吹雪の下宿先は学校からほど近いボロアパートだった。ところでなんで私が吹雪ん家の前に立ってるのかというと、今日吹雪が休んだため(風邪らしい)明日〆切のプリントを先生に届けてくれと頼まれたからだ。本当めんどくさい。この間席替えをして吹雪の隣になった事を悔やむばかりだった。吹雪は女の子にモテるだけの事はあって顔は良いから、あの時は私もほんのちょっとだけ嬉しかったのにな。まあそんなのは女としての性とか条件反射に当てはまるものなんだろうけど。
先生にもらったメモに目を向ける。外階段で二階に上がって二番目のドアの前で歩みを止めた。表札には今にも消えてしまいそうな字で吹雪と書かれている。私はインターホンを鳴らしてみた。しかしピンポーンという聞き馴染みの音は聞こえてこない。吹雪がドアを開けようと歩いてくる足音も聞こえなかった。どうやらインターホンは壊れているようだった。なので今度はドアをノックしてみた。しかしそれでも開けられる気配は全くなかった。
仕方ないのでプリントを郵便受けに入れて帰ろうかと思った時、つい出来心かそれに準ずる何かに私は突き動かされて、くすんだ銀色のドアノブをひねってしまった。なんでそうしてしまったのか全くもってわからないけれど、すんなりドアは開いてしまった。「わっ」と思わず声が洩れてしまう。私はドアから顔だけを覗かせた。薄暗く狭苦しい玄関にはサッカーボールと靴が数足あった。靴はどれもデザイン性に優れていて吹雪らしかった。真横を見ると小さな台所があった。その小規模さ故に機能は最低限だろう。またその奥にはガラス戸があった。おそらくお風呂場だと思われる……ってちょっと観察しすぎちゃったかな。「吹雪いるー?」私は吹雪を呼んでみた。初めて名前呼ぶけど隣の席のよしみで呼び捨てにしてもらった。しかし、返事がない。俄かに風か外からひゅう、と頬を過ぎ去るだけだった。私は頬に手を当てた。今日も雪まじりの風だった。この極寒の地ではこんな事当たり前だしこれでもよくなった方だ。なんて事はない。でも、風邪っぴきの身体には堪えるかもな。そう思った瞬間、私の中で変なお節介意識が働いた。もしかして相当病状がひどくて部屋で倒れているんじゃ……、と頭の中でぐるぐるとその考えが巡る頃には私の体は勝手に動き出していて、四角い玄関に靴を脱ぎ捨て襖まで一直線。バン!と横に思い切り襖をスライドさせて私は部屋に飛び込んだ。しかし緊迫した状況はすっかりとゆるむ事になった。なぜならば私が見たものが、炬燵に入ってヘッドフォンをし鼻歌を歌いながら体を左右に揺らす吹雪の背中だったからだ。……とても元気そうでなによりだ。
拍子抜けした私はふと周りを見渡した。六畳ほどの広さの和室は吹雪の入る炬燵を中心に形成されていた。左端にはベッド、右端には本棚とタンス、炬燵の前には今や絶滅危惧種のブラウン管のテレビがあり、その横には大型のアンプがあった。暖房器具は炬燵だけしかないようなので辺りは外と変わらないくらい寒かった。


「吹雪、おーい」


さっきの襖を開けた音といい私の真後ろからの呼び掛けといい、どうやら吹雪はかなりの爆音で音楽を聴いているようだ。しかし音漏れは一切聞こえてこない。結構質の良いヘッドフォンを使っているのかもしれない。あのアンプとこのベッドフォンを見ると吹雪は音楽には凝っているみたいだった。
私は仕方がないので吹雪の肩を叩いた。気づくのが遅くなったが、この寒いのに吹雪はタンクトップを着ていた。なんて事だ。私はコートを着ているというのに。私の冷たい手のせいかビクッと肩を揺らして吹雪は振り返った。そして私の顔を見るやいな大きな目をもっと見開いて驚きながら、ヘッドホンをすっぽり外した。するとガシャガシャとものすごい音が部屋中に響いた。それは吹雪がiPodの電源を切るまでの短い間だったがそれだけで耳が痛くなりそうだった。


「あ、名字さん」
「ご、ごめん、勝手に入っちゃって。プリント届けにきたんだけど」
「そうなんだ、ありがとう」


ふわっと目を細めて微笑んだ吹雪は正にプリンス。こりゃモテるのもよくわかる。でもこんなに音楽好きだったのはちょっと意外だったかな。それをいうとタンクトップはものすごく意外だ。意外というかちょっとおかしいかもしれない。
私は吹雪にプリントを鞄から取り出して手渡すとサッと踵を返した。寒いから早く帰りたかったのだ。


「じゃあ、お邪魔しました」
「えぇっ、もう行っちゃうの?ちょっと暖まっていきなよー」
「え」


吹雪の思わぬ発言により私は足を止めた。「おいで、炬燵入りなよ」とひらひら手招きしながらナイスプリンススマイル。断る余地なんてないに等しい。吹雪みたいなかっこいい男子とそうそうこんなシチュエーションになる事なんて滅多にないので、私は吹雪の言葉に甘える事にした。全く私はつくづく下心づくしの女である。
しかし私はすぐに後悔する事になった。吹雪の背後から向かい側の炬燵に入ろうとした時、吹雪の胸の前のテーブルに良からぬものが置かれているのを見たからだ。それは、キッチンペーパーか何かを敷いた上にこんもりと出来ていた白い粉の山だった。その近くには細めのストローもあった。これって……。私は浮かんできた構想のあまりの恐ろしさに思わず後退った。そんな私を吹雪はポカンと見ていて、しばらく私だけの緊張状態が続いた。依然として私が動けないでいると吹雪は「あっ」と何か閃いたように声を発した。


「これ?」


吹雪が白い小山に指を指しながら言った。私はかくんかくん、と必死に頷く事しか出来なかった。すると吹雪は「はははは」と笑い出した。


「これは粉砂糖だよ」
「粉砂糖……?」
「そ、粉砂糖」


そう言うと吹雪は何の気なしにストローを手に取った。そしてそれを鼻に入れて粉砂糖に顔を近づけそれを吸った。


「んー、ハイだー」


吹雪のとろん、とした目が怖かった。本当に粉砂糖なのかな……。
私はただただ呆然と立ち尽くしていた。そうしていると、吹雪にいきなり左手を引っ張られた。右肩に掛けていた鞄が落ちる。私は畳の上に敷かれた炬燵用のふわふわしたカーペットに膝をついた。


「早く座りなよ」
「あぁ、うん」


私は吹雪から見て斜め右に座る事になった。私から見ると左方向の視界に吹雪が居る。吹雪は、頭、おかしいんじゃないか。背筋がゾクッとし、辺りも寒々しているため私は炬燵に入った。ぬくぬくして、冷えきった体が芯から暖まってくる。吹雪は今尚粉砂糖の吸引を続けている。必然的に視線が吹雪を標的にしてしまう。吹雪は私の方も見ずにただ少しずつ消えゆく粉砂糖に目を向けていた。


「名字さんもやりたいの?」
「いや、いいよ」
「そっか」


視界の端に私が入ってしまっていたのか、吹雪には私がやりたいように映っていたのか、怖くなって心臓がばくばく鳴っている。吹雪の細っこい腕がいかにもそれっぽくて気味が悪かった。


「そんな顔しないでよ。これほんとに粉砂糖だよ?」
「でも……」
「舐めてみれば?」
「え」


吹雪は人差し指で粉砂糖を掬って白くなった指先を私に差し出してきた。私にそんな勇気はなく、首を左右に必死こいて振った。あれが粉砂糖だとしても吹雪の指を舐める勇気なんて私にはどこにもないのだ。全校の女子に大目玉をくらうだろう。
吹雪はそんな私を見兼ねて自分で指先を口に含んだ。


「甘いのに」


吹雪は残念そうに呟いた。そしてまた粉砂糖を吸った。私はそれをボーッと見ていた。
粉砂糖が無くなると、吹雪は台所の方からお菓子が入っていたような箱を持ち出してきた。テーブルに置くと何かいろいろ入っているのが見えた。今度は何を吸うんだろう、と思っていると、吹雪はアルミホイルを取り出してその上によく使い込まれたケースに入っていた砂糖を乗せた。それからライターを取り出すと、アルミホイルを持ち上げその下から炙り始めた。吹雪はべっこう飴みたいな匂いが漂うまでそれを続けた。持ち物をライターから太めのパイプのような物に変えると、それをくわえてまた吸い始めた。


「それ、いいの?」
「うん、とってもね」


恍惚の表情で吹雪は言う。最初の王子様のような雰囲気はどこにいったんだろうか。


「名字さんもやる?」
「い、いいって」
「そっか」


その時、吹雪の惚けた表情の瞳の奥に翳りを見せたような気がした。私は少なからずそれに動揺していると、吹雪が箱からまた何かをごそごそと漁り始めた。それからテーブルに出したのは、薄い半透明の直径五センチほどの正方形の紙だった。多分、オブラートだ。吹雪はオブラートの上にまた砂糖を乗せた。そしてそれを小さく包み始めた。
すると吹雪はぱくり、とそれを口に放った。
じっと吹雪を見ていた私はふと疑問に思って、吹雪に問いかけてみた。


「どうしてこんな事してるの?」


吹雪は何も答えなかった。まぁ、いいけど。吹雪なんかどうでもいいし。私は数秒前の疑問を頭の中から掻き消した。その疑問に孕んでいた少しばかりの吹雪への気がかりも一緒に。
私はもうそろそろおいとましようと腰を上げようとした。しかし体重をかけた左手を思い切り引かれて、阻まれた。吹雪の顔が近くにある事だけで頭がいっぱいで何が何だかわからない内に、視界は吹雪の瞼だけしか映さなくなった。睫毛が驚くほど長かった。しかし、唇に温かい感触がして吹雪の舌が私の口内に入り込んできている事を理解した頃には、そんな事で驚いている場合ではないと私の頭の中の危険信号がピカピカ点滅していた。
私の口の中で吹雪の舌がぐるぐるしている。私は意識が朦朧とする中、異物も一緒にぐるぐるしている事に気づいた。それはねっとりとした膜に包まれたような物だった。そして、どんどんぐるぐるする内にみるみる膜は薄くなっていき、甘ったるい物が放出される時、あのオブラートに包まれた砂糖を思い出した。

あぁ、本当に砂糖だったんだ。よかった。

唇がやっと離された。バレたら女子に殺されるな、なんて思っていると吹雪にぎゅっと抱き締められた。白くて細っこい正にもやしっ子の吹雪のどこにこんな力が潜んでいるのかと思うくらいの力だった。私はさっきのキスも今抱き締められているのも、全く吹雪の真意がわからなかった。唖然としていると、私は吹雪の肩がガタガタ震えているのに気がついた。すると吹雪は泣きそうな声で言った。


「僕、寂しかったんだ、ずっと」


ぎゅう、と抱き締められる力が増す。私の胸には吹雪のその言葉が何故か突き刺さっていた。


「だから……、独りにしないで」


ついに吹雪は泣き出した。子供みたいに私の肩口に顔を押し付けて。だんだんと湿り気を帯びていくのがわかった。

なんでだろう。至極どうでもいいのに。吹雪が寂しいのも独りなのも。全て私には関係ないのに。
私の頬には涙が伝っていた。
それは自然の摂理みたいにごくごく自然と私の目頭が熱くなってぶわりぶわり、と涙が溢れ出していたのだ。顎に伝う時にはもう冷たくなっている涙は吹雪の背中に落ちてタンクトップを濡らした。

私は吹雪の背中に手を回して、優しく撫でた。




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