027


 机の上に置かれたものに、私はただ絶句することしかできなかった。
 対面に座るセノンの顔は至って真剣で、とてもじゃないけれど冗談の類には見えなくて。

「ミナト。受け取って」
「・・・・・・そん、な、だって、これ」
「お願い」

 そのもの自体は、深い意味を持つものではないのだろう。セノンがいつも身に着けていたシンプルなネックレスだ。ただ、これを私に託すことの意味は、差し出された瞬間に理解した。理解したくないとも、思った。
 セノンが私にこれを渡す意味、――――それはきっと、餞別に他ならない。すなわちセノンは、私を見送るつもりなのだ。この水の都で。心臓が苦しくて呼吸が浅くなる。そんな私をじっと見据えるセノンは、もう何もかもを決めてしまったような顔をしていた。

「・・・・・・意味は、分かるでしょう?」
「ッそれは・・・・・・!」
「お願いよ、ミナト。これぐらいさせて」

 セノンが、私の手にいやにひやりとしたそれを握らせる。強く、握り締めるようにされて、私の指がネックレスのトップに触れた。セノンが借金取りとしての初任給で買ったものだ、よく覚えている。思わずセノンを見つめれば、彼女は優しく笑いながらも、今までに見たことがないくらいに、悲痛な瞳をしていて、――――ああ。
 喉が塞がる。目頭が熱くなる。どうしようもなく胸が苦しくて、苦しくて、堪らなかった。私が考えていることのすべては、セノンにはとっくにお見通しだったのだろう。私が麦わらの一味に惹かれていることも、セノンを置いてはいけないと思っていることも。
 ああもう、ほんとうに、セノンはずるい。ずるくて、――――最高の、私の姉だ。

「・・・・・・私、セノンのこと置いていきたくなかった。本当なの」
「分かってるわ」
「でも、どうしても・・・・・・私も、故郷を見つけたい。それに、あのひとたちの仲間になりたいって思っちゃった。・・・・・・分かる?」
「ええ。・・・・・・彼らは本当に、素敵な人たちだった」

 噛みしめるようにそう言ったセノンは、するりと私の手を放すと、そのまま書きかけの原稿用紙を指先で弄ぶ。

「この際だから全部言ってしまうけど。・・・・・・私は、いつかは貴方を手放さなきゃいけないと思っていたの。ずっと前から。貴方があの本を書いて・・・・・・貴方がまだ海に焦がれているって気付いたときから、お父さんの背中を少しでも近くに感じていたいのだと気付いたときから」
「え・・・・・・」
「麦わらの一味のことも・・・・・・この島に来たのはきっと運命だった。私、麦わらさんを見たときに、ミナトのことを迎えに来たんだと思ったわ。あの人たちの問題に巻き込まれて、政府に居場所がバレて・・・・・・これでミナトはもう、ここにはいられない。貴方を追いかけて乗った海列車の中で思ったの。私では、もうミナトを守りきれないって」

 ここに縛り付けてミナトが捕まるぐらいなら、海賊に攫われたほうが数千倍もましだわ。
 セノンはそう囁いて、口の端に下手くそな笑みを浮かべてみせた。たぶん、私も似たような顔をしているのだろう。

「――――だからね、ミナト。どうか私のことを置いていって」




 あ。
 ぽろりと零れた音に反応したのは、私の斜め前で本を捲っていたアイスバーグさんだった。どうした、と目で尋ねてくる彼に、私は少し視線を彷徨わせてから、小さく頭を下げた。

「すみません。その・・・・・・市長が読んでいらっしゃる本が、その」
「・・・・・・ああ、妹の書いた本なんだってな。小耳に挟んだんで読ませてもらってる」
「恐縮です。お気に召していただけました?」

 あまりにも見慣れた装丁。仕事中だというのに何を読んでいるかと思えば、ミナトの本だったなんて。何となく彼がああいうラブロマンス物を読むイメージがなかったせいか、はたまた身内の贔屓目か。仕事をしてくださいねと窘める予定だった唇は、勝手に彼に感想を求めてしまう。

「ンマー、俺はこういうロマンス物はあんまり読まねえんで敬遠してたんだが・・・・・・なかなか面白ェよ。タイミングが良いことに最近、海賊ってモンの見方が変わったんでな。主人公たちの活躍には、年甲斐もなく肩入れしちまう」
「・・・・・・ミナトに伝えておきます。多分、ものすごく喜ぶと思うので。・・・・・・あの子、人から感想を貰うのに慣れてないんです」
「そうなのか。・・・・・・しかし、セノン」
「はい?」

 アイスバーグさんが本から顔を上げて私を見る。私がこうしてガレーラカンパニーで働き始めて一週間は経つけれど、未だに彼の空気感を把握しきれていなくて、次に来る言葉が上手く想像できないでいる。だから、彼の唇から飛び出してきた言葉に、一瞬呼吸が止まる。

「俺は、今日は『お前は休み』だと言わなかったか?」
「・・・・・・」
「セノン?」
「そう、ですね・・・・・・何も言われないので忘れていらっしゃるのかと」
「俺はそこまでボケてねェよ。・・・・・・それで?休みのくせにわざわざ働きに来た理由は何だ?」
「・・・・・・それは、」
「まァ、俺が読んでる本に反応したときの顔で大体想像つくが」
「・・・・・・それ、もうほとんど答えでしょう」

 私は息を吐いて、手元に広げていた書類を纏める。町の復興と造船所としての仕事で忙しい時期だ。従業員全員に対して休めるときにしっかり休めと厳命している以上、私の話を聞いても、彼は「そうか。まァいいや、帰れ」と言うのだろう。

「今日は、家に麦わらの一味の皆さんが来ているので。――――ミナトを奪いに」
「・・・・・・そうか」

 アイスバーグさんは、私をじっと見つめる。その目は私の中に何かを探しているようで、思わずくすりと笑ってしまった。
 たぶん、彼は心配してくれているのだ。たった一人の家族、たった一人の、私の大切な妹。永遠に失われてしまうかもしれないその大切なものを、手放すと決めた私を。その心遣いが有り難い。

「大丈夫です。昨日、ちゃんと話しました。・・・・・・寂しくは、なりますが。彼らが出航するまでにまだ日にちはあるでしょうし」
「そうだな。船が完成しないことには出られない。それまでの間はここに残るはずだが・・・・・・まァ、」

 彼は何故か、ちらりと視線をドアのほうへ遣る。不思議に思って私も彼の視線を辿れば、ドアはうっすらと開いていた。

「ンマー、パウリー、そんなところにいねェで入って来い」
「あー・・・・・・すみません」
「・・・・・・立ち聞きですか、パウリーさん」
「うるっせェ!!もともとこのドア開いてたんだよ!!お前が閉め忘れたんじゃねェだろうな借金取り!!」
「私はもう借金取りではないのですが・・・・・・」
「知ってるっつーの!!!」
「はは、お前ら二人は仲はいいが、うるせェのが難点だな」

 くつりと笑ったアイスバーグさんに、思わず私もパウリーさんも押し黙る。いつもは気が済むまでぎゃんぎゃんと騒ぎ立てるパウリーさんも、彼にうるせェとまで言われてしまえば、そうせざるを得ないのだろう。苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いてしまった。
 私はこういうやり取り、嫌いではないんだけどな。

「まァちょうどいい。聞いてただろパウリー、セノン連れて町でもぶらついてこい」
「え、」
「エッ、ちょ、アイスバーグさん!?」
「お前も最近働きすぎだからな。今日ぐらいは休んでデートでもしてこい」
「デ!?で、でで、で、」
「デートですか」
「さらっと言うんじゃねェよハレンチかテメェ!!!」

 顔を真っ赤にして怒鳴るパウリーさんを横目に、私は鞄に残っている仕事の分の書類を放り込んで、アイスバーグさんへ会釈をする。そのまま「マジかよ」みたいな顔をしているパウリーさんの背を押して、社長室を辞した。

「・・・・・・おい、ほんとに行くのかよ」
「私は・・・・・・今、ちょっと家には、帰れないので適当にご飯でも食べて、後は買い物でもします。パウリーさんも、せっかくお休み貰ったんですし、好きなことをしてください」

 廊下で向き合う形になったパウリーさんに、ひらひらと手を振ってみせる。
 パウリーさんがまさか私と『デート』に行ってくれるなんてもともと思ってない。そもそも、私じゃなくったって難しいだろう。だけど、私はともかくパウリーさんは確かに働きすぎだ。そろそろ休んでほしいと私もちょうど思っていたところで、これを機にお休みがもらえるのなら、あそこで大人しく頷いておいた方がいいだろうなと思っただけ、で。
 そう、ただそれだけだ。

「ア!?」
「え?」
「いや・・・・・・だってお前、アイスバーグさんに、」
「あ、大丈夫です。気にしないでください」
「・・・・・・」
「・・・・・・パウリーさん?」
「・・・・・・オイ」
「はい」
「・・・・・・メシ、どこに行くつもりだったんだ」
「・・・・・・え」

 思わず彼の顔を見る、見る。パウリーさんは真っ赤な顔をしているくせに、いやに真っ直ぐに私を見つめていた。それに、聞き間違いじゃなければ彼は、私と一緒にご飯を食べてくれる、ような、ことを。
 パウリーさんは、あの島から帰ってきて、前よりもずっと私に対して気安くなった。というか、あのときに染み付いたツッコミ癖のようなものが抜けないのだろう。同じ会社に勤めるようになったのも大きいと思う。でも、それでもやっぱり彼の本質は変わっていなくて、相変わらず私がタイトスカートを履いていればハレンチだと叫ぶし、あのときは混乱の中とはいえ、私の手を握ったり、私を抱きしめたりなんかしていたのに、今は指が触れようものなら逃げるように走り去ってしまうのだ。
 そのパウリーさんが、私とご飯に行ってくれる、なんて。

「・・・・・・一緒に食べてくれるんですか?」
「ッし、仕方ねェだろ!!アイスバーグさんに言われたんだから!!!・・・・・・そ、れに」
「それに?」
「・・・・・・言っただろ、エニエス・ロビーで、」

 町に帰ったら何か奢ってやる、ってな。
 パウリーさんは少し得意げに、にやりと笑ってみせる。私の頭の、ひどく冷静な部分は、ああそんなことあったなあとか、よく覚えてたなあとか、そんなことを嘯くのに、心臓があつくて、いたくて、私は思わず息を止めた。
 彼の顔を見ていれば分かる。アイスバーグさんに言われたからとか、奢りだとかは理由の一部で、たぶん彼は、これからミナトを失う私を、心配してくれている。アイスバーグさんと同じようで、また少し違うその心が、私の心臓を掻き乱す。

「・・・・・・パウリーさん、私に奢るお金、持ってるんですか」
「あァ!?失礼だなテメェ!!!あるに決まってんだろ!!!」
「エレファントホンマグロとか、頼んじゃいますからね・・・・・・」

 それはやめろ頼むから、なんて呻くパウリーさんはきっと、私の声が少し濡れて、震えていることにもうとっくに気が付いている。


どうか見逃してエンドロール

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