時計の針は八時を少し過ぎたところを指している。今日はいろいろな事があって疲れているとは思うが、寝るには随分早いだろう。
やはり、名前は泣いていたんだと思う。ヒック、という廊下で聞いた音は嗚咽した音で、布団を顔まで掛けていたのは自分の顔を隠すため。きっとひどい泣き顔だったのだろう。 目を思い切り反らされたり、「居候の分際で」とか言われたり、泣き顔を隠されたり ああ、やっぱりまだ名前と俺の間には大きな隔たりがあるのだと俺は思う。 この壁のように。 俺はそれにもたれかかった。 すると、また小さく嗚咽の音が耳に入ってきた。 胸を痛くさせる音だ。
しかしもっと胸が痛いのは名前ではないのか? その考えに及ぶと、俺は壁から背中を離した。
俺がうなだれていてどうする! 誰が名前を助けると決めた!
俺は拳をグッと握って、部屋を飛び出しノックもしないで名前の部屋に入った。名前は布団に包まり、枕に顔を半分埋めて声を押し殺しながら泣いていた。その光景を目にした時、先程感じたのとは比べ物にならないくらい、胸の奥に何かが刺さるようなひどい痛みを感じた。 名前が俺に気づいたようで、視線をこちらに向けた。
「き、きど、うさん?」 「勝手に入ってすまん」
ずかずかと名前が横になっているベッドの方に歩み寄ると、名前は布団に潜り込んでまた顔を隠した。俺はそっとベッドに腰を下ろした。
「隠したって無駄だぞ」 「だ、だっ、て、心配、かけ、たくな、かったか、ら」
布団越しの籠もった涙声。たまらなくなって、俺は布団をバッと剥いだ。名前の泣き顔が露になる。俺と目が合うと、名前は急いで腕で顔を隠した。腕も肩も震えている。俺の腹の奥の方がキリリと痛んだ。腹を手で押さえて俺は名前を怯えさせないよう、なるべく優しい口調になって言った。
「どうして、泣いているんだ、もう名前が泣くようなことはないだろう」 「………、本、が、」 「本?」
俺は名前の枕元に置いてあった本に目を向けた。これは俺が名前に貸したものだ。この本はたしか、家出した娘を家族が探し出して絆を深めるという……、そこまで思い出して俺は自分のした失態に気がついた。なんて事をしたんだろう、と頭を抱えた。こんな本を読んだら、名前が家族を恋しく思うに決まっているじゃないか! それに、お父さんの事だって思い出すだろう。 そして自分の家族とこの本の家族を比較して、悲哀を感じてしまったんだ……。
「すまん、名前、全く本を確認せずに名前に……」 「ちが、うんです、きど、うさん、のせい、じゃ、あり、ません」
「私が勝手に選んだし」と付け加えながら必死に涙を拭うも、それは留まる事を知らないように容赦なく名前のパジャマの袖を濡らしていくばかりだった。嗚咽も止めれば止めようとするほど悪化しているように見えた。苦しみに悶えているようで、見るに堪えなくなる。しかし俺は何も出来ずにいた。
「この、家族が、羨まし、くて、こんな、ふうに、戻、りたくて」
名前の頬に涙が伝ったのが見えた。既にあった枕の水溜まりが濃くなっていく。
「だか、ら、きど、うさん、は、わる、くありま、せん」 「………」
どうにも涙の止まらない名前は壁際に寝返りをうって、とうとう俺に背を向けた。小刻みに震える小さな背中を見るといたたまれなくなった。依然として泣き止まない名前に何もしてやれない自分が情けなくなった。 本当に、俺は名前を慰める事さえできないのだろうか。 何も言えないまま、隔たりを残したまま、なのか。 そんなの、俺は嫌だ。
俺は、俺は名前を助けると決めたんだ! 俺は自分を奮い立たせて名前に心中を吐き出した。
「もっと俺を頼ってくれ」
ピクリと名前の肩が動いた。それは震えとは違うものだと俺は信じたい。俺は名前の淋しい背中に思いをぶつけた。
「名前はもう、家族だよ」
そう言うと、名前はゆっくりと腕を顔から離し、恐る恐るこちらに体を向けた。名前と目が合う。その目には涙と、いろんな感情が入り交じっているように見えた。俺の目に、名前は今何を見ているのかはわからない。だが、まっすぐ名前の目を見れば必ずこの気持ちは届くと俺は信じている。
「か、ぞく……?」 「そう、家族だ」
名前は枕に右目の端を押し付けるようにしていた。自分でも泣き止もうとしているんだろう。その目には少しばかり驚きが見え隠れしているようにも思う。俺は名前を落ち着かせるために頭を撫でた。 そして生唾を一度飲み込み、それから俺としては恥ずかしい言葉を口にした。
「だから……、俺をお兄ちゃんだと思ってくれても構わない」
数秒間の空白の時間。 名前は大きな瞳を見開いてまっすぐ俺を見つめていた。さっきより明らかになる驚きの色。名前はなんて答えるだろうか。 もし拒否されたら……。 そう思うと怖くなった俺はゴーグルの下の目を瞑った。 すると、名前の俺を呼ぶ声と共に小さいが力強い衝撃が俺の体に走った。 俺はそれに声を上げ瞬間的に目を開けると俺の胸に、名前の頭があった。 どういうことだ……?
「き、きどうさあああん!!」 「わっ」
簡単にいえば、俺の腰辺りに名前がしがみついていた。………、にわかに信じがたい。が、なんだか体が温かい。
「きど、うさ、ん!きっどっさん!」 「おおおおおちつけ名前」 「きどう、さん!きどーさん!」
俺は相当動揺していた。 相変わらず俺を呼び続ける名前。嗚咽はどうやら止まりつつあるようだった。俺はそれに安堵して、少しこの状況を受け入れる事が出来た。だから名前の頭を余裕ぶって撫でたりした。
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