−−その日、ある財閥の邸宅で祝賀会が催され、私は父に促されるがままに邸宅内のダンスホールに足を踏み入れていた。
煌びやかな装飾品、それに負けず劣らず華やかなドレスを身に纏った貴婦人達。思わず目を細めてしまう程に、キラキラと眩しい。
流れてくるのはこの日の為に呼ばれたと言う有名楽団の演奏。その中に、上品に響く笑い声や、政治に諸外国の情勢、はたまた商売事の話が混じり合う。
ぐるりとホールの中を見渡したが、見知った人が誰一人として見当たらない。同伴していた父も、気付いたら一際賑やかな輪に入り込んでいた。置いてきぼりを食らい、何だか一気につまらなく感じてしまう。
来てばかりでなんだけど、もう帰りたくなっちゃった。そう思いながら軽く右手を持ち上げれば、すぐさま使用人が音も無く近付いて来る。「お水を貰えるかしら」そう用件だけ伝えると、ものの数秒後には綺麗に磨がき上げられたグラスに注がれたそれを渡してくれた。軽く頭を下げ、また音も無く去って行った使用人を横目にグラスに口を付け、ぼんやりと窓の外を眺めた。
「随分と退屈そうだな」
背中から声が降ってきた。振り向かずとも誰なのか直ぐ分かってしまったのは、窓ガラスに彼の姿が映っていたからだ。
「お久しぶりです、緑間さん」
漸く会えた知人の姿に嬉しくなってニコリと笑えば、彼−−緑間真太郎さんも気難しそうに引き結ばれていた口元を僅かに緩めてくれた。
緑間さんは陸軍に所属し、つい最近少尉から中尉に昇格した御仁だ。何度か、今日みたいな祝賀会で顔を合わせている内に気軽に会話できる間柄となった。
とても真面目な方だけれど、何でも西洋の占いに凝っているらしく、いつもラッキーアイテムなる物を持ち歩いているらしい。今日のアイテムとやらはどうやらシルクハットのようだ。被りもしなければ、使用人に預けることもしない。そのまま小脇に抱えている辺りそうなのだろうと察しがついた。
「今日はお父上の付き添いなのか?」
「はい。緑間さんはお父様とは?」
「ああ、先程挨拶してきた所なのだよ。相変わらず忙しそうにしておられるな、望月首相は」
「まだ首相じゃありませんよ」
緑間さんの言葉に苦笑いを零す。父を首相と呼ばれて満更でもなく思うけれど、そんな風に感じるには気が早すぎる。まだ、選挙も行われていないと言うのに。
「しかし、もう決まったようなものだろう。軍の中でも綾芽さんの父上を推す者がほとんどなのだよ」
「そうなんですか? 私、政治については何も分からないから……」
今の時代、女性も政治に関わりたいと運動を起こす者も居るけれど、生憎私は全くと言っていい程に興味は無かった。父が議員として活躍し周りから期待されるのはとても喜ばしいことだけれど、政治の話を振られてもやはり興味の無い事柄だからかどう答えたらいいのか分からない。曖昧に笑って誤魔化すしか他はない。
「それより緑間さん、今日は高尾さんと一緒じゃないのですか?」
「……いつも一緒にいる訳ではないのだよ」
心外だとばかりに眉根を寄せられた。その口振りと表情からして、今日は高尾さんは来ていないらしい。とても明るい人で、顔も広いから会えるとばかり思っていたのに残念だ。
高尾さんも緑間さん同様に軍の中尉様で、緑間さんとよく行動を共にしているらしい。緑間さんは否定するけれど、二人はとても仲が良くてその掛け合いはまるで漫才のようにも見えてしまう。
二人のやり取りを思い出し、クスクスと笑い出した私に緑間さんは怪訝な顔をするばかりだった。
「あ、居た! 綾芽にみどりん!」
私が一頻り笑った後、見計らったかのように私達を呼ぶ声がした。
その声の先へと視線を向ければ、瑠璃色のドレスを着た女性がこちらに手を振っているのが見えた。あれは−−
「さつきちゃん!」
「こんな隅っこに居たなんて。二人共探したのよ。−−もう大ちゃん! 早く来てよ!」
「馬鹿、そんな引っ張んなよ」
こちらに近付いて来るのはさつきちゃんだけではなかった。
大ちゃんと呼ばれた人は、ズルズルとさつきちゃんに引きずられながら退屈そうに欠伸をしている。見かけない殿方に私が首を傾げると、私の隣に居た緑間さんは「青峰か」と小さく呟いた。
どうやら、緑間さんとも知り合いのようだ。
「あ、綾芽は大ちゃんとはじめましてだよね。この人は青峰大輝さん。私の幼なじみだよ」
ああ、この人がさつきちゃんのよく話して聞かせてくれた幼なじみなのか。納得がいって、思わず頬が緩んだ。さつきちゃんの言っていた通り、少し失礼かもだけど、黒くて大きい。面倒臭そうに頭を掻いている所を見ると、恐らくさつきちゃんに無理矢理に連れ出されたのだろう。
青峰さんは巡査さんで、緑間さんともよく知った仲なのだとか。簡単に挨拶を済ませると、さつきちゃんが瞳を輝かせながら私の両手を取った。
「その着物、とても素敵! 綾芽によく似合ってる!」
眩しい笑顔でそう言われ、純粋に嬉しく思うのと同時に照れくさくもなった。
改めて自分の着ている着物を見やる。赤地に色とりどりの蝶が舞い、金箔の螺旋が、飛び交う蝶の間に散らされている。可愛らしくも、艶やかに見えるとても綺麗な着物だ。
「ありがとう。でもね、本当は私もさつきちゃんみたいにドレスを着て行くつもりだったの」
「え? そうなの?」
「うん。だけど、祝賀会の前日に突然この着物が贈られて来て……」
本当に突然だった。
祝賀会に私も連れて行くと前もって父に言われてはいたので、勿論そのつもりでドレスの用意をしていたのだけど。昨日、我が家に唐突に現れた老舗呉服屋の若様の言葉に酷く驚かされた。
「−−この着物はあなたの為に仕立てられた物です。これを、明日の祝賀会に着て行って下さい」
今振り返ってみると、悪戯をしている少年のような楽しげな口調だったように思う。でも、その時の私は広げられたその赤に魅せられて、気付くことも出来なかった。
私の為に。その言葉が擽ったかった。着物も勿論嬉しかったけれど、それ以上にその言葉が私の胸を突いた。
その人に会いたい。会って、直接御礼を言わなければ。こんなに素敵な贈り物は初めてだと、そう告げなければ。ただ、そう思った。
「これを贈ってくれた方は誰なんですか?」
しかし、そう問うた私に、目の前の若様はただ穏やかな笑顔を向けるだけだった。
一通り、昨日の出来事を説明すれば、さつきちゃんの目が先程以上に輝き出す。
「素敵……! なんてロマンチックなの! それで、その人は誰だったの?」
「それが分からないの。最初はお父様かお母様だと思ったのだけど、二人共違うと言っていたし」
それでも、あの呉服屋の若様同様に穏やかに微笑んでいた二人を思うと、きっと贈り主を知っているに違いなかった。問い詰めても「その内分かるから」と、結局最後まで何も言ってくれなかったから。
「きっと、綾芽に想いを寄せる殿方からね。だってそうじゃなかったら、こんなにも綾芽に似合う着物を用意できる訳ないもの!」
「そうかな……?」
うん!と大きく頷いたさつきちゃん。私以上に嬉しそうな姿に、胸がじんわりと暖かくなる。
それなら尚更、その方にちゃんと「ありがとう」を伝えなければ。改めて決意する。
「でも、着物だったら今日は踊れないわね」
「今日は舞踏会などでは無いのだよ。踊る必要などないだろう」
「えぇー、私テツくんと踊りたかったのに!」
「つーか、テツどころか今日の主役が未だに顔も見せないのはどういうことなんだよ」
そう言えば、今日の祝賀会の主催者が未だに現れていないことに気付く。
この帝都で知らない人など居ないだろう。四大財閥−−根武谷、実渕、葉宮、そして赤司。この四つの財閥の中でも一番の富を誇るのが、今日の祝賀会の主催者である赤司財閥なのだ。
その赤司財閥が、この度父から子へと受け継がれることとなった。祝賀会は新しい当主の御披露目を目的としたものだ。
私も直接会ったことは無いけれど、人伝に話は聞いている。今まで、父の補佐として財閥を支え、その手腕は父をも超えると言われているとか。
私と年は変わらないのに、そんなにすごい人がいるのかと感心したのをよく覚えている。
「赤司のそれは今に始まったことではないだろう」
深い溜め息を吐いて、眼鏡のブリッジを押し上げた緑間さんの言葉をぼんやりと聞きながらも、私はやっぱりこの着物の贈り主のことを頭の片隅で思っていた。
それから暫くして、さつきちゃんと青峰さんは「テツくん」と言う方を探すからと、私と緑間さんに別れを告げた。緑間さんも緑間さんで、まだ挨拶できていない人達が居ると言って、少し疲れた表情を浮かべながら去って行った。緑間さんはこういう場は苦手なんだとか。以前、高尾さんが言っていた。
かく言う私も、父の関係で知っている方達との挨拶もそこそこに引き上げて、ホールの喧騒とは正反対の誰もいないバルコニーに逃げていた。
緑間さんのように、パーティーが苦手な訳ではない。むしろ、好きな方だ。女の子ならきっと、身分とか立場とか抜きにして、煌びやかな世界に憧れるものだから。
でも、今日だけは違う。何でもない風を装っていても、正直言うと祝賀会どころではなかった。私の頭の中には着物の贈り主のことでいっぱいになっていたから。
「ここに来れば贈り主が誰なのか、分かると思ったのになぁ」
人知れず呟いて、小さく溜め息を吐く。
祝賀会に着て来て欲しいと言ったからには、その人も今日この場にいる筈なのだけど……。それなのに、未だ贈り主らしき人には出逢えずにいる。
会話を交わした人達の中にも、それらしき人は居ないように思えた。
やっぱり、あの贈り主はお父様なのかもしれない。それだったら納得がいくし。きっととても素敵な人なのだと淡い期待を抱いていたから、少しだけ残念に思う気持ちが湧き上がる。いや、お父様だって十分に素敵だけど。
吹き抜ける風のおかげか、徐々に私の気持ちも落ち着いていく。……お父様に御礼を言わなければ。
そう思った時だった。
「−−隣、いいかな?」
突然のことに心臓が飛び跳ねた。
私がバルコニーに入った時には誰も居なかったのに。いつの間に、と言うか考えに耽ってしまい気付かなかった。バクバクと鳴り止まない胸を押さえて、反射的に頷くとクスリと小さな笑い声が聞こえた。
「すまない、驚かせるつもりはなかったのだが」
そう言って、私の隣に並んだその人に私は再び驚かされることになった。
バルコニーには灯りはないが、そのバルコニーの眼前に広がる庭にはアーク灯が立ち並び、辺りを照らしてくれるおかげで、隣に居る人物の姿がはっきりと分かった。
燃えるような赤い髪に、色の違う双眼、そして凛とした佇まい。赤司財閥の新しい当主−−赤司征十郎その人だったのだ。
「……いいのですか? 主役がこんな所にいて」
驚きの余り、挨拶などすっ飛ばして思わず口をついて出たのはそんな言葉だった。そんな私に意外そうに目を見開くと、赤司さんは口元を緩やかに引き上げた。
「僕のこと、知ってくれているんですね」
「勿論です。父からあなたのことは聞いていますから。お会い出来て光栄です」
「それは僕も同じです。あなたとこうして会って話をしたいと、今日のこの場を随分前から心待ちにしていたからね。−−漸く、それが叶った」
大勢の人に言っているであろう社交辞令の一つだと言うのに。赤司さんがあまりにも感慨深いそうにゆっくりと言葉を紡いだから、不覚にもドキリと胸が高鳴った。きっと、私の顔は赤く染まっているのかもしれない。
そんな私を余所に、赤司さんは言葉を続ける。
「あなたを見つけた時、情けなくも何て声を掛けたらいいのかと悩んでしまう程だった」
「そんな、ご冗談を」
「いや、本当だよ。−−だけど、綾芽さんはずっとどこか思い悩んでいるようだったね」
「そ、れは……」
図星だろうと、赤司さんの目が楽しげに細められた。全く持って赤司さんの言う通り。言い訳も何も出来ない。
せっかくの祝賀会だと言うのにぼんやりとしている私はさぞかし退屈そうに見えたのだろう。確かに、着物のことで悩んではいたけれど、祝いの席でそんな姿を晒すなんて流石に空気が読めていないにも程がある。
ああ、赤司さんには本当に申し訳ないことをした。改めて反省し、謝罪を述べる。
すると、そんな私の謝罪に赤司さんは不思議そうに目を見開いた。
「綾芽さんが謝る必要はないだろう」
「ですが……」
「むしろ、謝るのは僕の方だ」
「え……?」
何故、赤司さんが?
赤司さんこそ、謝る必要なんてないはずなのに。訳が分からず、赤司さんを見つめる。
「まさか、こんなにもあなたを悩ませてしまうなんて思わなかった。でもそれが嬉しかった、そうさせているのが僕だと思うと、ね」
「どういうこと−−」
そう言って、ハッとする。
赤司さんの私を見つめる表情。穏やかに、でも悪戯っ子のようにキラキラと輝く瞳。−−昨日の、呉服屋の若様や、父と母が見せたそれと同じ。
「やはりあなたは、赤がよく似合う」
いや、それよりももっとずっと。優しくて、暖かい。
その時、彼の表情を見た時、私の中に妙に確信めいたある想いが生まれた。
−−ああ、きっと。私はこの人に恋をするんだろう。
根拠は無かった。何故そんなことを思ったのかも分からない。でも、ただ、その想いだけが私の心の中に自然と迷い込んできた。
まるで、着物に描かれた蝶のように。ヒラリ、ヒラリ、と。