箱庭ロマンス | ナノ


 私と征十郎さんの婚約の話は社交界の方にも瞬く間に広がっていった。勿論、私の通う女学校も例に漏れず。
 あの赤司財閥の新しい当主と、総理大臣の娘の婚約。騒がれるのも無理は無いのかもしれない。つい先日、新聞にまでその話題が載っていたのだから驚きだ。女学校の友達も興味津々と言った所で、でも私に問い詰めるなんてはしたない真似も出来なくて。チラチラと好奇心に満ちた視線だけを寄越すだけだったけれど。
 そんな中で、私達の婚約に一際興味を抱いたのは親友のさつきちゃんだった。情報通の彼女は友人の中の誰よりも先にこの話を掴んでおり、私が今までのことを話すその間中ずっと目を輝かせていた。華族令嬢、自由に恋愛が出来ないとしてもこういう話題はやっぱり胸を擽るものがあるのだろう。
 そして、今日。前々からさつきちゃんに家に遊びに行きたいと言われていたこともあって、女学校の帰りに彼女を招待することにした。
 家、とは当然私が今お世話になっている赤司邸の方である。

「ただいま」
「お邪魔します!」
「お帰りなさいませ、綾芽様。桃井様も、ようこそお出で下さいました」

 私とさつきちゃんの荷物を預かりながら、陽谷さんが先導するように歩き出す。それに私達も着いて行く。

「征十郎さんは?」
「先程、リビングでお茶を飲まれていました。まだいらっしゃるかと」
「あら、珍しいのね」

 いつもなら仕事場でもある自分の部屋に居るのに。でも、それならさつきちゃんも征十郎さんとお話出来るし丁度良かった。そう思いながら、私の少し後ろを歩くさつきちゃんに振り返る。

「……さつきちゃん? どうかした?」
「え! ううん、何でもないの!」

 何故だろう。家に着いてからさつきちゃんの様子がおかしい。いや、赤司邸に向かう車の中でも少し落ち着きがなかったような気もするけれど。
 紅白の矢羽柄の長着と海老茶色の袴の皺を引っ張っていたかと思えば、次はまがれいとに結われた髪に解れがないかと確認し、キョロキョロと周りを伺っている。
 ここで私はピンと来てしまった。どこか緊張しているような、期待しているような彼女の様子に、以前「好きな人がいる」と告げられたことを思い出したのだ。
 −−もしかして、その好きな人がここに?
 しかし、しかしだ。赤司邸にいる男性と言えば、征十郎さんか使用人が数人。彼の両親は本邸から少し離れた別邸に居を構えている、と言ってもお二方は関係無いだろう。
 赤司家に仕える使用人? それとも、征十郎さん? 考えて、胸の奥が嫌に疼いた。そんなまさか。いや、でも……。変な想像ばかりが先走ってしまう。

「綾芽様?」
「……は、はい!」
「リビングに着きました。どうぞ」

 陽谷さんがリビングの扉を開いて、私達が入るのを待っている。どうかしたのかと、心配そうに問うてくる瞳に笑顔を向ける。
 大丈夫、多分。そんな、まさかさつきちゃんが、ね? 何度か自分自身に言い聞かせ、ゴクリと唾を飲む。
 そして、何をそんなに焦っているのか自分でも分からないままに、リビングへと一歩踏み出した。

 リビングに入ると、一番最初に飛び込んで来るのは勿論赤色。
 しかし、その赤色−−征十郎さんの向かい側に誰かがいた。見慣れない水色。はて、と首を傾げる。

「テツくん……!」
「え?」

 ふわり、と。甘い花の蜜ような香りが鼻孔を擽ったかと思えば。気付いたら、私の後ろに居たさつきちゃんの姿はそこには無かった。

「テツくん久しぶり! すごく会いたかった!」
「お久しぶりです、桃井さん。……あの、苦しいです」

 眼前に広がる光景にあんぐりと口を開ける。さつきちゃんが、水色の彼を抱き締めている。
 えっと、あれ……? さつきちゃんは征十郎さんのことが、え? どういうこと?

「お帰り」
「せ、征十郎さん……」

 唯立ち尽くす私の傍へ、征十郎さんが寄って来てくれた。もう何が何やら分からない私は、征十郎さんとさつきちゃん達を交互に見遣りながら口内で必死に言葉を探す。

「あの方……、征十郎さんの御友人?」
「ああ。……そう言えば綾芽さんにはまだ話していなかったか」

 私の問いに小さく頷いた後、何かを思い出したように征十郎さんは言葉を続ける。

「彼の名は黒子テツヤ。うちに居候している」

 黒子テツヤ。だから、テツくんか。私の視線に気付いた彼が、ペコリとお辞儀をする。さらりと揺れた髪と、それと同じ瞳の色。まるで澄んだ川のせせらぎのよう。覗き込むと吸い込まれそうな、不思議な魅力のある人だ。
 それにしても、黒子テツヤと言う名前。どこかで聞いたことのある気がするな。と、ぼんやりと考えていた直後、はたと気付く。

「え? 居候?」
「そうだ。やはり、その様子じゃ陽谷からも聞いていなかったみたいだな」
「ひ、陽谷さん……」
「私からは申し上げるべきではないと思いましたので」

 私とさつきちゃんの分のお茶を用意していた手を止めて、陽谷さんが頭を下げる。
 居候とか、そういうのは別段気にすることはないのだけど。私も花嫁修行とは言え、ここにお世話になっている身なのだし。
 でも、赤司邸に来てから今日まで、私は彼の姿を見たことが無かったことが不思議に思えたのだ。暇さえあれば家の間取りを覚える為にあちこち歩いていたし、食事も征十郎さんとなるべく一緒に取っていたし。顔合わせなら直ぐにでも出来た筈なのに……。

「彼は小説家でね、締切間際は日がな一日部屋に閉じこもっていることがほとんどなんだ」
「そうなんですか」

 私が疑問を口に出すより先に、欲しかった答えを征十郎さんが導き出してくれた。
 成る程。その締切と私が赤司邸に来た時期が被っていたせいで、今までお会いすることが出来なかった訳か。
 そして、そこまで話を聞いて漸く思い出す。そうだ、黒子テツヤ。帝都で今、最も売れている小説家ではないか。私も幾つか読んだことがある。特に推理物が人気で、彼の小説を載せた新聞や雑誌は発売と同時に即完売になってしまうと言う。それが、彼なのか。思わず感歎の息が漏れた。

「それにしても、さつきちゃんったら。家に遊びに行きたいって言っていたけど、黒子さんが目当てだったのね」
「桃井はいつもあんな調子だ。余程テツヤが好きなんだろう」
「そう、黒子さんが……。私、てっきりさつきちゃんは征十郎さんのことを想っているのだと……」

 言いようのない安心感に包まれて、ついそんな言葉を口走ってしまった。それから数秒後、自分がすごく恥ずかしいことを言ったのではないかと気付き、口元を押さえる。が、時既に遅し。
 恐る恐る彼の顔を伺うと、珍しくきょとんと目を瞬かせる姿があった。

「……何故、彼女が僕を想っているなどと?」
「あ、あの。ち、違うんです……! ただの私の勘違いで!」

 だって、さつきちゃんからはお慕いしている相手が黒子さんだなんて聞かされてなかったし。黒子さんが赤司邸に居候しているなんて無論知らなかったし。さつきちゃんの様子を見て、そう変な勘違いをしたって何ら可笑しくはないでしょう?
 言い訳がましくボソボソと呟く。最早、征十郎さんの顔すら見ていられない。
 すごく恥ずかしい。じんわりと手に汗が滲む。顔が熱い。ああ、もう。こんな早とちりして、私ったら馬鹿みたい。これじゃあ、私がまるで−−

「嫉妬、してくれたのか」
「……!」

 心内を読まれ、びくりと肩が震えた。
 これが、嫉妬と言うものなんだろうか。恋愛経験なんてまるっきり無かった私には分かり得ない。
 ただ、ちょっと心がモヤモヤしただけで。ただ、ちょっと焦りのようなものが生じただけで。ただ、ちょっと嫌だなって思っただけで。
 ああ、そうか。これが嫉妬なんだ。私の中にある暗い感情を認めたくなくて、平気な振りをしていただけなのかもしれない。何となく分かっていた答えを認めたくなかっただけなのかもしれない。

「綾芽さん」
「…………」
「顔を上げてくれないか」

 征十郎さんに名前を呼ばれるが、顔を上げることが出来ない。恥ずかしい、と言うのも勿論あるのだけど。少し、怖かった。
 征十郎さんの妻となるのであれば、こんなちょっとしたことで気分を落ち込ませてなんていちゃいけないのに。穏やかに、寛大に。夫を支える妻なら、これ位許容範囲内でしょう? それは婚約者と言う立場の今も同じ筈なのに。
 幻滅されたら、面倒臭い相手だと思われたら、嫌だなぁ。

「綾芽さん」

 征十郎さんの手が私の指先に触れる。ここにお世話になって分かったことなのだけど、ちょっとしたお願いをする時、私をからかう時、征十郎さんは私の手を優しく包んでくれる。多分、今のは前者なのだろう。
 こうされることが、私はどうにも弱い。その温もりに諭されて、ゆっくりと顔を上げる。

「ふふ、酷い顔だ」
「……笑わないで」

 相当情けない顔をしていたらしい。私を見て、クスクスと笑うその姿は繋がれている手から伝わる温度と同じ位に優しいものだった。

「テツヤのこと、黙っておいて正解だったかな?」
「……もしかして、わざとじゃないですよね?」
「さて、どうだろうね」

 またあの表情だ。悪戯っ子のように楽しげで、少し意地悪なあの表情。
 ああ、この人は全くもう……!真意は知れないけれど、この人は私をからかってまた楽しんでいるんだわ!
 からかわれっぱなしじゃ釈然としない。恨み言の一つ位、言ったとて許される筈だ。そう思い、口を開きかけたのだけれど。

「あなたになら嫉妬されるのも、悪くないね」

 そんなこと言われたら、言葉も出ないではないか。征十郎さんはまるでチェスの駒のように私のことを掌で転がす。為す術もない私は征十郎さんに全てを預け寄りかかることしか出来ないと言うのに。本当、酷い人。
 でも、それすらも甘んじて受け入れようとする私も大概なんだろう。考えて、笑みが零れる。繋がれた掌に僅かに力を込めた。

「……あの、お邪魔するのは大変心苦しいのですが。そういうことは僕達の居ない所でやっていただけるでしょうか」
「ああ、悪いね。僕の婚約者がなかなかに可愛らしくて、ついね」
「せ、征十郎さん……!」
「いいなぁ、綾芽達は仲良しで」

 でも、やっぱり享受できないものもある訳で。やっぱり、征十郎さんは意地悪だなって、強く思った。




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