彼がここ、所謂こちらの世界に来て幾日か経った頃、あるひとつの事実に気がついた。この家には家主である姫と彼以外誰もいないのだ。そもそもここが屋敷と言っていいのか迷うほどの狭さではあるのだが。姫はさもそれが当然という風だったから今まで気がつかなかった。
「姫様!それは一体何をされているのですか?」
「え?何って…ご飯作ってるんだけど」
何たる失態…!とばかりに三成はショックを受けているが、調理に集中している姫は気付かない。それが後の悲劇を招こうとは、誰も思わなかった。
【凶王、まさかの家事】
パリン、といういっそ可憐な破壊音を立てた原因を三成は凝視する。割れてしまったのは硝子の器だった。彼は知る由もないが、耐熱性の深皿で使い勝手のよいまさにオールマイティーな器である。それを、割ってしまった。
手伝うなどと言っておきながら、これでは逆に手間をかけさせることになる。どうすればいいのかという困惑、洗い物すらまともにできない不甲斐なさ。その他諸々で頭の中が混乱してしまった三成は、そのまま動くことができなくなった。
そして、その数時間後。
「ただいまー…?三成?どうしたの」
仕事から帰宅した姫は、玄関からすぐ見える流しに突っ立ったままの三成に声を掛けて首を傾げる。反応のない三成を怪訝に思いつつ近づいて、ひょいと流しを覗き込む。
「あ、あー…割れちゃったか」
粉々、ではなく見事なまでに真っ二つに割れている器を見て納得する。
「まぁ、また買えばいいし。それより三成、指とか切ってな、」
切ってない?と続くはずだった言葉は寸でのところで止められた。この時ようやく三成の表情に気づいた姫は咄嗟にマズイと判断した。
「大丈夫だってば。もうかなり前から使ってたやつだから」
言いながら背中に触れ、言い含めるようにもう一度「ね?」と微笑む。二つに割れた器を見つめたまま呆然としていた三成がここでようやく姫に目を向けた。
「姫様…」
あ、やっぱりダメか。涙が零れるギリギリ一歩手前のような三成を見て眉を下げつつ、わざと声を明るくする。
「三成泣いてたらわたしまで悲しくなっちゃう。ほら、手、洗って」
どれぐらいの時間をそのままの体勢でいたのだろう。訊くのも何だか憚られるが、長いこと突っ立っていたんだろうと姫は当たりをつける。
一緒に手を洗って、タオルで拭いて。もう一度大丈夫だと言うようにしっかり手を握って心の中で呟いた。三成に家事は無理だと。
END