ちっぽけな雲の存在になんて、今までずっと気がついていなかったと思う。

勉強のことばかりな頭の中は絵の具で白に塗りかえるように変わっていった。今、俺の頭の中にあるのは、水島だけだった。

水島は、笹井の告白に答えるとしたら、どっちに答えるんだろう。良い方?悪い方?
できれば悪い方にしてほしいなんて考えた自分の首を締めてしまいたくなった。

「…しねよ、自分」

ポツンと呟いて言葉が空に消えた、とき。

誰かが屋上に入ってくるのが分かった。コツン、コツンと静かな靴音。そっと振り返ってみる。


「…いた」

そこには懐かしい、彼女がいた。


水島は随分と変わっていた。同じようにテニス部を退部して、ヘアスタイルはポニーテールではなくなっていた。髪をおろして肩にかかるくらいの長さに整えていた。目元もまた大人っぽくなっていて、表情も同じようだった。

「今日は伝えたいことがあって」

その表情を見たら分かってしまった。言わなくても、分かった。

「笹井くん、っていう二年生の子に告白された。陸上部だから関わったことあると思うけど、今部長している子」
「…うん知ってる、すげえ足速いの」
「ね、」

水島は少しだけ微笑んだ。その微笑みは今、俺のものじゃなくなった。

「それで、付き合うことにしたの」

笹井のものになっていた。奪われたんじゃない。水島をなくした。水島を俺は探さなかった。笹井が水島を見つけた。笹井は沢山水島をかわいがっている。現在進行形で、未来も。きっと笹井なら水島をなくすことはない。

「私たちの関係、あやふやなままだったから」
「…うん」
「もう、いいよね」

水島の声が震えていた。足も震えていた。その震えているのを見て抱きしめたくなってしまった。駄目なことだって、分かっている。そんなことをしたら自分がどれだけ最低だということも。だけど、馬鹿な俺は、告白した時みたいに彼女の背中に手を滑らせた。彼女はそれを拒否した。俺の手からすり抜けて、屋上を出ていった。当たり前なはずなのに涙が出てしまうのは、嗚呼、これはあの頃のように。また水島だけになってしまったから。

俺は水島と別れた。







その夜勉強にも身が入らずにベッドで眠っていたら突然メールがきた。水島からだった。
メアドを変更してから新しいメアドを彼女には教えていなかった。


________________________________

受信メール

2012/7/14 19:30
From: 水島咲子
Title:無題

突然ごめんなさい。佐伯くんと仲の良い秋原くんからメアド教えてもらいました。
屋上の時。一方的でごめんなさい。言いたいことがいっぱいあったけど、突然喉をつっかえたみたいに声がでなくて。文にしたら出てきそうで。卑怯でごめんね。

私、佐伯くんの名前知った時から多分佐伯くんのこと、好きだった。いい名前だなあ、って思った。佐伯くんの顔も実は会う前に見たことがある。高校に入って始めて取った集合写真を友達に見せて、誰が佐伯くんか教えてもらったんだ。皆が騒ぐ理由もわかるなあ、って納得した。それからありがちな少女漫画みたいに恋をした。

私、初めて会話した時のこと。昨日みたいに覚えているの。

佐伯くんが「一位とれないときだってある」って言った時すごいなあって思った。

でもそれと同時に佐伯くんは欲張りだなあーって思ったの。一位をとることが当たり前だと思っているんだろうなあって。欠点と言っている訳じゃないんだよ?ただ、私その時少しだけイラッとした。私は鋭い目をしていると言われるくせにテニスが上手い訳でもなかったから。一位だなんて奇跡に近かったから。

佐伯くんは沢山私に愛情をくれたけど、笹井くんがきてから突然違うものにとらわれてしまったよね。

佐伯くんは、きっと小さい頃。どうしてもほしいお菓子があった時。万引きとかそんな卑怯な手段は使わずに他の手で手にいれたことがあるんじゃないかと勝手に考えたことがあるの。佐伯くんは素敵な外見をしたそのお菓子に惹かれて、やっと手を入れることができて、全部を食べたらあっけなくゴミ箱に捨ててしまう。

沢山味わったらまた新しい玩具が欲しくなって、目の明くそれに惹かれる。
手にいれたものは沢山足元でごろごろと転がって、そのまんま。
私もそのひとつだった?勝手な想像なんだけどね

佐伯くんのことを攻めてるんじゃないんだよ。

私は佐伯くんのふと見せる優しい笑顔が好きだったよ。たくさん、たくさん、大好きだった。

私は不器用だから、「もっとちゃんと付き合おう」の一言さえ言えなかった。文面にはできるくせにね。
声を押し殺して馬鹿みたいに何度も泣いた。たった一言が、だけど重い一言が言えなかった。

笹井くんはいい人です。
ポーカーフェイスだとか周りから思われてるらしいけど、告白してきた時の笹井くん汗すごくってね。すごい顔真っ赤にして。素直そうで。かわいいなって思った。意外だと思うかな。佐伯くんに恋する時みたいに愛情がこみ上げてきた。

笹井くんね、自分が入部する前の佐伯くん見てかっこよかったって言っていた。
私がテニスやっていた頃の時と似ているって、言ってくれたよ。


今までいっぱい、ごめんなさい。

それから、ありがとう。


−END−

________________________________



自分の部屋の電気がついていなくて周りがよく見えなかった。
違う、電気はちゃんとついているのだ。

視界がぼやけて滲んでみえた。それから、自分が涙を流していることに気が付いた。

ちょっと振り向いたら変わっていた?
絶対に変わらないだろう。賞味期限はすでに期限切れ。


水島に、全部見透かされていた。

水島の顔が浮かんでは消えた。何度名前を呼んでも戻ってこない。彼女の言葉が心に優しく刺さった。ごめんなさいってたくさん言わなきゃいけないのは自分なのに。嗚呼、このもどかしい様な冷めた表面をあたたかく溶かしてくれるそれは、きっと恋と呼ぶんだろう。

送信メールを作成する。
伝えられるだろうか。夜の静けさの中、震える指先が電子音を鳴らしていた。

俺は、初めて。新しく欲しがったものを手元において、あきらめた。


新しく欲しかったものは もう一回 もう一度だけ それは水島 のこ こ ろ





明日のパノラマ
(君を想って伝わったあの日みたいに、明日も彼女にとって素敵なパノラマに色づきますように)






fin





title 誰花
20130112 蓬生
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