小説 | ナノ


香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐり、一口飲むと酸味の利いた味わいがジワリと広がる。
ここ、喫茶室「なぎさ」は私のお気に入りの場所で、一人の時間をゆったりと過ごすのに最適な雰囲気が漂っている。
リラックスしたい時、考え事をしたい時、ひとりで過ごしたい時――そういう時には必ずここに足を運んでいた。
一息ついてカップを置くと、同時にスマホの通知音が鳴り、メッセージが届いた。
送信者は“友達”のペパーだった。

“今、どこにいる?”

たった一文のメッセージ。
通常ならすぐに返信するところだが、今日は返信せずにスマホを鞄にしまった。
場所を伝えればペパーはすぐに来るだろう。
それに彼の用件は予想がついているので会話は避けたかった。

鞄から小説を取り出して読み始めると、カランと来客を知らせるベルが鳴った。
何気なく視線を向けると、入って来たのはペパーだった。
無意識に「なんで」と呟いてしまう。
ペパーが店内を見回すと、すぐに視線が交わってしまった。
慌てて広げた小説で顔を隠すけど当然ながら隠す事は出来なかった。
ペパーは無言で私の前に座ると、注文を取りに来た店員さんにレモネードを注文し、それから黙り込んでしまった。

「……なんで、ここが分かったの?」

小説で顔を隠したまま問いかける。
文字だけが視界一杯に広がっているため、ペパーがどんな顔をしているかは分からないけど、何となく不機嫌そうな気がした。

「こういう時にお前が行きそうな場所くらい分かんだよ、恋人なんだから」

「……っ」

否定しようと口を開きかけた時、タイミング悪くペパーの注文したレモネードが運ばれてきた。
店員さんが「ごゆっくり」という定型文を言い残し、カウンターへと戻っていく。

「……違うよ」

気まずい雰囲気の中、搾り出すように先程の発言を否定すると、ペパーは「違わない」と否定に否定を重ねた。
更に「強情」と私が言うと、ペパーは「意地っ張りちゃん」と返してくる。

――そうだよ、意地っ張りなんだよ。
本当はまだ好きなくせに、好きじゃなくなった振りして一方的に別れ話をして。
そのくせ、こうして追いかけてきてくれたのを心の底では喜んでいる。
意地っ張りで浅はかな女なんだよ、私。
自己嫌悪に陥りそうな思考回路をコーヒーと共に飲み干し、席を立った。

「オレも一緒に出る」

テーブルの上の伝票に手を伸ばしたところで、その手をペパーに掴まれた。
ペパーはレモネードを一気に飲み干すと伝票を取り、私の手を掴んだままレジへと足を進めた。

「ねえ」

「なんだよ」

「お財布出せない、離して」

「オレが払うから」

そんなこと言ったってペパーも片手が塞がってたらお財布出せないじゃん、と思ったけど、ペパーはスマホロトムを片手で操作してさっさとLPで支払ってしまった。
手を離してもらうタイミングを逃したまま店を出て、そのままペパーに手を引かれるまま歩き出す。
いつの間にか恋人同士の繋ぎ方になっていて、絡められた指は力強く振り払えそうになかった。

「……どこに行こうとしてるの?」

「二人で話せる場所」

「話すことなんて……」

「あるだろ?」

ジッと真っ直ぐ見つめられ、言葉が出なくなる。
心の内を見透かされているような眼に耐え切れなくなり、思わず視線を逸らした。

そしてお互いに無言のまま、目的地も告げられずにただ歩き続けた。
どこに連れて行かれるのかとヒヤヒヤしたけど、連れてこられた先はペパーの部屋だった。
中に通されてホッと息を吐く。
怖い場所に連れてかれたらどうしようかと思っていたから、見慣れたペパーの部屋はどこか安心感があった。
しかしそう思ったのも束の間、ふと気づく。
――個室ってことは逃げ場がないのでは?
そう気づくと同時に背後からガチャリと錠の閉まる音が聞こえた。

「か、鍵……閉めるの?」

「開けっ放しは無用心だろ」

言いながら再びペパーに手を掴まれ、そのままベッドまで誘導されて座らされる。
私がベッドに座るとペパーもその隣にどっかりと腰を下ろした。
相変わらず手は掴まれたままで、ペパーの体温がじわじわと伝わってくる。
その温かさが何だか心地よくて、今現在のこの状況とは酷く場違いな気分だった。

「なんで、急に別れようなんて言うんだよ」

直球で投げ掛けられた問いに心臓がドクリと大きく跳ねた。
緊張から速まり始めた心臓の鼓動を落ち着けるように深く息を吐く。

「急にじゃ、ない」

ずっと考えてた、と呟くように言うとペパーの手がピクリと動いた。

「……もう、好きじゃない?」

「その言い方、ずるい」

嘘でも好きじゃないって言えたなら、私は直接会って別れ話をしたに決まってる。
だけど私はメッセージでたった一文だけを送って関係を終わらせようとした。
理由は簡単だ、直接会って話せる気がしなかったから。

「ずるいのはナマエだろ」

頬に手が添えられ、ペパーの顔が近づく。
「あっ」と思った時には唇が合わさっていた。
感触を確かめるように唇で甘噛みするようなキス。
焦らすようにゆっくりと離しては合わせてを繰り返され、段々と息が上がっていくのを感じた。
それはペパーも同じで、先程よりも荒くなった彼の呼吸音が鼓膜を刺激する。
そのうち、チュ、とわざとらしくリップ音を残して唇が離れていった。

「キスするのも嫌がらねえじゃん」

カジッチュのように色付いた頬をしながら、ペパーは非難めいた視線を私に向けた。
別れたい男とのキスも嫌がらない、はしたない女。
そんなふうに思われただろうか。
でも、そう思われた方が良いのかもしれない。
最低な女だと思われれば簡単に別れに応じてくれるかもしれない。

――ペパーは何も悪くない、悪いのは私。
問題があるのは、私の心だ。
私は……ペパーと付き合うまで、こんな感情が自分の中にあることを知らなかった。

ペパーがマフィティフの治療に奔走していたこと、エリアゼロまでお母さんに会いに行っていたこと、私は何も知らなかった。
正確には、知らされなかった。
ペパーが学校にあまり来なくなった時には「何かあったの?」と訊いたが彼は「何でもない、大丈夫だ」と言うばかりだった。
それでも連絡だけは頻繁にくれたからペパーの言葉通り何でもないのだと自分に言い聞かせていた。
ペパーがあまり学校に来ないまま宝探しが始まった時も「ペパーはどうするの?」と訊いたら「ちょっと探し物がある」と言うので手伝いを申し出たが危ないからと断られた。
次に私がペパーに会ったのは、学校最強大会が開催される前の日だった。
その日、漸く私はペパーから今まであった事を聞かされたのだ。

腹の中が煮えくり返る、なんて表現があるけれどまさにその通りだった。
この時、私は悲しみや落胆よりも先に激しい怒りを、嫉妬を感じていた。
それはペパーにではなく、転入生――アオイにだった。

確かに私はポケモンバトルが得意ではないし、膨大な知識も強靭な肉体があるわけでもない。
だけど、それでもペパーの力になりたかった。
こんな全てが終わった後に知らされるのではなく、彼の助けになりたかった。
だけど実際にペパーが助けを求めたのは私ではなく転入したばかりのアオイ。
その事実が私の心に深い影を落とし、今まで感じた事のない衝動を沸き上がらせた。
それは重くて暗く攻撃的な……邪魔者を排除してしまいたい衝動。

すぐに我に返ったけれど、私は自分が怖くなった。
こんなにも恐ろしい衝動に駆られてしまうのかと自分が信じられなかった。
こんな私がペパーの隣に立つ資格はないと、この出来事が切っ掛けでペパーとの別れを決意させるに至ったのだ。

「ナマエ、黙ってないで何とか言えよ」

ペパーの手が急かすように私の頬を撫でるように触れる。
スリ、と何度も戯れつくように撫でられていると、次第に頬に熱が集まってくる。
きっと今の私の顔は真っ赤になっているに違いない。
こんな頬を染めて黙っていたら別れ話なんて出来ない。
何か言わなきゃ、なにか――

「す……好きな人できた」

ピタリ。
頬を撫でていた手が止まった。

「……は?」

「だ、だから、別れたいの」

「……なんだよ、それ」

ペパーの低く、冷たい声にビクリと肩が跳ねた。
心臓が痛いくらい鼓動を速めて、呼吸も荒くなる。
咄嗟に口から出た言葉はペパーと別れる口実としては全うなものだと思う。
最低で、自分勝手な理由。
これを聞いて私を嫌いになってしまえばいいと、そう思った。
だけど、どうしようもなく選択肢を間違えてしまった気がするのは“眼”のせいだろうか。
私を見るペパーの眼――冷たい眼差しの奥には怒りの他にもっと別の感情が見える気がしてどうにも居心地悪く、無意識にズリ、と足がペパーから遠ざかろうと動いた。

「好きなやつが出来た、か……そっか、しょうがねえよな」

「ぺ、ペパー……?」

再び頬を撫でられる。
「しょうがない」と口に出しながら、頬を撫でていた手はスルリと私の首筋をなぞっていく。
そしてその手が私の左胸に辿り着いたかと思うと予告もなくトン、と押され、何も身構えていなかった私の身体は呆気なく後ろに倒れてしまった。
ギシ、とベッドのスプリングが鳴る。
慌てて起き上がろうとしたけれど、それよりも先にペパーが私に覆い被さるようにして退路を断った。

「ペパー、そこ……ど、どいて」

声が震える。
恐ろしいはずなのに私はペパーの眼から視線を逸らす事が出来なかった。
ペパーが何を考えているのか解らない。
怒っている、と思う。
だけどそれだけじゃない気がして、悪寒がして堪らない。

「ナマエ」

名前を呼ばれ、その音の低さに恐怖がジワリと背中を這うように広がり、全身に浸透していった。
身体が震えだしそうになるのを必死に堪え、ギュッと手を握る。

「少し、話ししようぜ」

ペパーが深い息を吐きながら言った。
口調こそ優しいものの、それでも私の中の恐怖は消える事はなく、脅されているような気持ちで小さく頷くとペパーは少し笑顔を浮かべた。
「いい子ちゃんだな」なんて子ども扱いするように言いながら優しく頭を撫でられ、少し安堵したのか無意識に私はホッと息を吐いていた。

「ナマエの好きなのって、どんなやつ?」

「あっ……」

ペパーが唇を私の耳に寄せながら言うものだからその低い声がダイレクトに鼓膜を刺激して、意図せず声が漏れた。
私の様子を面白がっているのか小さく「ふっ」とペパーが笑うのが聞こえた。

「なあ、どんなやつ?」

そう言うとペパーは私の耳たぶを軽く唇で挟んだ。
その僅かな刺激にも私の身体は過敏に反応してしまい「ひんっ」と悲鳴にも似た声が上がり、慌てて両手で口を塞いだ。
声を抑えるのに必死で私が何も答えずにいるとペパーは答えを急かすように今度は歯を立ててきたり、舌先でチロチロと擽ってきたりと、からかい弄ぶように私の耳を刺激した。

「やっ……それ、やめ……っ」

「じゃあ早く答えろよ」

ぬろぉ、と耳を舐められ、甘い痺れのような感覚が頭のてっぺんから爪先まで一気に駆け抜けていった。
一拍遅れてそれが快楽だと理解すると同時に私の中に危機感が湧き上がった。
これ以上ペパーに触れられたらダメだ、私の中で確実になにかが壊れてしまう……!
そう思い、私は慌てて口を開いた。

「や、優しい、ひと……!」

「他には?」

必死に搾り出した答えはペパーのお気に召さないらしく、更なる理由を要求してきた。
ただでさえ他に好きな人が出来たなんて嘘っぱちなのに、これ以上架空の人間の好きなところを挙げるなんて無茶振りもいいところだ。
お願いどうか諦めて、と祈るようにギュッと眼を閉じたその時――ペパーの右手が私の胸元に触れた。
プチ、とボタンが外される感触。

「えっ、なに、して……?」

「ちゃんと質問に答えたらやめてやるよ」

言いながら二つ目のボタンが外される。
邪魔だと言わんばかりにネクタイも外され、そこらへんにポイっと投げ捨てられた。
そしてペパーの手が三つ目のボタンに触れる。

「待って、言う! 言うから!」

慌てて静止の声を上げるとペパーはピタリと止まった。
しかし手はまだボタンに掛けられていて、手持ち無沙汰なのかカリカリと爪でボタンを弾いたりしている。

「えっと、よく……笑う、人」

「あとは?」

「ま、まだ言わなきゃいけない?」

私の言葉にペパーは「当たり前だろ?」と答えた。

「可愛い恋人を横から掻っ攫うのがどんなヤツなのか気になるじゃねえか」

そう言いながらペパーは三つ目のボタンを外してしまった。
慌てて三つ目の理由を考えるけど、困惑しきった思考回路では二つ架空の理由をでっち上げるのが精一杯で、早く何か言わないとと思えば思うほど何も考え付かなくなっていた。

「言わねえの?」

「ふ、……」

ボタンを全て外しきってしまったペパーがシャツの前を広げながら問うてきた。
今まで隠されていた素肌が冷やりとした外気に触れて、ゾクリと身体が震える。
キャミソールを着ているとは言え、こんな無防備な姿なんて今までペパーに見せたこともない。
寒いのに熱くなる思考回路で必死に考える。
言わなきゃ、なにか、はやく――

「り……料理上手な、とこ」

「オレよりも?」

ペパーの言葉で気づく。
今まで挙げた架空の人物の好きなところは全てペパーに当てはまる事を。
今の私はきっとあからさまに「しまった」と表情に出しているんだろう。
ペパーは少し身体を起こして私を見下ろし――眼が合う。

「なあ、ホントのこと言えよ」

「う……」

「他に好きなヤツが出来たなんてウソだろ」

ジッとペパーの眼が真っ直ぐ私を見る。
ああ、この眼……心の内を見透かされるようなこの眼。
私は観念して全てを話すことを決めた。
最初から、こうすれば良かったのかもしれない。
私が恐ろしい衝動を抱いている事を知れば、きっとペパーも私の事を嫌いになるに決まってる。

「……わかった、話す」


***

動くとピョン、と揺れる三つ編み。
キラキラと好奇心で輝く瞳。
溌剌とした声で「はじめまして!」と私に笑いかける彼女ーーアオイを見て私も笑顔を浮かべて「はじめまして」と返した。
私の隣で手を繋いでいるペパーが“よくできました”と言わんばかりに笑いかけてくるので、むず痒い気持ちになる。

「ナマエはペパーの恋人なんだよね!」

バトルはするの?
サンドウィッチは好き?
ピクニックはよく行くの?
キラキラした眼で次々に質問を投げかけてくるアオイに気圧されそうになる。
会って話してみればアオイは無邪気で元気の良い、ただの年下の女の子だった。

「ピクニック大好きだよ。 でもサンドウィッチは作るの苦手なの」

「じゃあ、私と一緒だね!」

私もサンドウィッチ作るの苦手、と笑うアオイに釣られて私も笑った。

「ナマエもアオイも、すーぐ具材落っことしちゃうもんな」

ペパーもそう言って楽しそうに笑った。
アオイがペパーに笑いかけたのを見ても、私の中にあの恐ろしい衝動が湧き上がる事はなかった。

ーーあの日、ペパーに全て打ち明けた時の事を思い出す。
ペパーの助けになりたかったこと、アオイに対して恐ろしい衝動を抱いたこと、全てを話し終えた時にペパーは平然と言ったのだ。

「なんだ、そんなことか」

「そんなことかって……」

「それくらいオレだって感じたことあるっての!」

そう言ってペパーは私の頭を優しく撫でた。
撫でながら、彼は幼子に語りかけるようにゆっくりと優しく話し始めた。

「ナマエが誰かに酷い事しそうになってもオレが絶対止めてやるよ」

「そんなこと……」

出来っこない、と私が言うとペパーは笑いながら言葉を続けた。

「ずーっとオレの側に居ればいいじゃねえか」

簡単じゃん、と笑うペパーに一瞬「ん?」と頭に疑問符が浮かんだが、その疑問の正体が何なのか解らず「そっか、そうだね」とペパーの言葉に頷いた。

「だから間違っても……もう別れるなんて言うなよ」

そう言ってペパーがチュウ、と私の首筋を吸い上げるものだから、僅かな刺激に身を震わせながら「もう言わないよ」と言葉を返した。

私が恐ろしい衝動に駆られて自制できなくなってもペパーが止めてくれる。
それにずっとペパーと一緒に居られるなら私にとって喜ばしい事だ。
なんだ、ペパーの言う通り凄く簡単な事だったんだ。
思い詰めていたのが馬鹿みたいだと、安心感に身を委ねながらゆっくりと眼を閉じた。


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