早朝のジョギングは気持ちのいい物だ、と雷門町を駆け抜けながらふと思う。 雷門大橋にさしかかる時、橋の中央辺りに人が一人立っている事に気が付いた。 俺はそこで立ち止まり首にかけていたタオルで額の汗を拭った。こんな時間に珍しい、と思っているといきなりそいつが手すりに足を掛けて立ち上がり手を離したものだから、俺は血の気が引くような感覚を覚え瞬間的に走り出した。
「おい!馬鹿な事はやめろ!」
俺は渾身の力を込めてそいつの胴に腕を回して思い切り引っ張った。すると簡単に橋からそいつを離す事ができ、勢い余って俺は尻餅を付いた。 俺の上にまた尻餅を付いたそいつは女だった。俺と同じくらいの背丈に見える。格好は言ってしまえばみすぼらしくだいぶ汚れていた。
「離して!私はもう生きてられないんだ!」
こいつは目から大粒の涙をぼろぼろと零しながら俺を睨み付けた後、腕から即座に離れてまた橋の柵に足を掛けた。俺は慌ててそいつを柵から降ろして羽交い締めにした。
「離せ、離せ!」
誰の目から見てもこいつは錯乱状態の中にいて暴れに暴れた。幸いな事に、こいつにはそれほどの力も無ければ腕もすぐに折れてしまうんじゃないかと思うくらい細かったから、俺は何のダメージも無かった。こいつもそれがわかったようで次第に暴れるのを止めた。すると今度は子供のように声を出して泣き始めた。
「なんで離してくれないのー!」
わんわん泣くこいつに俺はたじろぐばかりだった。どうするべきか……。俺は春奈が昔こんなふうな状態になった時は落ち着くまで背中を優しく撫で続けた事を思い出した。といっても羽交い締めにしているわけだから両手はふさがっているし、こいつも見知らぬ奴に背中を撫でられるなんて嫌だろうからそれは実行しなかった。 ところで、こいつはどういうつもりで橋から飛び降りようとしていたんだろうか。理由はどうあれ、自ら命を絶つなどしてはならない事だ。まあ、大方、家出少女だろう。初対面の奴にとやかく何故こんな事をとか、命がどうとか、そんな説教をしてもまた怒りの片鱗に触れ興奮状態にするだけだろうから、とりあえず泣いて頭をすっきりさせた後こいつを家まで送ってやろうと思った。 また少し時間が経つとわんわん泣く声が鼻をすする声に変わった。どうやら大分落ち着いたようだ。俺は試しにこいつの体から手を離した。するとまた橋から飛び降りようとする様子はなく、嗚咽しながら涙を手で拭いていた。俺はこいつの正面に立ち初めて顔を見る事が出来た。しかし、中途半端に伸びた髪と長い前髪のせいで俯いたこいつの正面からもサイドからも口元辺りしか見えなかった。唇が紫色に染まっている。相当体温が下がっているのだろう。俺は早く家に帰らせねばと思った。
「家まで送る」 「家、無い」
帰ってきた言葉はそんな理解し難いもので、俺は驚愕し思わず「は?」という声が大音量で洩れた。すると目の前のそいつは大きく肩を振るわせた。驚いたからか、顔を上げたそいつは驚いているというより怯えていた。大きな黒目がちな目にまだあったのかと思う涙を溜め眉をハの字にしていたのだ。俺はそれにまたわんわん泣かれるのかと尻込みし、ひとまず「すまん」と言い「意味がよくわからないんだが」と付け加えた。
「だから、家が無い」
家が無い、と俺は頭の中で言葉を反芻した。えー、それって、つまり……
「帰るところがないって事か?」
決まり悪そうにそいつは小さく頷いた。俺は信じられなかった。俺と同じくらいの女に帰る家が無いという事を。とてつもないショックを受け、俺は俯いた目の前のそいつを見たまま呆然とその場に立ち尽くした。長い長い沈黙を破ってそいつは言った。
「やっぱり死んだ方がよかったんだよ」
か細いか細い声だった。そいつの瞳には光が無く、すべてを拒絶しているかのようだった。どういった理由があれ、"死゙では解決してはならない、゙死゙は何も生まない、ただ消えてなくなるだけなんだ。そして悲しむ人がこの世に残される。 その時、俺は燃え上がるような気持ちに取りつかれた。上手くは言えないが、こいつをどうにか助けてやりたい。 そう思ったら手が勝手にそいつの手首を掴んでいて家に向かって走り出していた。
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