ほんの少し前までは上着を羽織っていたって寒い位だったのに、なんでこんなに暑いんだろうか。階を増す毎に熱が籠もって仕方ない。額にじんわりと滲んだ汗を拭いながら、階段を昇る。ダイエットの為にって思ってたけど、素直にエレベーターを使えば良かったと後悔する。
 部屋の扉を開けると、小さな箱の中に溜まっていた熱気が容赦なく私を襲う。やだなぁ、もう。顔をしかめてパンプスを脱ぎ捨て、そのまま足は冷蔵庫の中でキンキンに冷えた発泡酒を欲して進んで行く。
 ひんやりとした冷気が纏わりつくプルタブに指をかけると、自然と頬が緩むのが分かった。プシュッと小気味良い音を響かせて、それをそのまま一口。ああ、これこれ。喉越しの良さに思わず目を閉じて、体中の熱を発散させる。
 足で適当に冷蔵庫を閉じて、缶を片手に器用にカーディガンを脱いでソファーの上に放り投げる。きっと彼がこれを見たら「行儀悪いっスよ、女子としてどーなんスか」なんて言うに違いない。想像して、クスリと笑う。
 でもいいんだ。彼からは私の姿なんて見えないのだから。それは勿論、私にとってもそうなんだけど。なんて思いながら窓の鍵を開ける。ベランダに常備している古ぼけたサンダルを履いて、もう一度発泡酒を煽った。

「なまえさん?」
「あれ? 今日は早いね」

 一枚の仕切りを隔てた向こう側で声がした。黄瀬涼太くん。同じマンションに住む、所謂お隣さんと言うやつだ。

「仕事お疲れ様っス」
「涼太くんも部活お疲れ様」

 無駄に広いベランダは私のお気に入りだ。日当たりも良好、見晴らしもいい。ビアガーデンには遠く及ばないけれど、カラリと晴れた日に外の空気を吸いながらのお酒はまた格別なのだ。
 そんな私が涼太くんと知り合ったのも、このベランダだった。ビールを煽りながら口ずさんでいた鼻歌が、たまたまベランダに居た涼太くんの耳に届いたらしい。「ご機嫌っスね」クスクスと堪え切れていない笑い声と共に、こちらに投げかけられた言葉を今も鮮明に思い出すことが出来る。
 そんなこんなで、こうして二人の間を遮る薄い壁越しの御近所付き合いが始まった訳である。

「どうしたのー? いつもなら遅くまで残ってバスケしてるのに」

 ここから歩いて数十分の所にある海常高校に通う涼太くんは、バスケ部のレギュラーなんだとか。彼から語られることの八割はバスケのことだ。ルールすらあやふやではあるけれど、彼の話を聞くことは好きだった。ああ、きっと今、すごくいい表情してるんだろうなって。涼太くんの口調から声音から全てが伝わってくるんだから。
 でも、今日は自主トレも程ほどに帰って来たらしい。社会人の私なんかより、帰りが遅いことなんてザラなのに。珍しいなぁ。そう思って、素直に疑問を口に出す。すると、少しだけ歯切れの悪い返事が返ってきた。

「……んー、今日だけは特別、って言うか」
「特別?」
「そう、特別」

 小さく、でもしっかりと肯定した涼太くん。何か大切な用事でもあったのだろうか? 詮索していいものか迷い、少し悩んだ結果「そっか」と頷いた。

「えー、聞いてくれないんスか?」
「あ、いや。言い辛いことなのかなって。無理に聞くのも、ね?」

 慌てて言い訳をすれば、向こう側からカラカラと楽しげな笑い声が響いた。「うん、分かってるっスよ。俺、なまえさんのそういうとこ好きだもん」その上そんな恥ずかしいことをサラリと言い退けてしまう。
 私より年下だし、普段は本当に今時の高校生って感じのちょっと軽い雰囲気なのに。時々、どこか大人な涼太くんが顔を出すことがある。それが妙にしっくり来るものだから、侮れない。

「で、今日は何かあったの?」
「うん……、実は今日俺の誕生日なんスよね」
「え! わぁ、おめでとう!」

 缶を持っていた右手を乾杯の意味を込めて持ち上げる。チャポン、と残り僅かな発泡酒が揺れた。酔いが回りつつある所為か、唐突に聞いたお祝い事のお陰か、心が浮つき出している。

「あ、でも。それだったら部活の皆や友達とお祝いするんじゃなかったの?」
「皆には申し訳ないんスけど、今日は全部のお誘い断って来たんス」
「何で、また」

 せっかくの誕生日だ。いつも話して聞かせてくれる部活のメンバーや、中学からの友達とか、きっと皆が涼太くんをお祝いしたいに違いないのに。
 そう言いかけて、はたと口を閉じる。トン、と私と涼太くんを隔てている仕切りが揺れた。この壁の、直ぐ向こうに涼太くんが居るんだと今更ながらに実感する。

「何でだと思う?」
「……分からない」
「じゃあ、どうしてか理由を知りたくないっスか?」
「……うん。何で……?」

 妙な沈黙が二人を包み込んでいく。私はどうしたらいいのか分からずに、両手で缶を弄ぶ。
 すっかり酔ってしまったらしい。変な期待をしている自分がいる。今日はもう、さっさと寝てしまった方がいいんじゃないだろうか。そんな考えすら頭の中で飽和し、泡になって消えていく。

「なまえさんに一分一秒でも早く、おめでとうって言って欲しかったから」

 そうして、漸く私の下へと届いた涼太くんの声は少しだけ震えていたような気がした。伝染するように私の指先も僅かに震える。壁に凭れ、早くなった鼓動を抑えるように瞼を閉じて、向こう側に居る涼太くんの姿を思い浮かべて。

「涼太くん」
「……何スか?」
「誕生日、おめでとう」
「はい……」
「でもね、出来たら−−」

 −−直接顔を見て、言いたいかな。

 そう言えば、涼太くんはふんわりと、私の想像通りの笑顔を見せてくれるのだろう。


きっとわたし、
黄金色の夢を見る




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