「名前」
「名前」


お母さんとお兄ちゃんの声がする。
あれ、帰ってきてくれたの?
白っぽい何もないところに輪郭のぼやけたお母さんとお兄ちゃんがどこかしらから浮かび上がってきた。


「お母さん!お兄ちゃん!」


私は二人を抱き締めようとしたが、腕の中には感触も何も無くただ空を切っただけだった。
後ろを振り返ってみると、お母さんとお兄ちゃんはもういなかった。その代わり声が上の方から降ってきた。柔らかなお母さんの声。


「名前、よく聞くのよ、今から言う事はとても大事な事だから、」
「うん」
「あなたを信じてくれた人をあなたも信じなさい、そうすれば必ずわかりあえるわ」
「わかったよ、お母さん」


次に降ってきたのはお兄ちゃんの声。優しくてそれでいて力強い。


「いい子にしてるんだぞ、俺はいつもお前を見守っているからな」
「うん…!ありがとう…!」


そう言うともう何も言葉が降ってこなくなった。
そうなると絶望で頭がいっぱいになり視界が一気に黒一色になった。


「いやだ!もう一人にしないで…!」


どくん!と身体全体が揺れるくらいの心臓の音が大きく一鳴り。
もう一度光が入るとそこにはゴーグルをかけた変な人がいて、見知らぬ部屋のソファーに座っていた。びっくりして私はソファーから飛び起きようとしたら足が絡んでカーペットの敷かれた床に倒れこんだ。


「おい!大丈夫か!」


駆け寄ってきたゴーグルの人を見たら思い出した。私はこの人に助けてもらったんだった。なんでこの人がいてお母さんとお兄ちゃんはいないのか、ぶつけようもない悲しみに頭がぐちゃぐちゃになった。
ゴーグルの人はカップをテーブルに置き(紅茶が入っていた)私に手を差し伸べてきた。


「大丈夫です」
「ならいいんだが」


私はゴーグルの人の手を使わずに立ち上がった。心は淀んでいるけど、身体は軽い。暖かい部屋だからだろうか。なんとなく目線を床に落とすと足元に毛布が落ちていた。私がここに来た時には無かったはず…、私はそれを拾い上げた。


「もうそれ、いらないか?」
「あ、はい、ありがとうございました」


私はゴーグルの人に毛布を返した。彼は毛布をタンスの中にしまった。あれは彼が掛けてくれたんだろうか。


「これでも飲め」


今度はさっきの紅茶をくれた。私はソファーに腰を下ろして、一口飲むと甘さが広がって身体がぽかぽかした。


「口に合うか?」
「甘くて、おいしいです」


そういえばお兄ちゃんがたまに作ってくれた紅茶に似てる。砂糖を多めにしてくれて美味しかったなぁ。喉の奥の方がツンとした感覚にやられたのでまた一口飲んでそれを消した。これを飲んだらここを出よう。そう思っていると突然こう切り出された。


「お前、名前はなんていうんだ?」


私は迷いつつも一応答えた。


「名字名前、です」
「俺は、鬼道有人だ」


きどうゆうと、ゴーグルの人はきどうゆうとという名前だった。なんだがかっこいい響きだと私はなんとなく思ってしまった。


「歳はいくつだ?」
「十四です」
「…俺と同じだ」


なんだろう、この尋問は。


「じゃあ、名前」


いきなり名前を呼ばれ、私は少しビクッと肩を震わせた。きどうさんは私の前に立ちしっかりと私を見据えた。


「重要な事だからちゃんと聞いてくれ」
「はい……?」
「今日からここに住まないか?」


その言葉の意味を理解するまで結構な時間を要した。しかし、理解しても驚きのあまり返す言葉が見つからず黙りこくってしまった。すると、またきどうさんが「お前には帰るところが無い、見つかるまでここにいないか」と畳み掛けた。そこでやっと私の脳が機能し始める。


「いや!迷惑ですし、これ飲んだら出ていくつもりなので…本当にありがとうございました」


頭がぐちゃぐちゃにこんがらがっている私なりに自分の思いを伝えた。


「お前はここを出ていったらどこに行くんだ」
「………」
「また自殺なんてしようものなら俺は心配で堪らない」


なんでこの人はこんなにも優しいのか、なんで見知らぬ私にこんなにも優しくしてくれるのか。それで私はなんだか駄目になりそうだった。早くここを抜け出そうと思い残りの紅茶を飲み干して走って扉に向かった。


「待て!」


きどうさんが私の腕を掴む。


「離してください!」
「お前は独りで生きられるのか」
「なんとかなります!」
「なんとかって……、女一人じゃ危ないぞ」
「いいんです!それに、あなたのお世話になる気はこれっぽっちも無いんです!」
「そうか……」


語意を強めて言うときどうさんは諦めたのか、私の腕から手を離した。


「紅茶ごちそうさまでした、さようなら」


私がドアを開けてまさに出るという時、後ろできどうさんがどこか悲しそうに「独りは辛いぞ」と呟くように言った。そんなことを言われても今の私にはなにも届かないのだ。
私は迷いそうになりつつも玄関にたどり着き、一応「お邪魔しました」と言い、お屋敷を後にした。



それから私は真っ先に河川敷に向かった。やっぱり分かり切ったことだったけど帰るところは私にはないのだ。
世間では日曜日の、多分お昼前くらいだろう。家族で遊園地とか行く人もいるんだろうな。また目頭が熱くなる。
私は橋から爽やかに流れていく河川を見た。今はここから飛び降りて、どこか神聖な雰囲気のある透明な川を鮮血で染める気にはなれなかった。
どれもこれもあの、きどうさんの所為だ。私は橋から坂を下りて川の目の前に体育座りした。
少し離れた場所にサッカーコートがあって、そこでは子供達が仲良くサッカーをしている。元気な声が私にも届いてくる。
すると、肩になにかが当たった。
サッカーボールだった。


「お姉ちゃーん!そのボールこっちに蹴ってー!」


二つ結びの小さな女の子が私に向かって叫んでいる。私は立ち上がってサッカーボールを蹴った。本当に久しぶり(お兄ちゃんと遊んでいた頃以来)に蹴ってみたが、意外と上手く軌道に乗りサッカーコートの中央にそれは落ちた。


「お姉ちゃんありがとう!」


私はまた体育座りをして膝に突っ伏した。するとまた肩に感触がした。またか……、と思いつつ顔を上げると今度は赤いバンダナをした少年がとびきりの笑顔でこう言ってきた。


「ちょうど一人足りないんだ!君もサッカーやろうぜ!」








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