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▼ 2.5

唐辛子キャンディを隣の席の彼女に食わされてから数日後、侑にとっての“チャンス”が訪れた。

「あー、日直。 すまんけどコレ資料室になおしといてやー」

「はあい」

教師の言葉に能天気そうな声で返事をしたのは侑の左隣の名前だ。
日直は席順で決められており、今日の日直は侑と彼女だった。
あの教材の量は彼女一人で持って行くのは大変だろう。
そう思い、侑は彼女に続いて席を立った。
勿論これは善意からではなく、資料室という人が寄り付かない場所でこの女を泣かせてやろうという完全なる悪意からの行動だった。
そんな侑の悪意など全く知らないであろう彼女は「宮くんも行ってくれるん? ありがとお」と声と同じように能天気な表情でぽやぽやと笑っていた。



一切会話を交えることなく辿りついた資料室。
名前が扉を開けると、少し埃っぽい空気に侑は眉を顰めながら一つ咳払いをした。
そんな侑とは対照的に彼女は全く気にする様子も無く資料室へと足を踏み入れる。
彼女の後から続くように侑は資料室に入ると、侑は持っていた教材をソッと床に置いた。
そして扉を閉め、コッソリと錠を下ろす。
――これで、誰にも邪魔はされない。

背を向けながら「これどこになおすんかな」なんて暢気に話す名前に近づき、侑はそのまま背後から力強く抱きしめた。
バサバサ、と音を立てて彼女が持っていた資料が床に落ちる。
「宮くん?」と呼ぶ彼女の声は能天気なもので、この女状況解っとらんのか――と侑はつい小さく舌打ちをした。

「どないしたん? 立ち眩み?」

「……ほんまにこの状況解らんのか?」

意図せず低く怒気を含んだ声が出たがそれでも彼女の態度は変わらず、侑は半ば意固地になって彼女の顎を掴むと、そのまま無理やり振り向かせるように持ち上げた。
――最初は、ちょっと抱きしめる程度で済まそうと思っていた。
見るからに純情そうな彼女はきっと少し抱きしめてやるだけで顔を真っ赤にして狼狽するだろうと、そしてその様を盛大にからかってやろうと思っていたのだ。
しかし侑の予想に反して彼女は唐突に抱きしめられても何の変化も見せなかった。

今だってそうだ。
顎を掴まれて無理矢理後ろを向かされて、ちょっと侑が顔を近づければキスだって出来てしまう距離にいるというのに顔色一つ変えやしない。
無知なのか、それともこういった状況に慣れているのか――どちらにせよ侑は大変面白くなかった。
腹の底からじわじわと苛立ちが浮かんでくる。
侑が睨むように彼女を見下ろすと、睨まれた当の本人はケロリとした顔でおもむろに口を開いた。

「首痛いわ、離したって?」

顎を掴んでいる侑の手に彼女がソ、と自身の手を重ねると、まるで魔法にでも掛かったかのように手から力が抜け、侑はゆっくりと腕を下ろした。
あんなに湧き上がっていた苛立ちが、しょんもりと小さくなっていく。
自分の感情の起伏に頭が追いつかず、侑は頭に疑問符を浮かべながらボンヤリとさっきまで彼女の顎を掴んでいた手を見つめた。

「どうしたん、宮くん」

言いながら彼女が振り返り、侑と真正面から向き合った。
侑が真っ直ぐ彼女を見つめると彼女も真っ直ぐと侑を見つめ返してくる。

(なんやねん……もっとビビったりなんかこう、慌てたりしろや)

慌てる様子も怯える様子もなく、どこか心配そうな眼で見てくる彼女にすっかり興を削がれ、侑は溜め息を吐くと「なんもあらへん、ただの立ち眩みや」と小さく口にした。
すると名前は悪戯っ子のようにニコリと笑みを浮かべた。

「なんや、キスでもしたいんかと思ったわあ」

そう言って冗談めかしく笑う彼女に侑は視線が釘付けになった。
楽しそうに細められた眼が侑を見上げる。
ああ、またあの眼や――と侑が認識すると同時に心臓がドクリと強く脈打った。
全てを受け入れてくれるかのような優しい眼。
その眼を見つめ返していると侑の喉が無意識のうちにゴクリと鳴った。

「……キスしてええんか」

低く唸るような声が意図せず出た。
獲物を狙うように鋭くなった眼光もきっと無意識で、侑は自分が今どんな表情をしているか知りもしないのだろう。
知っているのは眼の前の彼女だけだ。

何も言わない名前の頬に侑は壊れ物を扱うような手つきで触れた。
柔らかく滑らかな肌は自分のものとは少し違って、侑の中に小さな緊張感が生まれる。

「ええんやな?」

止めるなら今のうちやぞ、と警告するが、彼女はただジッと侑を見上げるばかりで何も返さなかった。
真っ直ぐと自分を捉える目に釘付けになりながら、侑はゆっくりと唇を寄せた。
それでも名前は抵抗を見せない。
ああ、キスしてもええんやな――そう侑が理解したその時だった。
あと数センチといったところでフイ、と名前が侑の唇を避け、代わりに侑の左耳へと唇を寄せたのだ。

「だーめ

酷く甘い声が侑の鼓膜を揺らし、侑は咄嗟に耳を押さえながら名前から距離を取った。
じわりと左耳に熱が集まる。
その熱が急速に全身へと広がるのを感じながら、侑は何が起こったのか分からずただ呆然とした。

(なんやねんこれ……っ!?)

たった一声聞いただけで全身が熱くなってアホみたいに心臓が高鳴って仕方がなく、侑は左耳から手を離し、今度は自分の頬へと手を当てた。

(あっつ……)

風邪でも引いたんかと錯覚するほど熱を持った顔に益々困惑する。
侑が困惑している隙に彼女は侑を横切ると、さっさと資料室を出ようと扉に手をかけた。
しかし当然ながら錠が下された扉はガチャガチャと音を立てるばかりで、彼女は「えー、宮くんなんで鍵かけてるん?」などと能天気に笑いながら錠を開けた。

「……っ、ちょお待てや! 今のはキスする流れやろ?!」

我に返った侑が彼女の方を振り返りながら吠えるように詰め寄ると、彼女はニコリと微笑みながら口を開いた。

「宮くんにはしてあげん」

「あ゛?」

ビキ、と侑のこめかみに青筋が浮かぶ。
なんやねん宮くん“には”って。
じゃあ他のヤツにはキスすんのかこの女。
別に恋人同士ではないし、何ならちゃんと言葉を交わしたのだって先日が初めてという薄い関係性にも関わらず、何故だか彼女が他の男にキスするのは許せなかった。
侑は自身の感情の変化に少し疑問符を頭に浮かべたが、そんな疑問はすぐに頭から出ていった。

「それとそれ、一人でお片付けできたら甘〜いご褒美あげるから頑張ってなぁ」

そう言い残して資料室を出て行った彼女の言葉が頭の中で反芻する。
一人残された侑は、どこか夢心地な気分で彼女が出て行った扉をジッと見つめた。

「……甘いご褒美ってなんやねん」

ようやく出てきた言葉は当然既に居なくなった彼女に届くことはなく、静かになった部屋の中で誰に聞かれることもなく消えていった。



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