▼ 小道の友人
私には記憶がない。
といっても、記憶を無くしたのは15年も前の話。
それからずっと記憶をなくしたまま生きてきた。
記憶を無くしたばかりの頃は不便で苦労もしたけど今ではそんな事はない。
大人になり社会に出て働くようになったら、苦労も不便も感じない。
今の私は15歳以前の記憶がない、ただのOLだ。
*
コツコツと歩くたびにヒールが鳴る。
少し音が荒々しいのは仕事でトラブルが有って苛立っているからだ。
こういう時はコンビニに行って適当にお菓子を買って食べるに限る。
そう思い行きつけのコンビニ、オーソンへと足を進めた。
「…あれ?」
オーソンに着き、さあ店内へと思ったけれど違和感を覚え足を止めた。
オーソンの横に見覚えの無い道が出来ている。
こんな道、あったかしら?
いつもはこんな小道、気にも留めないけれど何故だか今日は違った。
ふらふらと足が小道へと向かう。
何かに誘われるように私はその小道へと足を踏み入れた。
「本当に知らない道だわ…」
建ち並ぶ見知らぬ家々。
生まれてからずっとこの町で暮らしてきたけど、こんな住宅街があるのは知らなかった。
しかもどの家も広い庭に大きい家で、所謂高級住宅だ。
だけど、あまりにも妙だ。
人の気配がなさ過ぎる。
よく見たら、どの住宅も荒廃していてまるで幽霊屋敷のようだ。
…なんだか途端に怖くなってきたわ。
「ねえ」
「ひゃあ!?」
背後から突然声をかけられ、素っ頓狂な悲鳴が上がった。
バクバクと心臓が激しく動き出す。
落ち着かせるように一回深呼吸をし、ゆっくりと振り向いた。
「道に迷ったの?」
そこに居たのはリボンの付いたワンピースを着た1人の女の子だった。
「…?」
その姿にどこか懐かしさを感じた。
何処かで見たことがある…ような気がする。
だけどハッキリと覚えていない。
「貴女…」
女の子がポツリと声を零した。
その表情は驚愕に染まっている。
「名前…?」
「え?」
女の子の口から私の名前が出てきた。
つまり私はこの女の子と会ったことがある?
懐かしさを感じたのは私の思い違いじゃあなかったようだ。
だけど此処で1つ問題が出てくる。
私はこの女の子の名前が判らない。
女の子の方は私の名前を知っているのに私は忘れているなんて失礼極まりない。
どうにかして思い出そうとするけれど、一向にそれらしい名前が出てこなかった。
「名前、よね…?」
女の子が不安そうに訊いてくる。
その問いに頷くと女の子はどこか泣きそうな顔を見せた。
「あ、あの…えっと…」
女の子の表情に戸惑い、一歩後ずさる。
そしたら女の子はハッと目を見開き、声を荒げた。
「お願い逃げないで!!」
そのあまりに悲痛な声色に、ビクリと体が固まった。
「お願い…名前…」
ああ、どうやら私と女の子はただならぬ関係のようだ。
だけど私はこの女の子を知らない。
だからおそらく、この子は私の失くした記憶の中の子なんだろう。
「ねえ、聞いてちょうだい」
「?」
「私、昔の記憶が無いの。 だから貴女のことが判らないのよ」
ごめんなさい、と謝ると女の子は眼を見開いた。
戸惑い、何かを言おうとしていたけれど私の言葉が真実だと悟ったようだ。
彼女は悲しげな表情を私に向けた。
「私のこと、忘れちゃったのね」
「…ごめんなさい」
再び謝る。
しかしながら、記憶喪失になってから何度も体験したことだけど私の知らない人が私の事をよく知っているのは、やっぱり奇妙な感覚だ。
いつまで経ってもこの感覚に慣れない。
「鈴美」
「え?」
唐突に聞こえた単語。
女の子の方に視線を向けると女の子は再び言葉を紡いだ。
「杉本鈴美っていうの、私」
「鈴美、ちゃん?」
「そっ、鈴美ちゃんよ」
鈴美ちゃんと口に出すと彼女は嬉しそうに笑った。
もしかしたら以前の私も同じように彼女の名前を呼んでいたのかもしれない。
「名前とは同級生だったの」
「同級生……」
その言葉を聞き、思い出した。
なぜ彼女に見覚えがあったのかを。
私の部屋の写真立ての1つに彼女がいた。
中学生の制服姿で私と鈴美ちゃん、2人で写っている写真。
小中学生の時のアルバムは全て押入れの奥へと追いやった。
だって全部が全部、私の知らない思い出だから。
自分と同じ姿をした知らない人の思い出。
そんなもの見返しても、辛いだけだったから。
でも、ただ1枚だけは追いやれなかった。
鈴美ちゃんと並んで写っているあの写真だけは。
理由は自分でも分からない。
だけど結局は知らない思い出には違い無い。
飾ってはいたけどあまり見ないようにしていた。
だから鈴美ちゃんを見た時、すぐに思い出せなかったんだ。
「鈴美ちゃん」
「なーに?」
「私と鈴美ちゃんは仲が良かったのね」
「そうよ、一番の親友だったんだから!」
鈴美ちゃんはそう言うと懐かしむように目を細めた。
沈みかけた夕陽にほんのり照らされるその姿が、とても美しく見えた。
「…そろそろ日が落ちるわね」
鈴美ちゃんの姿に見とれていたら、鈴美ちゃんがポツリと言った。
そう言われれば確かにもうすぐ暗くなる頃だ。
「帰りましょうか。 来て、一緒に出口まで行きましょ」
「出口?」
「此処は一度入ると簡単には出れない小道なの」
「えっ」
「あっあー、心配しないで! 私がいるんだから!」
鈴美ちゃんはそう言って手を差し伸べてくれた。
一度入ると簡単には出られない。
その言葉に不安と恐怖が押し寄せたけれど鈴美ちゃんの言葉を聞いたら、そんなもの吹き飛んでしまった。
彼女の言葉には不思議な魔法でも掛かっているのだろうか。
「さあ」
鈴美ちゃんに促される。
それに従い、ゆっくりと鈴美ちゃんの手に自分の手を重ねた。
その手は冷たかったけれど、何だかとても安心できる気がした。
この時の私は、違和感に気づかずにいた。
なぜ同い年のはずの鈴美ちゃんが写真の中の姿と変わらないのか。
なぜ荒廃した住宅街にたった一人で居たのか。
なにも、気づかなかった。
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