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▼ 02

「え?」

ふと我に返った。
自分が今どこにいるのか思い出せず辺りを見回すと、私以外誰も乗客のいないバスに乗っていることに気付いた。
窓の外は木々が生い茂るばかりで他には何も見えず、どこかの山道を走っていることしか分からなかった。
シャワーを浴びる前からの記憶が曖昧で、自分がどこに向かおうとしているのかも解らず頭に疑問符ばかりが浮かぶ。
山道特有のぐにゃぐにゃ曲がりくねった道路に気分を悪くしながら、鞄からスマホを取り出し現在地を確認する。
辛うじて電波が入っていて、いつもよりも大分時間を掛けてスマホ画面にマップが表示された。

(え、どこ……?)

マップに映し出される緑色の多さは予想していたけれど、全く聞いたことのない地名には思わず目を見開いた。
無意識に来る場所じゃないのは確かだ。
え、これちゃんと今日中に帰れる?
最悪帰れないとしても泊まれる場所ってあるの?
そんな不安が脳内を占拠し始めた頃、漸くぐにゃぐにゃ道を抜けたのかバスは真っ直ぐ走り出した。

スマホから目を離し、窓の外へと向ける。
さっきまで木々に覆われていた景色は一気に拓け、田園風景が広がっていた。
ぽつぽつと建つ家屋に人の気配を感じ、ひとまず安心していると運転手さんのアナウンスが入った。
もうすぐバス停に着くらしい。
これ以上バスに乗っていても仕方ないと思い、降車ボタンを押した。

バスの速度が緩やかになる。
見知らぬ土地に足を踏み入れる緊張からか心がざわついて仕方ない。
なんだろう、まるで全身の毛が逆立つような高揚感とも恐怖心ともとれるこの感覚は。
覚えのない感覚に不安を感じているとバスが速度を緩め、完全に停車した。
まるで降りたくないと訴えるように重く感じる足を無理矢理動かし、運転席の横でお金を払う。
降りる前に運転手さんに「ありがとうございます」と一言お礼を告げると、運転手さんはニコリと狐のように目を細めて笑みを返してくれた。

バスから降り、トン、と地面に足がつく。
スン、と少し空気を吸い込むと木の匂いがした。
田舎は空気が澄んでいると聞いたことがあるけど、うん、何となくそんな気がする。
そんなふうに考えていると扉が閉まり、バスは緩やかな速度で走り出していった。

完全に一人きりになる。
バスが走り去っていった方向を見ながら、どうしようかと考える。
どこか民家を訪ねて泊まれる場所があるか訊いてみようか。
でも完全に観光地でもない、村というより集落っぽい規模のこの場所に宿泊施設なんてあるのだろうか。

あれ、そもそもなんで私ここで降りたんだっけ。
あのままバスに乗ってたらそのうちもっと人のいる、それこそ駅とかに行けたかもしれないのに。
なんでここで降りた方がいいなんて思ったんだろ――そう頭に疑問符が浮かんだ時だった。

「おかえり」

背後から、男の声が聞こえた。

振り返ると、さっきまで誰も居なかったはずのバス停のベンチに男が一人座っていた。
年齢は多分私と同じくらいだろうか。
この田園風景とは不釣り合いな派手な髪色が目を引いた。

「だ、誰……?」

聞き間違いじゃなければ、この人に“おかえり”と言われた気がする。
だけどこの人とは全くの初対面、人違いだ。
そう意味を込めて聞き返すと彼は少し驚いたように目を見開いた後、悲しそうに眉を下げた。

「俺のこと忘れたん?」

「……!」

――約束忘れたん?
夢で聞いた声が頭を過ぎり、夢の声とこの男の声があまりにも似ていることに気付いた。
でも、だからって同一人物なわけがない。
だってあれは夢で、夢に出てきた見知らぬ人物と現実で会うなんて、そんなの――

「まあええか。 これからはずーっと一緒に居れるもんな」

――非現実的すぎる。

「な、なに? その“ずっと一緒”って……」

聞きたいことはたくさんある。
だけど何よりも男の言った“ずっと一緒”の言葉が気になり恐る恐る訊ねると、彼はまるで「なんでそんな当たり前のことを訊くのか」と言わんばかりに不思議そうな顔をした。

「そんなん、そのまんまの意味に決まっとるやん」

答えになっているのか分からない返答に思わず「なにそれ」と弱々しい声が出た。
訳のわからないことが多すぎる。

「わ、私……すぐに家に帰らなきゃ……」

「帰る?」

私の言葉に男の目がス、と細められる。
男がベンチから立ち上がり、私に一歩近づいた。
まるで捕食されるんじゃないかと錯覚してしまうような威圧感に身体が固まり、ゾクリと背筋が冷えた。

「お前の帰る場所は俺のとこやろ」

男の手がこちらに伸びる。
夢と同じようにその手が私の首に触れた。
「違う」と否定しなきゃいけないのに喉が凍りついてしまったかのように言葉が出てこない。
硬直する私の顔を、男が暗い瞳で見下ろした。
ジィっとまるで観察するように見つめられ、居心地の悪さから目を逸らす。

「ふぅん……なんや、まだちゃんと血ぃ混じっとらんのか。 やっぱ少なかったんかなぁ」

ポツリと男が独り言を零す。
その言葉は何だかとても不吉なものに聞こえ、思わず私は視線を男に戻した。
男は私と目が合うとニコリと微笑んで「はよ一緒になりたいなぁ」と同意を求めるように口にした。

「帰ろか」

男は私の首から手を離すと、代わりにまるで恋人のように私の手に指を絡めた。
酷く冷たいその体温にビクリと身体が跳ねた。
まるで死んでるみたい――そんな馬鹿みたいな考えが頭を過ぎる。
この死人のような体温の男に手を引かれるままついて行ったら、一体どこに連れてかれるのだろう。
そう考えるとふるりと小さく身体が震えた。

「帰る、って……どこに?」

漸く出てきた声は震えていたけれどしっかりと男に届いたようで、彼の目が私に向けられた。

「俺らの家。 名前ちゃんがすぐ来てくれる思てたから、ずーっと前から用意してんねんで」

「え……?」

「ほら、はよ行こ」

グイ、と手を引かれ、躓きそうになりながら歩き出す。
足を止めたいのに身体が言うことを聞かず、せめてもの抵抗として歩く速度をかなり落とした。

「……なんで、名前知ってるの?」

律儀に私の遅すぎる歩行速度に合わせて歩く隣の男に問い掛ける。
すると男は当たり前のように「名前ちゃんが教えてくれたやん」と答えた。
言っておくが私は名前を教えた覚えはない。
疑いの視線を向けると、彼は寂しそうに眉を下げた。

「ほんまになーんにも覚えとらんのやなぁ。 俺の名前も覚えとらんの?」

「知ら、ない」

「侑や。 名前ちゃんは侑くんて呼んでたんやでー」

「あつむくん……?」

口に出して呼んでみたけれど、やっぱり覚えがない。
だけどこの侑という男は私の名前を知っていて、まるで私達が特別な関係だと思っているかのように振る舞っている。
この人の言う通り、私が何か忘れているの?

「ほあ……」

不意に隣から気の抜けた声が聞こえた。
見ると侑……くん、が頬を赤らめながら目を輝かせていた。

「メッチャええ……なあ、もっかい呼んでや」

「え……あ、あつむ、くん」

「フッフ、なーに? 名前ちゃん」

付き合いたてのカップルかとツッコミを入れたくなるようなむず痒いやり取りに思わず顔が引き攣った。
なんで初対面の男とこんなやり取りを交わさなければならないんだ。
ジトリと冷めた視線を向けると、侑くんがピタリと足を止めた。

「着いたで」

そう言って侑くんが視線を向けたのは一軒の日本家屋だった。
何の変哲もないどこにでもある一軒家――だけど、私はこの家に見覚えがあった。
ずっと昔、幼い頃に此処に来たことがある。

一つ切っ掛けを掴むと、記憶の引き出しの奥の方に仕舞い込んでいた記憶が一気に溢れ出して来た。
古いものばかりでつまらない畳の部屋、庭に一本植えられた桜の木、穏やかな祖母の顔、そして――悲しげな母の顔。

(此処、お婆ちゃん家だ……)

え、待って、私が此処に来たことあるって事は本当に侑くんとも会ったことがあるの?
首を傾げ考え込む。
侑くんが「名前ちゃん?」と声を掛けてきたけど、それも無視して自分の記憶を探り続ける。
記憶が確かなら、お婆ちゃん家に来たのは一度だけだ。
そのたった一回の記憶を丁寧に紐解いて、あれも違うこれも違うと選別する。

「なあー、はよ家入ろ? 俺腹減ったわぁ」

――ああ、ええなぁ。 めっちゃ腹減ったわぁ

「……あっ!」

侑くんの何気ない一言で奥のほうに仕舞い込んでいた記憶が一気に飛び出してきた。
山の中の川辺で出会った年上の男の子と仲良くお話した記憶。
二人で並んでお菓子を食べた記憶もある。
ずっと解らなかった謎が解けたような気分で、頭の中がスッキリした。

「髪の色違うじゃん」

指を差して指摘すると、それまでどこか不安気に私を見ていた侑くんの目がパアッと輝いた。

「思い出してくれたん?!」

「うん。 川辺で一緒にお菓子食べたよね」

「せや、あのお菓子メッチャ美味かったわ! 此処じゃあんなん食えへんからなぁ」

「そっかぁ、じゃあ今度来る時は持ってきてあげる」

そう笑顔で告げると、ピクリと繋いでいる手が微かに動いた。
急に黙り込んでしまった侑くんに「どうしたの」と声を掛けようとして、止まる。
一歩後ずさると、逃がさないと言わんばかりに繋いでいる手に力が込められた。
皮膚に爪が食い込んでしまいそうで、思わず「痛……っ」と声が出る。
だけど侑くんは手の力を緩めてくれず、ただ私を見下ろした。

「……今度って、なんや」

恐ろしい目が私を見る。
ざわりと全身が逆立つような感覚に身体が震えた。
風も吹いていないのに侑くんの髪が揺れ、何かが侑くんの周りに漂っているような気配がする。
得体の知れないなにか――早く此処から逃げろと頭の中で警鐘が鳴るけど、足が地面に張り付いてしまったかのように動かすことが出来ず、ただ立ち尽くすことしか出来ない。

「なんやねん、ほんま……思い出してくれた思ったら全然覚えとらんやんけ」

「あ、侑く……」

「あんなぁ、名前ちゃんは俺のもんなんやで? 会いに来てくれる言うとったから我慢して待っとったのに、なんでまたどっか行こうとするん?」

幼児に話し掛けるような優しい口調なのに相変わらずその目は恐ろしいほど鋭く、私は何も返せなかった。
いつ私が貴方のモノになったと声をあげてしまいたい。
せめてもの抵抗として睨み付けるように侑くんを見上げると、手を引かれ、足が一歩前に進んだ。

まだ、私はお婆ちゃん家の敷地内には足を踏み入れていない。
侑くんは、多分私を敷地内に引き込もうとしている。
そう感じて私はグッと足に力を込めた。

「おいで」

さっきまでの怖い目は鳴りを潜めて、気味が悪いほど優しい顔で侑くんは私の手を引こうとする。
だけどその優しい顔とは裏腹に繋いでいる手は相変わらず痛いほど力が込められていて、そのチグハグさが更に私の恐怖心を煽った。

「怖い……」

「怖い?」

侑くんが不思議そうに首を傾げた。
それは、私の言っていることが心底理解出来ないと言うような顔だった。

「俺と一緒に居れんこと以上に怖いことって、なんなん?」

思い切り手を引かれる。
よろめく様に数歩、足が前に動いた。

「おかえり、名前ちゃん」

敷地内に、足を踏み入れてしまった。


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