日が落ち始め、どんどん教室が夕暮れ色に染まっていくのを見ながら私はただ北くんの事を考えていた。
もうすぐ部活時間が終わる。
終わったら北くんはこの教室に来るのだろう。
その時、私はなにを話せばいいのだろうか。
北くんは心変わりなんかしてなかった。
それを信じれなかった私がまた北くんとよりを戻すのは都合が良すぎる。
じゃあ別れたままでいるの?
北くんの心を傷つけたまま?
ぐるぐると色んな考えが巡り、頭の中がグチャグチャになっていく。
罪悪感と後悔が心に重くのしかかってくる。
どうしようもなく苦しくて、じわりと涙が浮かんだその時――教室の扉が開いた。
「名前……」
扉を開けたのは北くんだった。
私の姿を確認すると北くんはゆっくりと私の席まで足を進め、私の目の前に立った。
よく見たら額には汗が滲んで少し呼吸も乱れていて、部活終わってすぐに来てくれたのだと解った。
「なんで、泣いとるん……」
「あ……」
北くんに言われて慌てて目元を拭おうとしたら、その手を北くんに掴まれた。
「アイツになんか言われたんか?」
「ちゃう……ちゃうよ、北くん」
真剣な目が真っ直ぐ私を見下ろし、こんな状況だというのに私の心臓は馬鹿みたいに鼓動を速め始めた。
北くんの幼馴染に話を聞いた途端に北くんへの恋心を訴えてくる心臓が嫌で仕方がない。
まるで自分の浅ましさが浮き彫りにされている気分だった。
「……ごめんなさい」
「それは、なんの謝罪なん?」
「私、勘違いしとった……北くんが幼馴染の子に心変わりしたって」
キュウ、と私の手を掴む北くんの手に力が入る。
その手はまるで私のことを責めているようで、つい罪悪感から逃れるように北くんから視線を逸らした。
「傷つけることばっか言うて、ごめんなさい……」
ぽたり、と両目から涙が零れ落ちた。
何で今になって泣いているのか。
北くんに別れを告げても幼馴染と一緒に居るところを見ても泣かなかったくせに、何で今泣いているのか自分でも分からない。
泣いたって北くんを余計に困らせてしまうだけなのに、私の意思に反して涙は全く止まる様子がなく零れ続けた。
「ちゃうやろ……悪いのは俺や」
「北くん……?」
「……すまん、アランから聞いたんや」
北くんの手がスルリと私から離れていった。
顔を上げると、滲んだ視界の向こうで辛そうに表情を歪める北くんが見えた。
それは初めて見る表情だった。
別れ話をした時だって北くんは驚いたように目を見開いただけでこんな辛そうな顔は見せなかった。
驚きから目を見開く私を他所に北くんは更に言葉を続けた。
「俺がちゃんと名前に全部話しとったら、こんなふうに名前を泣かせることもなかった」
すまんかった――そう言って北くんが頭を下げた。
その顔が泣いているように見えて私は思わず立ち上がり、ゆっくりと北くんの頬に手を伸ばした。
頬に触れると北くんが顔を上げて私を見た。
その表情は泣いていなかったけれど、不安そうに瞳が揺れている。
なにか安心させてあげられるような言葉を言いたいのに何を言えば良いのか分からず、ただ北くんのその不安そうな目を見続けていると、北くんがおもむろに口を開いた。
「俺は……まだお前に触れてもええんやろか」
「え……?」
「その涙を拭ってもええんやろか」
「北く……」
「まだ、名前を好きでいても許されるんやろか」
――それは私の台詞だ。
北くんを傷つけた私が、まだ北くんを好きでいて良いのだろうか。
こんな私のことを北くんはまだ好きと言ってくれるというのだろうか。
止まりかけていた涙がまたポロポロと零れ始める。
早く言葉を返したいのに私の喉はしゃくり上げるばかりでまともな言葉一つ紡ぐことが出来ない。
それでも北くんは待っていてくれた。
「北くん……大好き」
やっとの思いで口にした言葉に、北くんは思いっきり私を抱き締めて応えてくれた。
◇
翌日、バレー部の朝練が終わる時間に北くんと部室棟で待ち合わせの約束をした私は時間通りに部室棟の前で北くんを待っていた。
こんなふうに朝練終わりの北くんと一緒に教室に行く約束をしたのも今日が初めてで、なんだか緊張してしまう。
そわそわと北くんが来るのを今か今かと待っていると、北くんではないけれど聞きなれた声に話しかけられた。
「おお、苗字!」
「尾白くん」
声を掛けてくれたのは尾白くんだった。
ニコニコと嬉しそうな表情を見るに、北くんから私のことを聞いているのだろう。
「良かったなぁ」とまるで自分のことのように嬉しそうに話す尾白くんに「ありがとう」と返すと、尾白くんの後ろから見知った双子が駆けて来るのが見えた。
「おわっ、名前ちゃんやん」
「ほんまや」
私のことを先輩として全く敬う気がない双子の後輩に「お疲れ」と声を掛ける。
双子の態度は出会った頃からこんな感じなのでもう今更気にしない。
懐かれているんだと思えばそんなに悪い気はしなかった。
「北さんもうすぐ来ると思うでー」
「名前ちゃん今度差し入れ持って練習見に来てや」
そう言って双子は部室へと入って行った。
「あ、尾白くん」
双子に続いて部室に入ろうとする尾白くんを呼び止めると彼は「どないした?」と振り返った。
「北くんと私のこと、放っとかんでくれてありがとぉな」
そう真っ直ぐ告げると、尾白くんは目を見開いた。
その目元にじわりと涙が浮かんだ気がして「えっ」と声を上げると、尾白くんは「気にせんでええねん!」と捨て台詞を吐いて勢いよく部室に入って行ってしまった。
「えっ、アランくん泣いとるん?!」
「名前ちゃんに泣かされたん?」
「うっさいわ双子!」
部室内から微かに聞こえたやり取りに思わず「ふふっ」と笑みが零れた。
バレー部の人達は皆ええ人やなぁ――そう考えながらじんわりと暖かな気持ちに浸っていると「名前」と、待ち望んでいた声が聞こえた。
「北くん! お疲れ様」
「ありがとお、すぐ着替えてくるからもう少し待っとってな」
「うん」
ふわりと私の頭を一撫でしてから部室へ入って行った北くんの後姿を見ながら私はさっき北くんに触れられた場所に手を当てた。
(……幸せやなぁ)
じわりと熱を持ち始めた頬を冷ますため、手で顔を扇ぎながら私は静かに北くんを待った。
◇
制服へ着替えた北くんと手を繋ぎながら昇降口へと歩く。
もう何度も北くんと手を繋いだことがあるのに、なんだか初めて手を繋いだ時のように緊張して仕方がなく、窺うようにチラリと北くんを見上げるとパチリと目が合った。
「……なんや、変な感じやなぁ」
「ふふっ、そおやね」
どうやら北くんも同じ気持ちだったみたいで、なんだか可笑しくなってつい頬が緩んだ。
私が笑うと北くんも気が抜けたように小さく笑みを浮かべてお互いに和やかな雰囲気が漂った瞬間、「名前せんっぱーい!」と元気な声が聞こえた。
北くんと共に視線を向けると北くんの幼馴染がぴょんぴょん元気に飛び跳ねながらこちらに手を振っていた。
少し面食らいながら小さく手を振り返すと、彼女はトタトタと小走りで駆けて来た。
「名前先輩、おはよーございます!」
「う、うん、おはよう」
挨拶を交わすと、彼女は北くんと繋いでいない方の腕にギュウと腕を絡めてきた。
あれ、急に距離感近いな?!
自分の気のせいかと思って北くんの方を見たらどこか不機嫌そうに少し眉を寄せていて、自分の勘違いではないことを察する。
それと同時に昨日北くんから言われた言葉の意味を理解した。
――昨日、北くんと仲直りした後に幼馴染の彼女の話を聞かされた。
彼女は一人っ子だが生粋の末っ子気質で、お姉ちゃんという存在に大きな憧れを抱いているらしい。
去年までは北くんのお姉さんにべったりだったらしいが、お姉さんが東京の大学に進学してしまい深刻な姉不足に陥っていたのだとか。
だから自分に恋人がいると幼馴染に知られたら今度は私にべったりになってしまう――そう危惧した北くんは絶対に幼馴染に私の存在を隠そうと決めたらしい。
幼馴染を私に紹介してくれなかったのも、彼女居らんって嘘を吐いたのもその為だった。
謎が解けてしまえばなんて事はない、北くんのちょっとした独占欲の結果だったのだ。
「名前先輩、一緒に教室行きましょ?」
「あかん、はよ名前から離れや」
「もうっ、信ちゃんは此処まで名前先輩と一緒やったやん! こっからは私に譲ってや!」
「あかん言うとるやろ、少しは遠慮せえや」
きゃうきゃう子犬のように騒ぐ幼馴染の彼女と淡々と応戦する北くんに挟まれ、どうすることも出来ずに私はただ苦笑しながら「遅刻してまうよ」と注意することしか出来なかった。
当然その一言だけで二人の言い合いが終わるわけはなく「先輩、教室まで送って」と言う幼馴染に「教室くらい一人で行きや」と再び二人の間で火花が散ったのだった。
その後、北くんと私が別れたという噂は綺麗サッパリなくなったけど、その代わりに北信介とその幼馴染は恋のライバルらしい――そんな噂が流れてしまい、あながち間違いではなくて否定しようがなかった。