仕事も漸く一段落ついて、あとは一日の報告書をパソコンで入力すれば終わり、という時だった。
「九郎ー!ねぇ、九郎ってば!」
「うるさいぞ名前。静かにしないか」
バタン、とドアが開いて耳に馴染んだ声が響く。いくら名前と俺しかいないとはいえ、この静まり返った部屋に彼女の声は馬鹿みたいに大きく響く。
パソコンの画面を睨み付けたまま、返事をすれば名前は俺の正面まで周りこんでくる。
「だって九郎が構ってくれないんだもん!どっか遊びに行こ?」
誰がどう見ても仕事中なのは一目瞭然の筈だ。それを放って遊びに行くだなんて、どういう思考回路なんだ、名前は。
「今忙しいんだ。後にしてくれ」
ため息を吐きながらそう言えば、名前はとんでもない爆弾発言をした。
「えぇーっ…じゃあ泰衡と遊んでもらお」
ちょっと待て。
どうしてそうなるんだ。
名前が他の男、しかも泰衡と遊ぶというのは非常に気に入らない。気に入らないが、ウィンドウには白紙のままの画面が表示されている。
仕方ない、報告書は後回しにして──…
「アイツ…!」
振り向いた時には既に時遅し。名前はさっさと荷物を纏めて出ていった後だった。
画面はそのまま何も入力せず、開いていた白紙のウインドウを全て閉じてシャットダウンする。唯一の手荷物であるビジネスケースを乱暴に掴み、部屋を出る、と。
「あれ?九郎、もう仕事終わったの?」
両手で抱えるようにして携帯を持っている名前の姿。
「お前こそ何をしているんだ。泰衡のところへ行ったんじゃないのか」
俺の言葉にきょとん、とした表情の名前。しまった、と気づいたのは名前がニヤリと嫌な笑みを浮かべたからだ。
「いや?それが泰衡が捕まらなくってさぁ。まぁ九郎が仕事終わったみたいだから九郎に遊んでもらおうかな」
「俺も暇なわけじゃ、」
「だって、私のために仕事終わらしてくれたんだもんね?」
別にお前のためじゃない。仕事を時間内で終わらせるのは社会人としての基本だ。だが、それを正直にそのまま言うほど俺も馬鹿じゃない。名前がこういうニヤニヤした顔のときは何か企んでいる、ということぐらいはもう分かっている。それは大抵こちらの不利になることなので、余計なことを突っ込まれないように黙っておくのが一番だ。
ああ、でもあるいは。
「…ほら」
そう思いあたって、すっと名前に片手を差し出す。
「え?」
「早くしろ」
「…何が?」
「だからっ!今日は、お前のために仕事を終わらせたんだから…!早く、帰ろう」
「…うん!」
片手越しに伝わる名前の体温はほんのりと心地よい暖かさだった。
(プラットホームに背を向けて)
END