音の無い世界に行きたい。俺は今まで幾度となくそう願ってきた。そうすれば、もう父さんと比べられる事もなくなるし、母さんだって苦しまずにすむ。
だからか、俺は自然と耳を塞ぐ手に力をこめ、もっともっと無音の世界を求めた。そうして音楽から逃げる俺の目の前は真っ暗で何も見えない。ただ一人、音の無い世界に、一人きり。


「四ノ宮那月です」


突然聞こえてきた、俺よりも少し高めなテノール。真っ暗なこの世界に聞こえたその声に、俺は弾かれたように顔を上げた。そこにいたのは背の高い眼鏡の男。そいつはバイオリンを弾き始めた。

その瞬間、俺の中で何かが弾けた。それは俺の心を浸していくように暖かで、俺が捨てようとしていたもの。


「馬鹿みたいだ」


俺は小さく呟いた。目の端に浮かんだ水分を指で拭う。その時、俺とあいつの目がばっちりとあった。そいつは僅かに目を見開くと、バイオリン片手に教卓の前から俺の方へ飛んできた。


「な、んだよ」
「泣いています、どうかしましたか?お腹空いたんですか?」
「は、はあ?」
「クッキーです。どうぞ。だから泣かないでください」


周りの視線が痛いほど突き刺さる今、そいつは俺の目の前にクッキー(かなり見た目は悪い)を突き出してきた。なんなんだ、一体。


「いや…欠伸だし。それも、いらねえ」
「そうなんですかぁ?…それならよかったです。お腹が空くのって、とぉっても辛いですから」
「は?いやうん…とりあえず席、着けば…」
「あ、はい。そうします」


それからそいつは俺の隣に腰掛けた。って、隣かよ。周りも俺たちへの関心が薄れたのか、次のやつの自己紹介へと向き直っていた。


「奏多くん、僕は四ノ宮那月です」
「ああ…うん」
「なっちゃんって呼んでください」
「わかった四ノ宮」
「ふふ、奏多くんは意地悪ですねぇ」


何を考えているんだこいつは。正直話の通じないやつは苦手だ。出会って数秒で名前呼びなんて俺には真似できない。隣でにこにこ笑う四ノ宮をちらっと見ると、更に笑みを深めた。…ほんとなんなんだよ。






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