彼女は言った。
「一番美しい死に方とは何か」と。
彼女の言い方や表情に少しの悲愴さも切迫感も感じなかったから、俺はロッキングチェアを揺らしながら肩をすぼめて「さぁ?」と言った。
すると彼女は思い切り眉をひそめた。かなりご立腹みたいだ。答えをはぐらかしたからだろうか。


「相変わらず腹が立つ語尾ね」
「ああ、そっちか」


「何を言ってるんだこいつ」と言わんばかりの視線を、彼女は腕を組みながら俺に刺した。俺は愉快な椅子を揺らすのをやめた。それでも余韻が少し残った。


「ちゃんと答えて」
「イエスマム!」


表面的には緊張状態を保っていても、内面的には割りと普通な精神状態だった俺はゆっくり彼女が納得のいくような答えを探した。
いや、こうやって彼女がたまにする質問の答えは、必ず彼女自身の考えなのだ。だから俺は彼女がどういう思考回路を辿るか過去の経験も踏まえ、鑑みた。
しかしながら結局答えらしい答えは見つからない。恋人同士って価値観が同じなはずなんだけどなぁ。「なんかないかな」メラメラと燃える暖炉の炎に問いかけてみるも答えてくれるはずがなかった。


「遺体を氷漬けにしてみるとか?」
「もう一回下らない事言ったら明日のアップルパイもらうわよ」
「それだけはやめてくれ!」
「じゃあ早く答えを見つける事ね」


憔悴しきった俺の顔を見て彼女は口の端を釣り上げた。ぼうぼうと燃える炎が彼女の笑い声の代行をしているみたいだった。彼女に向かって怒る事は心の中でもちょっと躊躇ってしまうから、俺は炎に暴言を吐いた。「君は温かくするしか能が無いようだね。CO2を出さないようにしたらどうだい?」ごめん、炎。今のは完全に憂さ晴らしだったんだ。理不尽なのは彼女だけで十分だよな。彼女の理不尽さだけは許す事ができるから。俺にはね。

そんな惚気は置いといて、今はアップルパイだ。そう、明日はアップルパイカーが来る日なのだ。月に一度、ハッピーになれる味を届けてくれるスペシャルな車なんだ。でもハンドメイドだから数に限りが合って最低一人一個っていうルールがあるんだ。それを彼女は破って俺のを奪い二つも堪能する。そして俺の羨望の眼差しを容易く一蹴するんだ。さぞ面白おかしい事だろう。でも、俺のビジョンには幸せそうにアップルパイを頬張る彼女が映し出されて、やっぱりしっかり彼女を憎みきれない。だったら、それほど可愛らしい彼女が見られるならあげてもいいんじゃないかと思うだろ?馬鹿言え。アップルパイだぞ、アップルパイ。月一なんだぞ。俺はこの世のすべての物の中であのアップルパイが三番目に好きなのさ(ちなみに一番が彼女で二番がサッカー)。だったら、尚更彼女にあげたらどうだと思っているだろ?しかしだ。彼女は一筋縄ではいかない。俺の頭の中なんか手に取るように知り尽くしているんだ。だから必ずしも幸せそうにアップルパイを頬張るとは限らないのだ。どういう事かというと、至福のひとときを俺に見られるのが嫌なんだ。口元のゆるみ切った自分の顔を見られて俺のにやついた顔が視界に入るのが死ぬほど嫌いらしい。全くとんだひねくれ者だな。そんなところがまたいいんだけど。彼女はそこらの女の子とは違うんだ。それが彼女の魅力だった。


惚気はこれくらいにして、真面目に考えよう。何しろ明日のアップルパイが懸かっているんだ。えっと、美しい死に方……か。考えてたって浮かびやしないよ。こんな難しい質問。全く、「明日のランチは何?」って聞くのと変わらないトーンで言ったくせに。まさかそのランチのデザートが強奪の危機にさらされるとは思わなかったよ。ああ、アップルパイの事を考えると焦ってしまってうまく思考が働かない。
ふと彼女の方を見ると、彼女は思いつめたような表情でゆらゆら揺れる炎を見つめていた。顔に影が落とされていて、妙に哀愁が漂っていた。こんな顔は初めて見たような気がした。俺が声をかけようとする前に、彼女の方から口を開いた。


「例えば一人の若者が蝋で羽をくっつけて翼を作って、それで翔んだとする」
「イカロスの話?」
「知ってたのね」
「もちろん」


なにせイカロスの羽は俺の必殺技の中でもかなりの使用頻度を誇るからな。背中がすごく熱くなるのが難点だが。


「でもその若者が翔んだ理由はイカロスとは全く異なるものとする」
「どんな理由なんだい?」
「若者の恋人は太陽に住んでたの」
「それで太陽に向かう途中で蝋が溶けて海にドボン?どこが美しいんだ?」
「マークの馬鹿。そんなわけないでしょう」
「OH...sorry...」
「イライラさせないでくれる?」
「ごめん」


彼女がため息を吐くと炎がいっそうその強さを増した。彼女はただの椅子の背もたれに体を委ねて、頭上のシャンデリアを見上げた。凝ったデザインのわりには照明器具としての成績はイマイチだが、このなんとも言えない仄かな光が好きだった。それは彼女も同じであった。彼女はシャンデリアに向かって手を伸ばした。


「こうして若者も太陽にいる恋人に手を伸ばすのよ。そうして恋人も手を差しだすの。でもふたりの手が繋がる前に若者の翼は溶けてしまう」

彼女はスッと下ろした手を胸の前でぎゅっと握った。どこか儚げに見えたそれをパッと離すとサッと静かに腕組みをした。それは彼女なりの照れ隠しだった。


「墜ちていく若者を恋人はなんの躊躇もなく追って、雲を通りすぎるころにふたりはやっと手を繋ぎ合う事ができるの」
「それからドボン?」
「ふたりで抱き合ってね」
「君と抱き合って溺死ならいいかもしれない」
「あら、私はまだ死にたくないわよ」
「そんなの百も承知さ」
「それで、答えは出た?」


彼女が急に話を本題に戻してきた。俺としてはまだ時間がほしかった。未だ彼女の考えがわからない。Help meイカロス!口籠もる俺を彼女は訝しげに見た。情けない俺をどうせ見下しているんだろう。「わからないの?」ほら、やっぱり……って、え?
彼女の態度は俺の予想とは真逆で、目を伏せて悲しげな表情を浮かべていた。どういうことなんだろう。
そのままじっと彼女の顔見続けていると、ふと、頭の中で颯爽と数々の思い出が過っていった。彼女と出会ったあの日あの時あの場所。カフェテリアの窓際のカウンターで一人UDONをつるりとすすった彼女があまりにも魅力的で、一緒にいたディラン達をほったらかしにしてまで声をかけた。「隣いいかい?」彼女の第一声はこうだった。「あなた味覚音痴?」彼女はハンバーガーとポテトとコーラを毛嫌いしていたようだった。その時は少し頭にきたけれど、無理矢理約束を取り付けて二人で行ったバーガーショップでは、散々文句を垂れてからその店一番と評判のハンバーガーを一口食べると、彼女は「まあ悪くないじゃない」と言った。俺はあの時込み上げた嬉しさと彼女がうっすら口元に浮かべた笑みを今でも鮮明に覚えている。
それから、だんだん彼女の人柄もわかってきて、俺は、彼女を愛せる奴は俺しかいないと勝手に思うようになっていた。だってあんまりにもへそ曲がりだったものから、彼女を好きになる変わり者なんてのは俺で最初で最後だって思ったんだ。そのまま何度かデートを繰り返す内にその想いはどんどん募っていき、とうとう俺は出会った時と同じカフェテリアのあの端の席で告白をした。「君が、名前が好きだ」すると彼女は平気な顔して「そんなのとっくのとうに知ってるわ」と言い紅茶のカップに口をつけた。その時の俺はただただ不安でしょうがなかった。自分が絶対フラれると思っていたから。目をつぶってこっそり神頼みをしていると聞こえてきたのは彼女の囁くような声だった。「私もマークが好き」その日から薔薇色の日々が始まると俺は思った。そんな安易な自分の考えとは裏腹に彼女とは付き合い始めてからも今まであんまり恋人らしい行為はしなかった。それでも彼女といると人生が色を変えたというのは、ぴったりの表現と言えた。
そうだ。俺は彼女といるだけ、それだけでいいんだ。

俺はそう思うと将来の事が頭に甘く浮かんできた。それはもちろん彼女と一緒に暮らしているという映像だった。今でもこうして俺の家に泊まりには来るけれど、やっぱり一緒に同じ家に住むという事とは全然違う。早く大人になりたい。

話が大きく反れた。惚気はいい加減にこれにて終了。俺は彼女に答えを告げるため揺らめく椅子から立ち上がった。


「わかったの?」
「ああ」


彼女の瞳の奥には少しばかりの不安の色が見え隠れしていた。いつもの高圧的な態度からは想像出来ない。もしかすると、彼女は俺の考えと自分の考えがちゃんと一致するのか心配なのかもしれない。彼女はそういうのを口に出さないのはもちろんの事、好意的な仕草を見せる事もあの告白した日を除いて一度たりともなかったが、目も耳も使わないどこかで必ず繋がっていると俺は信じている。
俺は彼女の足元に跪いた。そして彼女の背中と背もたれの間にするりと腕を滑り込ませて彼女を初めて抱きしめた。一瞬だけ目を見開いた彼女がとても新鮮だった。


「こうして君を抱きしめていると自然と耳が君の胸の辺りにくるんだ」


とくんとくんとくん、と彼女の心臓の音を聞いたのは言うまでもないが初めてだった。だんだんその鼓動が速まっていくのを俺は感じていた。


「君の心臓の音を死へのカウントダウンとして聞きながら死んでいく……ってのは?」


そう言って俺は彼女の顔を覗き込んだ。不安はなかった。俺は内に秘められた自信が溢れでているのを感じながら、ずっと彼女の目を見つめた。するとフッと優しく彼女が目を細めたのを俺は然と見た。


「正解よ」


静かに弾んだ声で言った後、彼女は椅子から俺の胸に飛び込んできた。俺と彼女はカーペットの上に倒れ込んだ。ばくんばくんばくん、と鳴り続ける俺の胸に彼女は耳を当てた。


「私もこうやって死んでいけたら幸せよ」
「願わくは二人でね」
「ううん、絶対、二人よ」
「そうだな」


俺が笑えば彼女も笑う。彼女が笑えば俺も笑う。俺達の仲で何かが変わったみたいだ。ひとつ壁を取り払ったように。


「おばあちゃんになっても一緒にいてね」
「もちろんさ、俺もずっと名前と一緒にいたい」
「ありがとう、マーク」
「どういたしまして」


俺は彼女の背中に左手を伸ばし、右手で彼女の髪を優しく撫でた。この想いはずっと消え去りはしないだろう。愛してるよ、名前。
アップルパイなんて、もうどうでもいいや。何個でも名前にくれてやるさ。




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