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▼ 信ちゃんの初恋を奪う

“信ちゃん”

ふと、懐かしい女の子の声が北信介の頭を過ぎった。
柔らかく、まだどこか舌足らずな稚い声――それは幼い頃に好きだった女の子の声だった。

“信ちゃん”

再び彼女の、名前の声が浮かぶ。
信介は名前のあの柔らかい声で自身の名前を呼ばれるのが好きだった。
幼い頃の信介は自分を“信ちゃん”と呼ぶのは家族だけだと思っていたが、そんな幼い信介の考えを名前は出会った初日に塗り替えたのだ。

「信ちゃん、いっしょに遊ぼ」

「うん」

同年代の子ども達より物静かな子どもだった信介に名前は何度も手を差し出して遊びに誘った。
人懐っこく可愛らしい名前には自分以外にも沢山友達がいるのに、その中から真っ先に自分を選んでくれるのが嬉しくて、信介はフワフワと心を揺らしながら何度も名前の手を取った。
そんなフワフワと揺れ動く心の正体が恋心だと気付いたのは、すぐ後のことだった。

「信ちゃん、さっきお花にお水あげてたやろ?」

ニコニコと笑顔を浮かべながら名前に問われ、信介は「うん」と言葉を返す。
名前の言う通り、先程花壇の花が萎れかけているのを見つけた信介は小さなゾウさんのジョウロを引っ張り出してきて、一人水やりをしていた。
それを名前に見られていたのかと思うと信介は少しむず痒いような気持ちを覚え、どこかソワソワと落ち着きをなくす。
そんな信介の様子の変化を知ってか知らずか名前はポン、と信介の丸っこい頭に手を置き、優しく撫で始めた。

「えらいなぁ」

両親とも祖母とも違う、柔っこい手の感触。
大きさだって信介の手と大して変わらない。
そんな小さな手がまるで両親や祖母のように優しく慈しむように撫でてくるものだから、信介は思わず目を見開いた。

「信ちゃんの優しいとこ、大好き」

大好き――信介がこの言葉を家族以外から言われたのはこの時が初めてだった。
誰に言われたわけでもなく、ただ漠然と信介の中で「好き」という言葉は家族から貰うものだと思っていた。
しかし目の前で自分を撫でてくれる少女は家族ではない。
そう考えた時、信介はあることを思い出した。

それは数日前、家族揃っての夕飯時のこと。
祖母が「最近信ちゃんと仲良ぉしてくれる女の子が居ってなぁ」と両親に話し始め、それに母親が「まあ!」と目を輝かせ、父親は「良かったなぁ、信介」と大きな手で信介の頭を撫でた。
今年小学校に入学したばかりの姉は「ガールフレンドおるなんて信ちゃんやるやん!」と少しませた発言をしていた。
引っ込み思案というわけではないが、大人しくあまり友達のいない幼い信介のことを家族も案じていたのだ。

「なんて子ぉなん?」

「名前ちゃん」

「あらぁ、かぁいらしい名前やなぁ」

母親と姉が名前の存在に興味津々と言った様子で声を弾ませながら質問を投げ掛け、それに対して信介がたどたどしく返していく。
そんな賑やかな食卓で、不意に祖母がしみじみと「あんなええ子が信ちゃんのお嫁さんに来てくれたらなぁ」と口にしたのだ。
それに対して「婆ちゃん気ぃ早いわ」と皆が笑っていた。

その時のことを、信介は思い出した。
もしも名前が自分のお嫁さんになってくれたら家族になれる。
家族になったらずっと一緒に居れる。
お迎えの時間が来て「また明日ね」と手を振る時の寂しさも、名前が自分以外の子と遊んでいる時の胸の痛みも、きっと無くなる。
それはとても幸せで、想像するだけで信介の心がまたフワフワと揺れ動いた。

「おれも、名前ちゃん好きや。 およめさんになって」

子どもらしく直球で、突拍子もないプロポーズの言葉に名前は微かに目を見開いた。
スルリ、と信介の頭を撫でていた名前の手が離れていく。
信介が名残惜しそうに目を細めると、名前は小指だけ立たせてた手を彼の目の前に差し出した。

「ええよ、ゆびきりしよか」

そう言って名前はとても可愛らしい笑顔を浮かべたのだ。

――なぜこんな遠い昔のことを今になって思い出したのか。
それは高校生最後の年、最終学年に進級して初めて同じクラスになった女生徒の姿が初恋のあの子に似ていたからに他ならない。

卒園後、てっきり同じ小学校へ進学するものだとばかり思っていた別の小学校へ進学した初恋の子。
入学して数日かけて一年生のクラスを何回も回って探したのに名前の姿はどこにも見当たらず、帰って祖母に「名前ちゃんが居らんねん」と訴えると、祖母は眉を下げながら「違う小学校なんかもしれんなあ」と慰めるように信介の頭を撫でてくれた。
いつもは祖母に撫でてもらうのを嬉しく感じていた信介だが、この時ばかりは名前の手が恋しくなるばかりで少しも心が晴れることはなかった。

もう一度「えらいなぁ」と言いながら頭を撫でてほしい。
「大好き」と言って可愛い笑顔を向けてほしい。
信介のそんな淡い願いは叶うことはなく、こうして十数年経った今でもまるで呪いのように心の中に棲み付き、時々胸を締め付けるような痛みを訴えてくることがあった。
どうすればこの初恋の呪縛から解放されるのかも解らず、この呪いと共に成長してきた信介にとって初恋の彼女によく似た人物が自分のすぐ隣に居るという状況は、嬉しいなんて言葉だけじゃ言い表せないほどの衝撃だった。

綺麗に背筋を伸ばして着席している彼女の視線が信介へと向く。
あまりに凝視し過ぎたせいだろう、彼女は怪訝そうに眉を顰めた。

「なん?」

たった二文字程度の短い言葉。
しかしその二文字に信介の心は喜びに打ち震えるように鼓動を速めていった。
あまりにも似ているのだ、あの柔らかく優しい――初恋のあの子の声に。

「名前……教えてもらえんやろか」

「ああ、はじめましてやもんな。 苗字名前、よろしゅう」

彼女の名前を聞いた瞬間、信介は目を見開いた。
名前も全く一緒、つまりこの子は自分の初恋の――

「名前ちゃん……?」





「名前ちゃん……?」

初対面でいきなり名前にちゃん付けやと……?
思わずそう口に出しそうになるのをグッと堪えた。
真面目そうな顔して初対面でメッチャ急に距離詰めてくるやん。
愛想笑いを貼り付けながら内心ちょっと冷めた目で見ていたら、隣の席の彼は少し寂しそうに眉を下げた。

「俺、おんなじ幼稚園やったんやけど……覚えてへんか?」

「ようちえん……?」

そらまあ、えらい遠い関わりやな。
むしろ覚えとる方が珍しいんちゃうか。
そう考えながら、ううんと記憶をひっくり返してみる。

正直、幼稚園の頃の記憶は黒歴史があるからあまり思い出したくなかった。
幼児体験が苦痛すぎるストレスで「せや、幼児の初恋奪ったろ」と最低な遊びを実行していたのだ。
今思い返しても罪悪感と羞恥心で胸がいっぱいになる。
幼児らしく無邪気に結婚の約束まで交わした同い年の男の子。
卒園して以降、学区が違ったから交友関係はパタリと途絶えてしまったけど元気にしとるやろか。
そうそう、ちょうど隣の席に居る彼のように丸っこい頭の、かぁいらしい男の子――あれ?

「……信、ちゃん?」

私がポツリと記憶の引き出しから懐かしい愛称を引っ張り出すと、隣の席の彼は嬉しそうにニコリと微笑んだ。

「覚えとってくれたんか、嬉しいわ」

「うそぉ……」

思わずそんな声が零れた。
それは再会を喜ぶような言葉ではなく、むしろその逆だ。
言うなれば信ちゃんは私の黒歴史の象徴、黒歴史の擬人化といっても過言ではない。
そんな相手が同じ学校の同じクラス、しかも隣の席になるなんてどんな冗談だ。
最終学年まで関わらずに済んでいたのなら、このまま再会せずに卒業させてほしかった……!
そう心の中で嘆いていると、信ちゃんが小指を立てた手を私の目の前に差し出した。

「約束、覚えとる?」

ヒュ、と喉が鳴った。
待って、ちょっと待って、さすがに冗談やんな?
あのお嫁さん云々のことを言うとるわけないよな。
いや、最悪それのこと言っていたとしてもジョークに決まってる。
だって、あんな十年以上前の、しかも幼児同士の約束事なんか時効やん。

「お、覚え……」

「覚えとるやろ?」

覚えてないと言おうとしたら、すかさず言葉を被せられた。
まるで「覚えとらんわけないやろ?」と言うかのような圧力。
あかん、これ間違っても覚えとらんなんて言うたらアカンやつやと長年の勘が告げた。

「あは……覚えとるよ、ゆびきりしたやんか」

引き攣った笑顔を浮かべながら信ちゃんの小指に自分の指を絡めた。
すると信ちゃんは「せやな、ゆびきりしたもんなぁ」と嬉しそうにキュウ、と目を細めた。




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