箱庭ロマンス | ナノ


 ここ最近、鬱々とした気分のまま日々を過ごしていた。何故こうも気落ちしているのか。理由は分からないけれど、原因ははっきりとしていた。
 不意をついて思い起こされた記憶の断片。幼い頃に一度会った切りの初恋の相手。その人がもし、直ぐ近くに居たとしたら。それが仮に、征十郎さん以外だったとしたら。最近はずっと、そんなことばかりを考えてしまっていた。
 一番可能性があるのは黄瀬さんだ。彼には私と花見で会った時の記憶がちゃんとあるのだから。それだけで判断していい訳でもない。それは充分分かっている。勿論、黄瀬さんだから嫌だとかそういうことも一切ない。それは他の人であったとしても同じだ。
 それなのに何故、私の心にどんよりと雨雲が広がっているんだろう。考えに考えて、晴れ間が差し込む訳でもない。更にモヤモヤと濃い霧になり辺りを暗くするだけだった。
 そんな私を見かねてか、部屋に引きこもっていた私に黒子さんが声を掛けてくれた。「お茶しませんか?」と。

「……美味しい」

 陽谷さんが淹れてくれた紅茶を飲み、ホッと息を吐く。薔薇のジャムで香り付けされたそれが、ゆっくりと私の体を解してくれる。
 そして、部屋中を漂う甘い焼き菓子の香り。白磁の皿の上に無造作に広げられたビスキットを一枚口に入れる。ホロリと口の中で溶ける優しい味と、軽い食感に思わず目尻が下がる。「美味しい……!」本日二度目のその言葉は、先程よりも幾何か明るい調子になっていた。
 先程までどんよりと沈んでいたのに、菓子一つで現金なものだ。恐らく黒子さんもそう思っているに違いないと、向かいに座る黒子さんをこっそりと覗き込む。しかしそれは私の取り越し苦労だったのか、涼やかな瞳を和らげてこちらを見つめる彼がいた。そこに少しの安堵が混じっていて、心配させてしまったことへの申し訳無さが沸き立ってくる。
 そして、今度は黒子さんの隣で小さく溜め息を吐いた人物へと視線を移す。私の調子に呆れているのは黒子さんでは無く、むしろ彼らしい。黒子さんと似ていないようなのに、彼同様にどこか惹きつけられる強さを持った瞳が真っ直ぐに細められていた。

「……塞ぎ込んでるって聞いたけど、案外元気じゃねーか」

 そう言って、ごそりと皿の上のビスキットを奪っていく。「行儀悪いですよ、火神くん」黒子さんが窘めるが、彼の口に吸い込まれた物達が容赦無く音を立てた。

「すいません、気を使わせてしまったみたいで……。お二人共お仕事の最中だったのに」
「いいんです。僕が勝手にしてることなので」
「本当にな」
「火神くんだって気になっているんでしょうに」

 黒子さんが綺麗な所作でカップに口を付け、サラリと言い放つ。その横で、苦い顔付きで紅茶を煽る火神さん。どうやら図星だったらしい。
 −−火神大我さん。大衆誌を扱う誠凛社の正社員で、黒子さんとは彼の小説が泣かず飛ばずの頃からの付き合いなんだとか。長い付き合いだと言う彼等は、売れっ子作家とその担当編集と言う間柄でありながら、「喧嘩する程仲が良い」を地で行く友人のようにも見えてしまう程にお互いを信頼しているようだった。
 黒子さんを介して知り合った火神さんには、黒子さんの原稿を待つ間に話し相手になってもらっていたこともあり、勿論黒子さん同様にあの話もご存知な訳で。

「でも、まぁ。そんなに塞ぎ込むようなことでもねぇもんな」
「え?」
「だってそうだろ? 仮に初恋の相手が黄瀬だったとして、それはもう過去のことな訳で、悩むことでもねぇだろ」
「それは、そうなんですけど……」

 火神さんもまた、黒子さんとは違う形で心配をしてくれている。軽い調子で言った言葉なのに、声音にはどこか優しさも含まれていて。
 火神さんの言うことは最もだと頷きかけて、躊躇う。何も塞ぎ込む程ではないのだろう。それは私自身もよく分かっていることではあるのだ。
 でも、思い出さなければいけないような気がするのだ。それが私の使命−−だと言えば大袈裟だけど。
 宝箱の鍵を無くして、目の前に宝物があるのに諦めきれる程割り切れるものではない。それが例えば、私にしか価値が見いだせない物だったとしたら余計に。それ程にとても大切な思い出だった筈だから。

「てゆーかさ、そもそも黄瀬ちんじゃないんじゃない?」

 再び私の周りを薄暗い靄が漂い始めた時だった。背後からの突然の声に思わず肩が震えた。
 慌てて振り返ると、ふわふわと鼻孔を擽るビズキットとは違う柔らかな香り。眼前に今にも崩れんばかりに積み重なるシユウクリーム。の、脇からひょこりと顔を出したその人に驚きすっとんきょんな声を上げて叫んでしまった。

「え? む、紫原さん!?」
「綾芽ちん久しぶりー」

 顔のあちこちに白い粉を付けてはいるが、後ろで一つに結われた紫の髪に異人さんも吃驚の長身のその人は、間違い無く老舗和菓子屋紫原の若旦那だった。
 私の家に客人が来る際や、催しをする際に紫原にはよくお世話になっていたので、当然若旦那とも顔見知りでもあるのだけど。まさかこんな場所で会うことになるなんて……。しかも、我が物顔でどかりと私の隣に腰を落ち着け、出来立てホヤホヤのシユウクリームを手に取り口の中に放り込んでいる。

「んー、うまい」
「……うん、美味しいです。紫原くん、どんどん腕を上げていきますね」
「でしょー? 和菓子も良いけど、やっぱり今は西洋菓子だよねぇ。うちにも洋菓子用の調理ストーブ欲しいんだけどさぁ、親が二人共反対して。やだやだ、本当」
「紫原くんのお父上は職人気質ですからね」
「ただの分からず屋だし。そりゃ和菓子も美味いけど……綾芽ちん? 何ボケッとしてんの?」
「あ、あの……」

 紫原さんと黒子さんが、二人揃って口端にクリームを付けながら私へ向かって首を傾げてみせる。私は私で、聞きたいことが沢山あった為にどう切り出していいか分からず、二人を見つめ返す。
 そこで、本日二度目の火神さんの溜め息が私の耳元を掠めて行った。



 実家で洋菓子を作るとあまりいい顔をされないからと言う理由で、友人の征十郎さんの家の厨房を借りていた紫原さん曰わく、私の初恋の相手は黄瀬さんでは無いと言う。黒子さんと火神さんとの会話が隣の厨房まで筒抜けだったことに、穴があったら入りたい気持ちにさせられたけれど。羞恥心はこの際、適当な場所に置いておくとする。
 何故そうお思いに? 私の問いに、紫原さんは口端に付いたクリームをペロリと舐めとった後に事も無げに答えてくれた。

「綾芽ちんの話を聞くに、その相手って大人しい感じだったんでしょ? ほら、黄瀬ちんは昔からあんな感じでキャンキャン騒がしかったし、なんか違うような気がするんだよねー」
「そう言われてみれば、そうですね……」

 紫原さんが言う黄瀬さんの表現は、この際聞き流すとして。太陽のように明るい黄瀬さんと、ぼんやりと浮かぶ少年の面影を比べる。
 そうだ。黄瀬さんが太陽ならば、あの子は……。ほんのりと浮かべた笑顔は穏やかで、まるで月のようだった。太陽とは正反対の、満ち足り欠けたり、様々な表情を持ち合わせながら儚くも穏やかな月。

「それじゃあ、別の人……?」

 もう少し何か、手掛かりが欲しい。祈るような思いで紫原さんを見つめる。
 と、彼は少しだけ悪戯めいた光を瞳に宿し、ニヤリと唇を引き上げる。
 そして、とんでもないことを口にするのだ。

「もしかして、俺だったりしてー」
「え!?」
「俺も黄瀬ちん家の花見には毎年呼ばれてたし、可能性はあるよねぇ」

 冗談とも取れるその言葉の筈なのに。笑い飛ばすことも怒ることも出来ないのは、強ち否定できないからだろう。ああ、明確に思い出せない自分の記憶力が恨めしい。
 そうして、わたわたと狼狽える私に、もう一つの事実が飛び込んで来る。

「だったら、僕もですね」
「黒子さん!?」
「綾芽さんには言って無かったんですが、実は僕も毎年黄瀬くんの家の催しにはお呼ばれされているので」
「他にも、みどちんとかもいるしね」

 へたり。力が抜け、ソファーの背に体を預ける。
 頭の中がぐちゃぐちゃに引っ掻き回された気分だ。私の脳みそは今や殴り書きをして何が書いてあるのか判別の着かない紙切れのように頼りなかった。「余計に混乱させてどーすんだよ!」許容量も限界に達し呆然とする私を気遣う火神さんの声すら遠く感じた。

「そうは言ってもさー。ま、結局は自分で思い出すしか無いってことだよね」

 そう言って、あっさりと私を見切った紫原さんは、また一つシユウクリームを頬張った。
 私は、もう考えることを放棄したくなってしまった。



 考えを放棄しても、結局次に思い浮かべるのは征十郎さんのことだった。私の思考に優先順位などは無い。敢えて言うなら、その殆どが征十郎さんで埋まっていると言うことなのだろう。
 自分の心の比重が、ゆっくりと徐々に、だけど確実に速く、彼と言う存在に傾いていることへの自覚はある。それは彼によって仕向けられたことでも、私がそういう心積もりをした訳でもない。そうなることが当然で必然だったと。まるで自然の理のように。
 だから、私が征十郎さんの書斎を訪れて、二人で紫原さんの作ったシユウクリームを食したとしても、何にも問題は無い、筈なのに。

「綾芽さん、口端にクリームが付いているよ」
「え……!」
「違う違う。反対側」

 長く綺麗でいて節くれだった指が、私の唇をソッと撫でた。沸騰したように熱くなった私の顔を見て、微笑むその姿がいつも通りに悪戯めいていてどこかホッとさせられた。
 だからこそ思うのだ。私の鍵を無くした宝箱の中身が征十郎さんだったらいいのにと。でもそれは、ただ私が征十郎さんの隣に居られる理由を作ろうとしているだけの、我が儘に過ぎない。そこに、どうしても小さな溝が出来てしまって、私はそれが怖くて飛び越えられない。

「どうかしたのかい? いつもならもっと狼狽えるところなのに」
「いえ、あの……」

 そんな臆病な私さえも見抜いているような双眼は、宝石のようで恍惚とさせられる。多分の輝きを含んだ宝石は、今はとても穏やかで私を優しく諭してくれた。
 きっと、征十郎さんは私が悩んでいることすらとうの昔に分かっていたんだろう。そうなれば全てを征十郎さんに話してしまいたかった。この人は、私が真剣になって話せば、それ以上に真剣に受け止めてだってくれるだろう。知り合って日はまだ浅いけれど、二人の距離はそれを差し引いても尚、遠く離れることはないと信じている。

「綾芽さん?」
「ごめんなさい、何でも無いんです。ただ−−」

 そう思って口を開きかけたのだけど、結局考えが纏まってなければ言葉として形を為すことは出来なくて。小さく首を振って、笑ってみせる。

「ただ、私にとっての最初で最後は、全部征十郎さんがいい、と思っただけなんです」

 初めて自分から触れたその手は、私と同じ暖かさに満ちていた。




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