箱庭ロマンス | ナノ


 ポツリ、ポツリ、と石灯籠に火が灯る。それを合図に、ダンスホウルに徐々に人が吸い込まれて行く。
 今宵は満月、とまではいかないが、ぽっかりと空に大きな穴が開いたようにはっきりと月の所在が見て取れる。雲一つない晴天だったおかげか、薄闇もどこか晴れ晴れと澄んでいる気さえした。
 ゆるゆると潮騒のように耳に届く喧騒。ホウルから離れた私の部屋に、期待に満ちた雰囲気が波の如く打ち上げられ、ドキドキと胸が沸き立ってくる。逸る気持ちを撫でつけると、サラリと触れた布地は滑らかなことに気付き、少しだけ私を落ち着けてくれた。

「着物だけでなく、ドレスまで扱っているなんて知りませんでした」
「基本は反物だけですよ。こういったドレスは、お得意様に限りさせて頂いています」
「そうなんですね。でも、本当に素敵。外つ国にはこんなに煌びやかな物が沢山あるんですね」
「はい。綾芽さんがお召しになっているドレスも、僕が洋行の際にあちらの商人から直接買い付けた物なんです」

 まあ、と感心の声を上げると、鏡越しに目が合った彼−−氷室辰也さんはにこりと目を細めて笑ってくれた。
 洋行帰りの若様と言えば、この辺りでは結構有名だ。綺麗な顔立ちに、日本男児にはあまり見られない女性を尊重する優しい対応、そしてどこか謎めいた雰囲気。淑女達から絶大なる支持を得ている老舗呉服屋の若旦那である。
 普通の男性なら女性が粧しこんでいる場所に居合わせるのは気まずい所だろう。しかし、氷室さんはそんな素振りを見せない。むしろ楽しげに、くるくると私の髪が結わえられていく様を見ているのだから、すっかりあちらの国に染まってしまっているようだ。

「綾芽様、こちらでどうでしょう?」
「西洋さげまきね。ありがとう、陽谷さん」

 陽谷さんに促され、姿見の前に立つ。一瞬、本当に自分なのかと目を疑ってしまう程だった。
 この時分に合わせたドレスは菖蒲色。庭園で咲き誇るそれと遜色のない程にたおやかだ。少し大人っぽくしたいと言う私の要望に、氷室さんが応えてくれた結果である。

「とてもお似合いですよ」
「ありがとうございます」
「流石ですね。やはり彼の見立ては間違っていなかったようです」
「……え?」

 恥ずかしくて俯いていた所に、氷室さんの意外な言葉が降ってきた。「氷室様……」陽谷さんの声音に諌めるような響きが含まれている。
 どういうことなのか。氷室さんがドレスを見立ててくれたのではないのか。詳しく話を聞いてみようと、口を開きかけた時だった。

「準備は出来たかい?」

 軽いノックの後に、扉の開く音がした。その方向へ視線を走らせると、きっちりと燕尾服を着こなした征十郎さんが立っていた。
 ポカンと開いたままの口を慌てて閉じて、身を正す。扉に手を添えたままの征十郎さんと目が合い、何だかとても逃げ出したくなってしまった。いつもとは違う自分を見られるということは、こんなにも羞恥心を必要とするのだろうか?
 私を見つめたままの征十郎さんが数度瞬きを繰り返す。私はどうしたらいいのか分からず、指先を弄ぶ。何も反応を示してくれない彼に本格的にどこか遠くへ行ってしまいたいと考えていると、私の背後でふっと緩やかな呼吸をする気配があった。

「どうですか? 綾芽さんのお姿。……予想以上でしょう?」

 氷室さんの声だった。私と征十郎さんを見て楽しんでいる節のある口振りにとうとう私の頬が熱くなった。
 何となく分かってしまった。このドレスを選んでくれた人が誰なのか。照れくさいけれど、それ以上に嬉しいという気持ちが溢れ出しそうだった。

「……綾芽さん、行こうか」

 差し出された手に手を重ねると、強い力で引っ張られてしまった。
 陽谷さんの「行ってらっしゃいませ」という穏やかな声と、氷室さんのどこか微笑ましげな笑みに見送られながら、少し早足に部屋を出る征十郎さんを追いかけた。





 今回の舞踏会の主催者は赤司家の当主である征十郎さんである。そして、この舞踏会の意図するところは、本格的に決まった赤司家当主の婚約者の御披露目だった。
 つまるところ、今回の主役は私なのだけれど−−

「飲み物を取って来るから、そこで待っていてくれ」
「はい。……あの、征十郎さん、ごめんなさい」
「いいから。そこを動かないように」

 動くなと、もう一度釘を刺すと征十郎さんは私に背を向けて歩き出した。その間にも征十郎さんを呼び止める誰かの声は止まない。これは少し時間が掛かりそうだ。壁に寄りかかり、詰めていた息を吐き出した。

 例え私が主役であろうとも、殆どの人の目は征十郎さんに向けられる。新しく仕事を持ち掛ける人や、今後の動向を探る人。私達の縁談の話などは二の次だった。
 社交場とはそういうものだ。しかし、今までに対応したことのない著名の方々との付き合いはどうにも疲れてしまう。それに加えて、来賓の数の多いこと。何となく、頬の筋肉が痛い気がした。
 私が疲れていることを察した征十郎さんが少し休もうかと、私をダンスホウルに隅に連れてきてくれた。征十郎さんだって同じだろうに、一切表情には出さない。本来はそれが当たり前なのだ。もっとしっかりしなければと反省をする。そんな私の眼前には、楽団の演奏に合わせて軽やかにステップを踏む数人の男女がいた。

「お嬢さん、お一人ですか?」
「あ、いえ、私は……」

 唐突に声をかけられ、慌てて姿勢を正す。と、振り向いた先にいた人物に思わず目を丸くしてしまった。

「なーんてね」
「高尾さん……!」

 そこにいたのは高尾さんだった。緑間さんと黄瀬さんも一緒だ。正装した彼等をチラチラと御婦人方が盗み見ていて、思わず表情が引きつった。
 凄く、目立っている。

「このまま今日は主役の顔も見れないまま終わるかと思ったけど、まさかこんな隅に居るとはね」
「……申し訳ありません。せっかく来て頂いたのにご挨拶も出来ないままで、」
「いや、仕方ないのだよ。今回はいつも以上に客の数が多いからな」

 招待はしていたけれどなかなか姿を見せることの出来なかった知人達の登場に、幾らか自分の表情が明るくなったことが分かった。
 緑間さんが抱えているだるまには敢えて触れないままで、高尾さんと緑間さんと軽い挨拶を済ませると、その後ろから「……ほら、青峰っちと紫原っちも食べてばっかいないで挨拶しないと!」という黄瀬さんの呆れ混じりの言葉。そしてお皿に山盛りの料理を載せた紫原さんと、大きな欠伸を漏らす青峰さんがのんびりとした足取りでこちらへ遣って来た。

「……あれ? さつきちゃんと黒子さんは?」

 二人の姿が見当たらないことに気付き、首を傾げる。と、青峰さんがくいと顎である方向を示した。
 その先には、演奏に合わせて踊る男女が。そして、その中に紛れてさつきちゃんが至極幸せそうな表情を浮かべて黒子さんと手を取り合っている姿があった。

「さつきちゃんったら……」
「テツと踊るんだって、朝から意気込んでたからな」

 思わず笑みが零れた。黒子さんをどうダンスに誘うか悩むさつきちゃんの姿が簡単に思い浮かんだからだ。そんな私を横目に、青峰さんは肩を竦めた。

「で? お前の婚約者様は何処に行ったんだよ?」
「征十郎さんなら飲み物を取りに行ったんですが……」

 次から次へといろんな人に声をかけられて、今もまだ捕まっていることだろう。ここにいろと言われたけれど、やっぱり着いて行った方が良かったかもしれない。

「じゃあ、婚約者様のいない間に、俺と一曲どう?」
「あ! なら俺も、次お願いするっス!」

 そう言って、手を差し出したのは高尾さんだった。黄瀬さんもその隣ではいはい! と手を挙げて立候補している。

「高尾、またお前はくだらんことを……」
「えー! だって、綾芽ちゃんと踊るなんて機会も早々ないんだぜ?」

 さあさあと、高尾さんが私を手招く。これは誘いに乗るべきなのだろうか? でも、征十郎さんに動くなと言われているし。でもでも、男性の、ましてやお客様の誘いを断るのもどうかと思うし。
 困り果てた私の手が宙をさ迷う。その手を、しっかりと捕らえられた。しかしそれは、私の目の前にいる高尾さんではなくて。

「行くぞ」

 後ろにつんのめった私を軽々と支えて、くるりと方向転換させる。ひゅう、と口笛の音が耳を掠めた。高尾さんか、それとも黄瀬さんか。
 引っ張られるがままに辿り着いた先で、漸く向かい合った彼は何故か不機嫌な表情を浮かべていた。

「動くなと、言っておいただろう」
「私は一歩も動いていません」
「……ああ、そうだな。あなたは動かずともいつも周りを惹き付ける」
「? どういうことで、」
「ほら、曲が始まる」

 気付けば、ダンスホウルの中心部にいた。演奏が始まると、一度は騒がしかった場所からは不思議な程に楽器を奏でる音以外は何も聞こえなくなった。
 腰に手を当てられ、ぐいと引き寄せられる。あまりに近い距離に堪えきれず視線を逸らすと「しっかり前を見る」と怒られてしまった。

「……ねぇ、征十郎さん?」
「ん?」
「このドレスを選んでくれたのは、征十郎さんなんですよね?」

 緩やかな旋律に合わせて踊る私達には、声をかけられる人はもういない。お互いの息遣いさえも感じられる距離で、そう問い掛けると征十郎さんは私を真っ直ぐに見つめたまま溜め息を零した。

「あの若様は、なかなかにお喋りなようだね」
「でも、隠す必要だってないでしょう?」
「そうだね。だけど、何の手掛かりもなくあなた自身に気付いて欲しいと願うのは僕の我が儘かな?」

 そう言われてしまうと、返す言葉が見つからない。また私をからかっているのかと思えば、至極真面目な顔をしている。
 暫くお互い言葉を交わすこともなく流されるように足を動かす。あまりダンスに慣れていないのに足がもつれることはない。征十郎さんに身を任せていればそうならないと分かっているから。
 こんなちょっとしたことでも、自分は彼を信頼しているんだと気付かされる。

「……若様に先を越されてしまったけど、言わせてくれるかい?」
「はい」
「……凄く、綺麗だよ」

 その表情こそ綺麗と評するに相応しいと思った。息を吸うことを忘れ一気に熱を集める私の顔に、征十郎さんはまた笑った。優しい優しい、顔だった。
 そして、一瞬脳裏を過ぎったのは懐かしい記憶の断片。真っ白な白詰草の指輪を付けた私に、あの男の子が言った言葉。−−綺麗だよ。

「……征十郎さん、私達前に何処で会ったことありました?」
「前、と言うと?」
「えっと、祝賀会よりももっと前! 子供の時!」

 あの時の言葉が、ピタリと重なった気がした。気がするだけで、確証はない。それでも咳き込むように吐き出せば、征十郎さんは目を瞬かせて息を飲んだ。

「だから言っただろう、これは僕の我が儘だと。−−僕の我が儘に付き合ってくれるなら、自分自身で探し当ててくれないと、ね?」

 小首を傾げてそう言い切った彼に、どうしてだろう。驚きや呆れやそう言った感情よりも笑いが先行してしまった。
 全く、本当に意地悪なんだから。そう言い返すと、征十郎さんは普段からよく見せる悪戯っ子のような表情でそうだろうねと頷いた。

「我が儘ついでに、もう一つ」
「はい」
「この曲が終われば、また来賓との退屈な時間が待っているわけだ」
「そう言わないで下さい。これも当主の務めなんですから」
「勿論分かってるさ」

 −−だけど、もう一曲だけ。
 更に腰を引き寄せられ、ピタリと体が密着する。そして、周りには聞こえていない筈なのに、ソッと私の耳元に唇を寄せて彼は囁いた。

「もう一曲だけ綾芽さんと踊れたら、僕は満足するんだけど?」

 さて、どうする?
 そんなことを囁かれては、頷くしか選択肢はないと言うのに。分かっててやってるんだから、本当に意地悪だ。




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