だいぶ落ち着いてきたのだろう。俺を呼ぶ声が嗚咽で途切れる事もなくなっていた。背中を撫でるのももういいだろうか。
最後に頭にポンと手を置いた。


「きどうさん?」
「疲れたろ、もう寝ろ」


名前は小さく頷くと、俺から離れて(俺の腹部が涙で少し濡れていた)寝床に着いた。


「じゃ、おやすみな」
「お、おやすみなさい」


俺は軽く名前に手を振り、ベッドから腰を上げ名前に背を向けた。
俺の気持ちは名前に届いたのだ。それが嬉しくてしょうがない。安堵にも似たそれのせいで俺の頬が緩んだ。名前に見られる事もないから制限無しに笑った。
それから前に一歩踏み出すと、後ろからぐい、と引っ張られた。俺とした事が、びくっと肩を震わせてしまった。口元を正してから振り向くと、上半身を起こした名前が俺の黒い無地のパジャマの裾を掴んでいたのだ。俺はその光景に目を見張った。


「ど、どうした?」
「あっ、あの……」


名前は何か言おうとしているが、決して俺と目を合わそうとはしない。しかし、名前の手はきゅっと俺のパジャマの裾を掴んだままだ。
ふと、そっぽ向いた名前の頬がほんのり赤いのに気付く。俺がそれに心を奪われたように見惚れていると、名前が衝撃的な一言を口にした。


「い、一緒に、寝てくれませんか」
「え」


思考が停止した。耳を疑った。名前は一体何を言っているんだ……?


「あ、あの聞こえませんでした?一緒に寝」「大丈夫だ、聞こえてる」


一緒に寝よう、と確と耳に入れはしたが。


「どどどどうしていいいいいいっしょに、ね、ね、寝るなんて…」


いかんせん頭がついていかない。何がどうして、俺と名前が一緒に寝るんだ。頭が真っ白になった。


「あ……、寂しい、から……」


名前は俺のパジャマの裾を掴むのをやめて、代わりに布団を抱き寄せた。儚げに目を伏せている。

それを見た時、昔の春奈との記憶がフラッシュバックした──。

ひとつの布団に俺達兄妹はふたり寄り添いながら寝ていた。隣で目を赤く腫らした春奈の背中を俺は撫でる。


「お兄ちゃん、私さみしいよ、ひとりはいやだよ」
「大丈夫だ、春奈、俺がついているから」


俺は春奈の小さな手を両手で握りしめる。春奈の手は俺の手にすべて収まっていた。


「必ず、春奈を迎えにいく」
「ありがとう、お兄ちゃん」


俺達はふたり手をとり合って眠りについた──。



これは、春奈と別れる前の最後の夜の記憶だった。
俺の心はぐらついた。
それから、名前に兄がいた事を思い出した。
名前のお兄さんもこういう心境だったのだろうか。

さらに俺は葛藤した。

だが、俺は自らの言葉を思い出して決意を固めた。
──お兄ちゃんだと思ってくれて構わない──

それからは体が勝手に動いていた。


「きどうさん……!」
「……電気消すぞ」


男に二言は無い。
だがな……、一つ言っていいか。
俺と名前は同い年の異性同士であって、今日会ったばかりなのだ。
今こうして、名前と一緒にベッドに入るが心臓が早鐘のように鳴っている。耳が熱い。

だからだな……。
死ぬほど恥ずかしいに決まってるだろ!

しかも、いくらか大きめのベッドだが所詮はシングルベッド、二人で入ってしまえば自然とその距離を縮ませなければならない。簡潔に述べれば顔が近いのだ。それでも背を向けずに名前と向き合って寝る俺を自分で褒めてやりたい。
幸い明かりを消したおかげで俺の顔は見えないので、名前にとってはいい兄代わりになっている事を願うばかりだ。
そうでないとあまりに俺が報われない。
ゴーグルも泳ぎまくりの視線を隠してくれている。
こいつは俺の相棒だ。


「きどうさん」
「な、なんだ」
「ゴーグル、はずさないんですか?」


言ったそばからこれか。
適当に言葉を濁すが、名前は諦めなかった。


「私きどうさんの目、見たいです」


暗闇に目が慣れた俺は名前のまっすぐな目を捉えた。名前にも俺が見えているかもしれない。そう思うと、これはもう腹を括るしかなかった。自棄になって俺は乱暴にゴーグルを剥ぎ取って枕元に置いた。ついでに髪も下ろした。ゴムは腕に通して垂れた前髪を掻き上げて耳にかけた。
ぼふ、と音を立てて少し上げていた頭を枕に落とす。
妙に込み上げてくる羞恥心にとうとう耐えられなくなった俺は名前と向き合えずに、天井を見つめた。

隣から、熱い視線を感じる。


「わぁ……」


まるでこの鬼道家の屋敷を初めて目の当たりにした時のような感嘆の声を洩らした名前は興奮気味に続けた。


「きどうさんの目、綺麗ですね!すごく!」


この目を晒したのは久しぶりだ。それに、褒められたのは初めてかもしれない(大体怖いとかきついとか言われて怯えられる)。ありがとうの一言でも言いたかったのだが、気恥ずかしくて口がぱくつくだけだった。


「私のお兄ちゃんにちょっとだけ似てる……」
「そ、そうか……」
「雰囲気が」


それは喜んでいいのかよくわからなかったが、名前の寂しさが紛れるのなら俺は嬉しかった。


「明るいところでまた見たいです!」
「また明日な」


それから束の間の静寂が流れた。もう寝たのか、と俺は思い名前の方に顔を傾けると意外にも名前は目を開けていてそれと視線が交わった。


「まだ起きてたのか……」


名前はこくりと頷いて俺を呼んだ。


「……きどうさん」
「なんだ」
「手を貸してくれませんか」


よく考えもせずに俺は名前目の前に無造作に半開きな掌を置いた。するとまた名前からの要望。


「手、にぎってもいいですか」


不意に心臓が跳ねた。
それを隠すように、ああ、とだけ短く返すと名前の両手が俺の左手に飛んできた。温かい手だった。


「よくお兄ちゃんとこうして寝てたんです」
「奇遇だな、俺も妹と手を繋ぎながら寝ていた」


今度はうまく言葉になってくれた。名前も俺も、兄妹とふたりで辛い過去を乗り越えてきたんだと実感した。それは、俺達にとって精神的な柱になっているんだ。今日から名前の本当の家族が見つかるまで、俺をその柱にしてしがみついてほしいと切に願う。
俺はそんな想いで名前の手を握り返した。
名前もそれに応えてくれる。


「これで安心して眠れます、ありがとうございます、きどうさん」


視界の端で笑顔の名前が見えた。俺もつられて口元が緩んだ。


「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」


名前が瞼を閉じるのを見た後、俺も目を瞑った。
今までの人生の中で一番濃い一日だったかもしれない。
一日でいろんな事がありすぎた。
俺はひとり思案を募らせた。

未だ俺が眠りにつかないまま、いつしか隣からは規則的な寝息が聞こえるようになった。名前は寝たか、と思って安心していると体にどさりと何かが乗っかってきたような感触がした。
何故か暖かい。

ぱち、と目を開けて飛び込んできたのは名前の黒髪で。

えええええええええええええええ!

心の中で自分の断末魔が聞こえた。
名前は俺の肩口に顔を埋めて、俺の上に乗っかっていたのだった……!
落ち着け、俺は鬼道家の人間、いついかなる時も冷静に問題を対処するんだ!
俺はそっと体を横にして、名前をさりげなく元の位置に帰そうとした。

よし、これで名前が寝返りを打ってくれれば……。
しかし、俺は甘かった。

背中に回ってきた両腕と、絡み合う脚。
名前に抱き締められたのだ。
もう俺になす術はない。

名前の髪から香る俺とよく似た匂いはきっとシャンプーのせい。
あのシャンプーは匂いが髪によく残る。
でも名前の髪の香りは俺よりずっといい匂いだと感じる。

そう思うと、また心臓の音が加速した。その音で名前が起きないか、と俺は変な心配をしたがそれは杞憂で終わることになる
(起きたら起きたで大変だ)。

結局、俺は数時間後名前が離れるまで眠れなかった。







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