あの子は覚えているだろうか。
あの日交わした小さな約束を。
幼い頃、近所に住んでいる二つ年上の男の子と仲が良かった。
初めて会って言葉を交わした瞬間から仲良くなっていた。
それから毎日一緒に遊んだ。
私はあの子が大好きだった。
あの子もきっと同じ気持ちだっただろうと断言できる。
だけどそんな幸せも長くは続かない。
私の両親が離婚して私は母に引き取られる事になった。
当時住んでいた家は父の家だったので私達は母の実家へと引っ越すこととなった。
その事を男の子に話すと彼はボロボロと涙を流して「行かないで」と引き止めてくれた。
私だって離れたくない。
でもそれは叶えられる願いではない。
だから私は男の子と約束した。
「ねえ、やくそくしよう」
「やくそく…?」
「おおきくなったら、ぜったいにまた会おう?」
「うん…!ぜったいやくそく!」
そう言って、私達は約束を交わした。
あれから10年。
今でも私はあの時の約束を覚えている。
だけど、あの子は約束を覚えているだろうか。
2年前、あの子が住んでいた家を訪ねたけれど誰も住んでいなかった。
住所を教えるのを忘れていたから、あの子の方から私に連絡があるはずもない。
つまりあの子とは縁が切れてしまったのだ。
なのにそれでも忘れないでいる私は未練がまし女なのだろうか。
**
休日の街を歩く。
今日は母さんに頼まれて、食材の買出し中だ。
といっても、後はもう帰るだけなのだが。
食材の入った紙袋を落とさないようにと、しっかりと抱えて帰路を急ぐ。
今日のお夕飯は私の大好きなミネストローネだと母さんが言っていたからだ。
早く帰って一緒に作るんだ。
そう思うと、自然と足が早まった。
「あ…ッ!」
ゴリ、と何かを踏みつける感覚。
急ぐ気持ちから足元をよく見ておらず小石を踏んでしまった。
バランスを崩してしまって体が傾き、そのまま重力に逆らうことなく地面へと倒れた。
「いったぁ……あっ、オレンジ…!」
少し捻ってしまった足首と摩っていたら、紙袋から飛び出し転がっていったオレンジが視界に映る。
慌てて追いかけようとしたら、それよりも先に私以外の人物がオレンジを拾い上げた。
「大丈夫かぁ?」
その人物は私の目の前まで来て、オレンジを手渡してくれた。
黒髪の、私と年の近そうな男の子だ。
「あ、ありがとう」
オレンジを受け取り、地面に落としてしまった紙袋に入れる。
足首はまだ少し痛むけれど歩けないほどじゃない。
いつもより少し時間をかけて立ち上がり、男の子と向き合った。
「ありがとうございました」
「いいよ、別に。 これからは気をつけろよ」
ニコッと笑った男につられて、私も笑った。
「じゃあ、私はこれで」
「おう」
お辞儀をし、男の子の横を通り抜ける。
カッコイイ人、だったなあ。
それに、なんだか少し懐かしい気分にもなった。
さっきの男の子が、あの子と同じ髪の色だったからかな。
少し気になって、チラリと後ろを振り返った。
「あっ」
「!」
振り返ったら、さっきの男の子も私を見ていて眼が合ってしまった。
男の子も、まさか目が合うとは思っていなかったみたいで、眼を見開いて驚いている。
「あ…っ、」
男の子がなにか言いかけたけれど、恥ずかしくて、走ってその場を去った。
家に着いた時、心臓が高鳴っていたのは走ったからという理由だけではないような気がした。
これではまるで一目惚れしてしまったみたいだと、一人苦笑した。
それから数ヵ月後、私はある場所に行くことになる。
草を踏みしめる音と鳥の囀り、そして時々吹く風の音だけが聞こえる静かな場所。
木々に覆われているが、決して暗いわけではない。
とても落ち着ける、素敵な場所だ。
まさか以前住んでいた町にこんな場所があったなんて思わなかった。
「こんにちは」
声を掛けるが、相変わらず鳥の囀りしか返ってこない。
それでも気にせず、その場に腰を下ろした。
「花、たくさん咲いてるね」
此処にはとても綺麗な花々が咲き誇っている。
ただ咲いているのではなく、まるでこの場所を彩る芸術品の様に美しく魅せている。
「そう聞いてたから、花は持ってこなかったのよ」
その代わり、と持ってきた袋からオレンジを出した。
「オレンジ、好きだったでしょ?」
返事は、返ってこない。
解りきった事だから、そのままオレンジを白い墓石の前に置いた。
「貴方の事ね、ジョルノに教えてもらったわ」
あれは数日前だった。
私の前に現れた彼は、ジョルノと名乗った。
そして話したい事があるから場所を変えようと持ちかけてきた彼の言葉に私は頷いた。
いくらジョルノが同い年だからって、危機感がなかったと自分でも思う。
でもあの時、彼の話を聞かなければならないと思ったんだ。
連れてこられた先は静かなリストランテだった。
ジョルノと店主は顔見知りらしく、挨拶を交わしてから適当な席に座った。
「君は、ナランチャの事を知っていますね」
私が向かいの席に腰を下ろしたのを見ると、ジョルノは何の前触れも無く言った。
ナランチャ…それは幼少時、私が約束を交わした男の子の名前だ。
もう二度と会えないと思っていた男の子の名前がジョルノの口から出て、驚きから一瞬言葉を失くした。
「知っているわ…そう言うジョルノもナランチャの事を知っているのね?」
「ええ」
「お願い、ナランチャに会わせてほしいの」
ナランチャに会えるかも知れない。
その思いから気持ちが焦って、少し早口になってしまう。
そんな私をジョルノは、あくまでも冷静な面持ちで見つめた。
「実は、その事で話があるんです」
「え?」
次にジョルノの口から出た言葉は、信じたくないものだった。
ナランチャはもう既に失命していると、そう言うのだ。
あの子とは、もう二度と会うことは叶わない。
そう私が頭で理解するのに、数分ほど時間が掛かった。
「此処に、ナランチャが眠っています」
そう言ってジョルノは一枚の紙切れを私に差し出した。
紙には綺麗な字で住所が記されている。
その住所は、かつて私が住んでいた場所に近い場所だった。
「ねえ、一つだけ教えて」
「なんですか?」
「どうして私を見つけられたの?」
ナランチャが既に失命していたと言うのなら、私とナランチャの繋がりを知る人なんて殆ど居ないはずだ。
そんな数少ない人物の中でも、私の所在地が分かり、尚且つナランチャの死を知る事が出来る人は居ない。
そんな人物がいたら、とっくに私とナランチャは再会しているだろう。
「君の名前や以前住んでいた場所から、徹底的に調べ上げ君を見つけました」
サラッと怖いことを言ってのけたジョルノに、少し背筋が冷えた。
そんな私の気持ちには気づいていないのか、ジョルノは依然として凛とした表情のままだ。
そこで、一つだけ疑問が浮かぶ。
「どうして…そこまでして?」
「僕とナランチャが過ごした時間は短いですが、それでも彼は君の事をよく話していました」
ジョルノと視線が合う。
その眼は、穏やかなものだった。
「きっとナランチャはもう一度、君に会いたいと強く思っていた。 だからです」
「…そっか」
声が震える。
視界もぼんやりと歪み始めた。
ナランチャも、私の事を忘れずにいてくれたんだ。
大切に思っていてくれていたんだ。
そう思うと、胸がキュッと締め付けられた。
「ねえ、ジョルノ。 ナランチャの事、色々聞かせてくれないかしら」
私の言葉にジョルノは、此処に来て初めて沈黙した。
その様子に首を傾げる。
どうかしたの、と私が声を掛けるよりも前に、ジョルノは口を開いた。
「聞けば戻れないかもしれません」
「え?」
「“幼馴染のナランチャ”の印象が壊れ、聞かなければ良かったと後悔するかもしれませんよ」
「それでも聞きたいの」
ジョルノの言った言葉の意味を頭で考えるよりも先に口が動いた。
そんな私にジョルノは綺麗に微笑んだ。
**
「…驚いたわ、まさかギャングになってたなんて」
目の前の墓石に語りかける。
ジョルノに聞かされた時はとても驚いた。
今でも少し信じられないくらいだ。
私が引っ越す時に私よりも大泣きしていたあのナランチャが、ギャングなんだもの。
「あと、実はね……」
サア、と静かに風が吹いて周りの花々を揺らした。
優しく撫でるように通り過ぎていった風に、少しだけ涙が出そうになった。
それをグッと堪え、言葉を続けた。
「ジョルノに、写真も見せてもらったの」
写真は集合写真だった。
ナランチャと、彼の仲間の人が写っている写真。
写真の中のナランチャは笑顔を浮かべていた。
その姿を…その顔を、私は最近見たことがあった。
「私達、ちゃんと再会してたんだね」
写真を見て、初めて知った。
以前、私が転んだ時にオレンジを拾ってくれた男の子。
その男の子が、ナランチャだったのだ。
懐かしく感じたのは、あの男の子がナランチャ自身だったからなんだ。
ナランチャも、そう感じていたのかもしれない。
視線が合わさった時に彼は何かを言おうとしていた。
その言葉はもしかしたら私を引き止める言葉だったかもしれない。
私が幼馴染のナマエかどうか確かめる言葉だったかもしれない。
もう、その言葉が何だったのか確かめることは出来ないが。
私達が気づかぬ所で、幼き頃の約束は果たされた。
これから私はその約束と別れ、人生を歩むことになるだろう。
彼はもう大人になることはなくなった。
永遠に17歳の少年のままだ。
3年後には私は彼よりも年上になる。
そしてそのまま私だけが大人になっていくのだ。
「ねえ、ナランチャ」
いつの間にか鳥の囀りが止んでいた。
風も無く、静かな世界に私の声だけが響く。
「私はナランチャが好きだったよ」
たった5歳程度の幼い恋心。
その恋心は離ればなれになった10年間で、とっくに思い出になっていた。
でも、言いたかった。
「…貴方は、どうだったのかしら」
相変わらず、返事は返ってこない。
ただただ静かな沈黙。
その残酷で寂しい静けさに、私は少しだけ泣いた。