「こんばんはー」

 丁度、菜箸で鯖をひっくり返した時だった。ジュウ、と油がはぜる音に紛れて聞き慣れた声が裏口から流れて来た。
 返事をしないのは通例で、それが当たり前になったのはもうずっと昔のこと。ペタペタと裸足で廊下を歩く音をBGMにしながら、食器棚から皿を取り出した。

「うわ、また鯖……」

 居間を通って台所に顔を出したそいつの、少し引き気味の表情を一瞥する。

「料理出来ないお前には言われたくない」
「私だって魚くらい焼けるわ」
「お前の分は無いからな」
「いいよー、家で食べてきたから」

 そんな軽口を叩きながらなまえはそのまま俺の横を通り過ぎ、冷蔵庫へと直行すると持っていたビニール袋をがさがさと漁り駄菓子屋で買ったであろうラムネを中へと詰めていく。昔からこいつは、夏であろうと冬であろうとラムネだ。カチカチと、瓶同士が当たる音が響く。この音すら、もう既に俺の耳に馴染んでいて。最早、なまえとラムネはセットになっていた。

「あ、そうだ。これお母さんから」
「……何」
「肉じゃが。ハルちゃんも食べ盛りなんだからお肉もちゃんと取りなさいって」

 冷蔵庫の扉の奥からひょこっと顔を覗かせたなまえはタッパーをチラつかせる。どうする? 冷蔵庫に入れとく? こちらを見詰める瞳はビー玉のようにまん丸で、澄んでいる。

「皿に移して温め直して」
「分かった。でも、鯖か肉じゃがかどっちかにしたら? 遥どうせ食べきれないでしょ」
「うるさい、ちゃんと食べる」

 ふいと、そっぽを向く自分に呆れるように笑うなまえがいた。それでもどこか嬉しそうに肉じゃがを皿に移す彼女へと視線を向ける。皿に手を添えている左手には、幾つかの真新しい絆創膏が巻かれていて、何故か俺が気恥ずかしくなり目の前の鯖に菜箸を突き刺してしまった。





「……ご飯にラムネはないだろ」
「えー、そうかな?」

 瓶を二本持って向かいに腰を据えたなまえは、その内の一本を俺の目の前に置いた。テーブルに広がる光景があまりにちぐはぐで、思わず眉を顰める。主役級のおかずが二品にラムネ。バランスなんてあったものじゃない。
 ラムネは何にでも合うんだよ? と、なまえは訳の分からないことを言うと、ポンと、軽い音を響かせて蓋を開けて、それが溢れる前に口を付ける。喉が上下する様は相変わらず勢いが良くて、逆に惚れ惚れとしてしまう。そして、そんな姿を見ていると、不思議と冷気を纏うそれに手が伸びてしまうのがお約束だった。

「ね? 合うでしょ」
「全然合わない」
「えー、そんなことないのになぁ」

 テーブルに肘を付いて笑いかけるなまえに向かって静かに首を振ると、不満げに唇を尖らせる。空になった瓶をクルクルと弄ぶ指先に目を向けつつ、型くずれのしたジャガイモを口へ運ぶ。

「ねぇ、遙。夕飯食べ終わったらアイス買いに行かない?」
「嫌だ、面倒臭い」
「えー! いいじゃんアイスー、食べようよー」
「だったらうち来る時についでに買ってきたら良かっただろ」
「だってその時は気分じゃなかったんだもん」

 ねぇ、アイス! と足をバタバタさせるなまえは小学生の頃から中身はてんで変わっていない。こんな時、真琴なら妹達をあやすように簡単に事を治めるんだろうけど。生憎俺は、そこまで出来る程器用ではないと自負している。
 小さく溜め息を吐き、名前を呼ぶ。ジト目でこっちを睨むなまえは未だにブツブツと文句を垂れながら、俺の隣へと遣って来る。こういう、案外単純な所も昔と変わらないのだから時々心配になってしまうのは致し方ない。
 でも、まぁ、それは俺にも言えることなんだろうが。諦めに似た心地で、溶けて小さくなったジャガイモをなまえの口に放り込んでやった。

「……何これ、味濃すぎ」
「自分で作った癖によく言うよ」
「いや、私が味見した時は丁度良かったんだけど……って、気付いてたの?」
「料理上手なおばさんの肉じゃががこんなドロドロな訳ないだろ」
「私の中では上手に出来た方なんだけどな」

 ああ、そんなの分かってるさ。つい最近までは包丁すら握るのを止められる程だったんだから。そう思えばかなり成長しているじゃないか。そう言葉にはせず、もう一度肉じゃがを口へ運ぶ。やっぱり、味が濃い。それでも食べられないことはないしと黙って箸を進める俺を、上目遣いで見てくるなまえは絆創膏塗れの左手を隠しながら小さく口を開いた。

「無理して、食べなくていいんだよ?」
「別に無理してない」
「でも、」
「いいから。それよりも、」
「……うん?」

 箸を置いて、背中に隠している左手を掬いあげる。ハッと、弾かれたように顔を上げて、慌てて手を引こうとするのを力で押し留めて、傷の具合を確かめる。俺の為に作った傷だと思うと、どうしたって溢れ出てきそうになるものがあった。

「……次作る時は、うちの台所でやってくれ」
「え?」
「俺が見張っとかないとまた怪我するだろ?」

 そう言って、傷だらけの左手をソッと撫でてやると、なまえの頬が一瞬だけ赤く染まる。それがどうしてか、俺にまで伝染してしまう。誤魔化すように咳払いをして、もう一度箸を手に取る。しょっぱい肉じゃがは相変わらずだけど、もうそれさえ気にならない。

「……これ食べ終えたら、アイス買いに行くか」

 肉じゃがにラムネにアイス。気付けばいつも、俺はこいつのペースに合わせてしまっている。
 それも別に、まぁ、悪くはない。


僕のちっぽけな世界を奪うほどに




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