もう疲れたの。だからすべて終わりにするの。そう呟いたのは何度目だったか。その都度結局遂行できずに終わるのだけど。だって、それを実行するだけの気力がない。頭の中で何度も自分を殺す夢を見てそれで一時は許されたような気分になる。でも、もう限界だった。
時刻は早朝がいい。夜の闇から抜けきるかどうかの曖昧さが好き。季節はちょうど梅雨時で鬱蒼と繁る緑の色深さが心地好い。場所は山の奥深く、峠になっている辺り。この時期、あの通りは霧が発生しやすい。真っ白な靄に包まれて一寸先も見えないような視界の悪さは谷底へと一歩踏み出すのにちょうどいい。そう、何もかもが好都合。あたしという存在をこの世界から消すのには。
「死にたいの?」
岩壁に立って真っ白い靄を見つめていると、後ろから声を掛けられた。ゆっくり振り向くとここの木々と同じような深緑の髪と、眸の男。その男からすぐに視線を逸らしてあたしは呟いた。
「死にたいわけじゃない。この世界から消滅してしまいたいだけ」
言葉にすると意外なことにスッとした。これでもう楽になれる、すべての柵から解放されるんだと不思議とそう思えた。
「甘いなぁ」
「…何が?」
「死ぬにしても、消えるにしてもそれは君が考えるほど素敵なモノではないよ」
「それは、人それぞれじゃない?…少なくともあたしは、この世界よりはましだと思ってる」
あたしの言葉に、目の前の男はまた口の端を歪めるだけの嫌な笑い方をした。
「根性曲がってるね」
どっちが、ってよっぽど言ってやりたかったけど心の中でぼやいて止めた。いい加減、こんな変な男の相手をしていたら太陽が出てきてしまう。折角整えた舞台が台無しになる前にあたしはケリをつけたかったから、再び前を向いて靄の中へ足を踏み出す。
「ダメ」
「…離してよ」
「イヤ」
「なんで」
「だって君はまだ知らないから」
何を言っているのだろう。見ず知らずの他人の行く末なんて放っておけばいいのに。あたしにはもう必要ない。要らないんだと断ち切ってきた筈なのにどうして。腰に回された腕の強さとか耳の上で聞こえる声だとか背中越しに伝わる体温だとか。
「この世界で幸福を感じられるたくさんの事象を、君はまだ知らないだけ」
知らない、だけ?本当にまだこの世界には幸せと呼べるものが存在するのだろうか。
「私が君の世界を変えてあげる」
だからね、もう少し生きてみて。
彼の言葉とともに現れた太陽は今まで見たこともないぐらい神々しく輝いていて、とても綺麗だった。まるでこれからのあたしに強くあれと励ましているような、そんな気持ちにさえなってくる。生きていて良かったと心の底から思えた瞬間だった。
END