「なあ、鬼道くん、名前ちゃんのことだけどよぉ」


もう寝ようと寝室に行こうと思い部屋を出ようとしたら、ソファーに寝そべって真っ黒なスウェットを着ている不動にそう切り出された。その時俺は少なからず驚いた。今日一日(というより半日)過ごしていて、名前のことは特に何も訊かれなかったからだ。ただ単に寝泊まりのためだけに何日かここにいると思っていた。つまり、てっきり不動は全く名前のことなんて気にしていないと思っていたのだ。ファースト・インプレッションの名前と不動が頭を過る。いや、あれは名前が怯えていただけだ、と自分に言い聞かせても不安は消えなかった。
不安。俺は一体何に対しての不安を感じているのだろう。突然、そんな疑問が浮かび上がる。不動の名前を気にかけるその一言であの時の光景を思い出し、どんよりとした仄暗い不安感が胸に募ったのだった。それは、もう一人の家族、もう一人の妹として名前の身を案じてのことだと思う。
しかし別の何かが俺の中にあるような、そんな気がして俺の頬は熱を帯びた。何を考えているんだ、俺は。顔を横に振ってそこで思考を止めた。かき上げた髪はまだ湿っていた。
振り向いた俺は一人掛けのソファーに腰かけた。不動が目線を俺に向けて、さっと上体を起こした。


「なんでお前ん家に居候してるわけ?」


問題はその一言に全て詰まっていた。俺は暫し言葉を失う。佐久間と源田に話をした時のように言えばいいのだが、不動の短い眉がひそめられた。「一体何があったんだよ」そう言い不動は目を伏せた。


「ワケアリなような気がして聞けなくてよ」


不動の鋭い洞察力には俺も一目置いているので、流石の明察である。その通り、入りくんだ事情が大有りだ。
俺がどう答えるべきかと悩んでいるうち、不動が半笑いになって言った。


「第一理由もなく鬼道くん家に女が居候とかするはずないもんなあ」
「余計なことを言うな」


下品に笑う不動にある種の懐かしさを感じたが、やはりむかつくことはむかつくので眉間に皺がよる。しかし、不動の次の一言で俺の表情筋は一気に弛むこととなった。


「許嫁でもないかぎり」


そんな俺の表情を見抜いて、不動はニヤニヤと笑った。そして「え?なになに?鬼道くん、名前ちゃんのこと好きなの?え?」と俺の顔を除き込んでくる。やめろ、と睨みつけると、「ウワー鬼道くんの目マジコワーイ!」と茶化し、それから不動はまた実に腹の立つ含み笑いをした。


「ふーん」


その不敵な笑みに直感的に嫌な感じを覚えたが、その時の俺はあまり気に留めなかった。


「で、本題に戻すが、本当のところどうなんだよ、なんでお前ん家に名前ちゃんが住んでんだ?」


お前が脱線させたんだろうと心の中で突っ込みを入れる俺だったが、返答には困った。源田や佐久間には言ったものの、やはり俺の口から言ってはいいものかと躊躇う。
だが、考えてみると不動も名前と同じような境遇に置かれていたのだ。もしかすると俺よりも名前の気持ちがわかるかもしれない。
俺は不動に名前の複雑な理由と俺と名前が出会った経緯を話す決心がついた。
俺が口を開こうとしたその時突然のドアノックが部屋に響いた。


「私から言います」


控えめな声が聞こえてきて、間もなく名前が部屋へと入ってきた。シャンプーのいい香りを連れて。名前はちょうど風呂上がりなのだろう、純白のシルクのパジャマに身を包んでいた。


「すいません、お二人の話聞こえちゃいました」


一体どこからどこまで聞こえたのか、ヒヤリとしたが俺はなんとか平生を保った。


「まあ、ここ座れよ」


立ち尽くしていた名前に不動が声をかけると、名前はまごつきながらも不動の隣に腰かけた。
俺はそれに少しばかりの嫌悪感を覚えたが、今は気にしないようにと努めた。
それから暫しの沈黙があった。それを静かに、名前は破った。


「私の家族は今バラバラなんです」


その一言から、語られた名前の何度聞いても辛くなる悲惨な半生。それは俺との邂逅で幕をとじた。
伏せられた目蓋から長く垂れた睫毛が濡れているような気がした。
名前の口から出る言葉には体験者にしか表現し得ないところがあった。生々しささえ感じさせるものだった。
だから名前の頭の中で辛い記憶が鮮明に思い出されていることだろう。それがどんなに苦しいことか。
俺にはわかる。不動にもわかるだろう。未だ乗り越えられぬ過去の悲しみを。
ふと、名前は目線を上げた。その瞳には涙は見えないものの、儚げな、頼りないハリボテの剣士のような瞳だった。
俺はそれになぜだか目を奪われてしまっていると、不動が口を開いた。


「なぁんだ、俺と同じような感じじゃねぇか。もっとも俺は川に飛び込むんじゃなくて、非行に走ったがな」


汚い笑いを漏らしながら言う不動に、俺は失望を感じた。名前も、カッと顔を赤くした。


「私は・・・・・・!私は・・・・・・!」
「私は、なんだよ」


キッと名前を睨む不動に、俺はとうとう許せなくなって怒鳴りつけた。


「不動!!」
「鬼道くんは黙ってろ」


静かに言い伏せられて、それに俺は不動には何か、単に名前を貶しているわけではなく、別に考えがあるのかもしれないと思った。責められる名前を放っておくのは心を痛めたが、俺は黙っていることにした。
すると、名前は大声で叫んだ。


「私の家族を取り戻したいよ!!」


真に迫るものがあって、心臓が揺れた。それから深く俯いて小さく「お父さんのばか」という声が聞こえた。その言葉からは、なぜだか心の奥底から響いてこない感じがした。
両膝の上で握られた名前の拳は震えていた。それに不動が手を重ねた時、俺は思わずあっと声を漏らした。名前も顔を上げた。
不動の目はいつになく真剣で、手をひっ掴もうとしても跳ね返されそうだった。
不動はそんな視線を名前に向けながら口を開いた。不動の凄惨な半生だ。語られる言葉は平たいものだったが、やはり体験者のリアルが感じられる。名前の表情には怒りはなく、眉がハの字に下がっていた。
不動は自らの過去を語った後、俺達と出会ったこと、俺達と戦ったこと、俺達と共に戦ったこと、俺達と共に優勝を遂げたことを語った。それから一呼吸をおいて、言葉を継いだ。


「腐りきった過去は変えようもねぇけど未来は自分次第でどうとでもなるんだぜ」


その不動の言葉で、名前の目には揺るぎない力が宿った気がした。希望を感じて輝いていた。俺の目もそうかもしれない。


「なんつって」


パッと手を名前の手から離して頭の後ろに回した。そうしてふんぞり返った不動に名前は「ありがとうございます!私頑張ります!」ときらきら踊る瞳を向けて言った。不動は眉間にシワを寄せながらも、頬の方は若干赤みを帯びているような気がした。
名前はくるりと俺の方に向き直って、笑いかけた。突然のことで、上手いこと表情筋を駆使できない俺だったが、元気そうな名前を見て自然と目は細められていた。
しばらくの間、他愛のない話が続いたかと思うと、ドアをノックされ、女中の声がドア越しに聞こえた。


「もうお休みになられたほうがよろしいのでは」


名前は飛び上がって部屋に戻り、俺はさっさと、不動はかったるそうに、寝室に向かった。







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