早乙女学園を受験すると決めた時から、わたしは発表した日以降のスケジュールを全て無くしていた。しばらく芸能活動ばかりで勉強なんてしていなかったし、何より心のゆとりが欲しかったからだ。
「勉強ってどうしたらいいのかな…」
トキヤくんは今日も仕事だから聞けないよね。携帯のアドレス帳を開いてみたけれど、登録件数は両手で足りる程で。あ、あれ、わたしってお友達いなかった…?ええ、どうしよう。
「うーん…本屋さんに行こうかなあ…」
確か、トキヤくんが本屋さんには参考書とか、勉強に活用出来るものがあるって言っていたような気がする。うん、そうしよう。思い立ったら吉日、わたしは毛糸の帽子と黒縁のだて眼鏡、更にマスクをつけた。一応昨日まで芸能人、だったわけだから。鏡を見て不審者みたいだなあなんて思ってしまったけれど、多分わたしだとは思わないだろう。
「よしっ」
そう意気込んだわたしは、鞄を手に本屋さんへと向かった。
***
家を出たはいいけれど、本屋さんがわからない。ど、どうしよう。ここはどこだろう…。トキヤくんやお兄ちゃんと、ちょっと前に買い物に行ったりしていたからわかってるつもりだったのに。なんだか住宅街にいるみたい。ショッピングモールとか、本屋さんらしい所は見当たらなかった。
「あの…っ」
うう、涙が出そう。トキヤくんお兄ちゃん助けてください。空を見上げれば青く澄んだ空が広がっていて、なんだか本当に涙が出そうになってきた。
「あ、あの…!」
くいっ、とわたしの来ていたパーカーが引かれる感覚がした。見るとわたしと同じくらいの女の子がいた。
「え、あ…ごめんなさい、お金ないです!」
「…え?」
外で見知らぬ人に声をかけられたら無視しなさい。でもどうせ君は何も出来ないだろうから、お金は無いとでも言って逃げるように。
その昔、トキヤくんに言われた言葉だ。ち、ちゃんと言えたよトキヤくん…!
「あ、違っ…そうじゃなくて、なんだか…困ってるみたい、だったので…」
「え、」
目の前の女の子は迷子になっていたわたしを助ける為に来てくれたという事だろうか。なんていい人なんだろう…!わたしは思わず、がっしりと女の子の手を握った。
「迷子なんです!」
「え」
「本屋さんの道を教えてくれませんか!」
「は、はい…!」
そんな優しい女の子は、七海春歌ちゃんと言うらしい。可愛い名前だね、というと、顔を真っ赤にして手をぶんぶんと振った。
「えっと、あなたのお名前を…」
「あ、う…」
これは困った。一応変装しているわけだから、本名は駄目だよね…。
「いっ、一ノ瀬千早です!」
「千早、ちゃん」
お、思わずトキヤくんの名字を使ってしまった…!ばれたら怒られる、かも…。
「アイドルの千早さんと同じ名前なんですねっ」
「え!?あ、うんよく同じだよねって言われるん、だ…あは…」
なんでも春歌ちゃんはおはやっほーニュースのファンらしく、HAYATOくんとわたしは憧れなんだとか。嬉しいなあ、そんな風に言ってくれるなんて…。
「ごめんね、わたしのせいで迷惑かけちゃって」
「いえっわたしもショッピングモールに用があったので…気にしないでください」
話していてわかった、春歌ちゃんは優しくて音楽が大好きな、すごく素敵な女の子。顔を覆っている長い前髪が、あまりそう見せないだけ。本当は魅力的だと思う。
「あ…」
「どうしたの?」
「あれ、です」
突然春歌ちゃんは立ち止まり、ビルに貼られた大型の広告を指差した。あ…、あれはわたしだ。香水の宣伝に使っているもの。春歌ちゃんはその広告を見て、ほうっと溜め息を吐いた。
「…わたし、将来作曲家になりたいんです」
「え…?」
「千早さんや、HAYATOさまに、楽曲を提供したくて…」
そう呟いた春歌ちゃんの横顔はキラキラと輝いていた。思わずその眩しさに目を細める程に。
「…あ、ごめんなさい!わたしの夢なんて…」
「そんな風に言ったらいやだよ、春歌ちゃんの夢、すごく素敵だもん」
「…本当、ですか?」
「うん、ほんとだよ!」
わたしがそう言うと、春歌ちゃんは笑った。それから少しして、ショッピングモールに到着した。
「ありがとうございました!」
「う、ううんそんな…」
「あのっ、よかったら、アドレス教えて…?」
「は、はい!」
わたしたちは携帯を取り出した。赤外線で春歌ちゃんのデータを受け取り、わたしも送った。お友達が、増えたよトキヤくん…!
「えっ、えええ!?」
目の前で携帯の画面を見て、春歌ちゃんが叫んだ。周りの人が何事かとこっちを見ると、春歌ちゃんは真っ赤になって黙り込んだけれど、やっぱり画面を見つめている。
「どうかした?」
「えっと、…その、これ…」
「?」
わたしが聞くと、春歌ちゃんはおずおずと携帯をわたしに見せてくれた。
登録完了
九条千早
「あ、」
「千早ちゃん、って…」
「えっと、うん、…そうなの」
わたしがそう言うと、春歌ちゃんはその場にしゃがみ込んだ。
「春歌ちゃ、」
「恥ずかしい…!本人の前で、わた、わたし…!」
そんな春歌ちゃんをなんとか立たせて、わたしは言った。
「お友達になってくれる?」
「わたしで、いいんですか…?」
「もちろん!」
そうして、その日からわたしたちはお友達となったのだ。用も済まし帰宅した後、アドレス帳を見てわたしは笑顔になった。
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