夜の海って、実は初めてかもしれない。穏やかなのに真っ黒で、闇がドロリと溶け出したようなその場所を見つめながら思う。
 海は怖い。そう教え育てられたのは私の親が代々漁師だからで。勿論私だって海が危険だということは重々承知しているけれど。でも、まぁ、大丈夫。今日の海は普段以上に静かで優しい。それはまるで私を誘っているようで、ポイポイとサンダルを脱ぎ捨てて駆け出した。
 ザザ、と打ち寄せる波に足を撫でられる。海は見るのも好きだけど、やっぱりこうして戯れることの方が大好きだ。思う存分、海水を蹴るように走り回ってから、くるりと後ろを振り返る。と、私が脱ぎ捨てたサンダルを律儀に拾ってくれていた彼と目が合った。

「ありがと、真琴ー!」
「はいはい。もう、波に流されたらどうするつもりだったんだ?」
「裸足で帰る。それか真琴におんぶして貰うー!」
「嫌だよ、俺は」

 えー、いいじゃん! 声を張ってそう言えば、真琴は呆れたように肩を竦めただけだった。
 でも私は何となく分かっている。もし本当にサンダルが流されてしまったら、きっと真琴は自分の履いているサンダルを貸してくれるか、仕方ないと苦笑しながらおんぶしてくれることを。真琴は優しい。優しくて、私に甘い。それに気付いたのはいつだっただろうか。

「うわ、結構冷たいな」

 私と自分自身のサンダルを持って、真琴がゆっくりと海へと足を踏み入れた。たくし上げたジーンズの裾がずれ落ちそうになっている。それに気付いた真琴が慌てて片足を持ち上げる。「大丈夫?」そう問い掛けると、眉尻を下げて困ったように笑っていた。

「真琴、手」
「ん? ああ、はい」

 しっかりと裾を捲って一息吐いた真琴に向かって手を差し出すと、何の迷いもなく私の掌に重ねてくれる。指と指を絡めて、きつくきつく結ぶ。隣を伺うと、真琴は闇に染まった海の先を見つめていた。微かに揺れた瞳は、まるで月のような穏やかな光を湛えている。「大丈夫?」再び口にした言葉の意味合いは先程とは全く違うもので。それに気付いた真琴は私へと視線を移した後に、フッと柔らかく目を細めた。

「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「それならいいんだけど……」
「そんなに怖い顔しないでよ。本当に大丈夫だから」
「そりゃ怖い顔にもなるよ。私、心配したんだからね」

 水泳部の合宿の際の騒動を指摘してやれば、真琴はうっと言葉を詰まらせた後に苦笑いを浮かべた。荒れた海で溺れていた怜くんを一人で助けに行こうとした真琴。海というものに人一倍恐怖心を抱いている真琴の行動について渚から話を聞かされた時はどうしようもない怒りに似た感情が込み上げた。遙や渚の助けがあったから良かったものの、二人が気づかなかったら今頃どうなっていたかなんて、考えただけで体が震えてしまう。顰めっ面をしたまま真琴の腕に額を押し付ける。ちゃんと反省してよね、という意味を込めて繋がっている掌を更に強く握り締める。

「ごめん……」

 ポツリと零された言葉と共に、頭に伸し掛る僅かな重み。顔を上げれば真琴の額と私の額がコツンと付き合わさった。未だに顰めっ面のままの私を見つめて、もう一度ごめんと呟く。低く、あまりにも優しい声が私の頬を緩やかに撫でていく。触れ合った場所から伝わる温もりに、真琴が今もここにちゃんと存在してくれているのだと実感し、私の唇から安堵の息が洩れた。そんな私の様子を見て、更にその上から真琴のホッとしたよう吐息が重なった。

「もう海は怖くない?」
「……どうだろう? 分からないけど、でも、今は大丈夫」

 真琴が視線を海に投げ出して、小さく頷く。

「何でだろうね。不思議と今は怖くない。それ以上にすごく綺麗だなって思うよ」
「そっか……」
「実は、ちょっとした夢だったんだ。なまえと一緒に夜の海に行くのが」
「え?」
「そう言うシチュエーションって憧れない? でもそれを言ったら、なまえは絶対に心配するだろうなって思ったから言えなかったんだけどね」

 でも、漸く叶ったよ。そう言って、満足げに微笑んだ。その心底嬉しそうな表情に一瞬呆気に取られてしまったけれど、その次には真琴の気持ちが伝染するように私にも笑顔が溢れた。さっきのさっきまでちょっと怒っていたのに、こんなことを言われてしまっては仕方がない。

「じゃあ、ついでに私の夢も叶えてもらおうかな」
「え?」

 私の方へと振り返った真琴が目を瞬かせる。それに微笑んでから、私はゆっくりと目を閉じた。闇に包まれた中で、波の音が大きくなったような、潮の香りが濃くなったような、そんな気がした。

「なまえ?」
「夜の海で二人っきりで……って、こう言うシチュエーション憧れるでしょ?」

 急かすように真琴の手を軽く引っ張ると、波の音に紛れて真琴の小さな笑い声が聞こえた。「全く、敵わないなぁ」そんな言葉と共に優しく包まれた頬。落とされた唇はどこか潮の味がした。


きらめく真夜中




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