マンツーマンでがんばりましょう
「そろそろ古羽さんにもきちんと字を覚えて貰いましょうか」
優しい表情の吉野先生に言われて、頷いた。
吉野先生は優しい表情をしているけれど、この表情の裏では仕事できない奴は殺すとか思っているのだろう。そうに違いない。
今までは時間がなく教えられなかったが、夏休みなので暇な先生がいるので教えてもらいなさいという事です。
吉野先生は事務の仕事が忙しく教えられないと言っていたので、吉野先生ではないけれど…
マンツーマンなのは確かだ。
どの先生なのかはわからないけれど、どの先生でも覚えられないといけない。そもそも事務の人間なのに字を書けない私が悪いのだ。
平仮名だけだとやっぱり駄目だったのね。でも漢字は書体が難しくて独学だとなんて書いてあるのかもわからないんだもの。
他の人に聞くのとか怖くて憶測で読み取ってなんとかやっていたけれど、字が書けないと書類なんて全く無理だものね。
それに平仮名も字がヘタクソ。吉野先生だから読み取れたのかも知れないけれど、他の人は読み取れなかったのかも知れない。ヘタ過ぎて。
ガラッと職員宿舎の空き部屋をあけて、中に置いてあった机の前に座った。
この部屋で待つように吉野先生に指定されているので、私に字を教えて下さる先生はこの部屋にくる。
私が部屋を間違えていなければの話だけれど、今空いている職員宿舎はこの部屋だけなのでここだというのは確実だ。
…ドキドキする。誰がくるのだろう。できれば優しい人が良いと思うが、優しくなくてもきちんと教えてくれる人がいい。
私の字の下手さや読めない具合に諦めて教えるのをやめてしまうかも知れないと一瞬頭の中を横切ったが、頭を振ってその考えを追いやった。
はぁ…とひとつ溜息をついて、空き部屋の中を見回した。最近は誰も入っていなかったらしく、埃がたまっている。
それぞれの部屋に掃除道具がある事は知っているので、一応ささっと掃除してしまう事にした。何もしないで待っているというのに心が折れそうだ。
だって恐怖心でいっぱいなのだもの。私が持っているのは筆一本だけ。炭も紙も持っていない。ちなみにこの筆はくの一教室で捨てられそうだったのをいただきました。
真ん中で真っ二つに折れているけれど問題ない。短くても書けるものは書けるのだ。
…このあいだ、この状態の筆を使っているのを二年の富松くんに見つかってちょっと直してもらったのでもう真っ二つではないけれど。あの子は器用だった。
返せるものが何もなかったので、給食の品を一品献上したら喜んでくれたのでよかったと思う。
これでも返せているか不安だけど、それ以上は無理なのだ。何もできない。
ちなみに入門表などを書いてもらう時の筆記用具は用具から借りているものなので私のものではない。だってあれ自腹だったら私飢え死んでる。炭買うお金なんてないもの。
ざっざと音を立てて部屋をホウキではいていると、トントンと肩に衝撃を感じた。
びくりと身体を震わせて振り向くと、職員の制服が見えた。
ああ掃除に夢中になって気がつかなかったのね。
けれど忍術学園の先生方は足音が皆無なので一般人の私が気付かないのは仕方がない。
けれど失礼な事をしてしまっただろうか気がつかないなんて。
ビクビクしながら顔をあげてどの先生が来たのか恐る恐る確かめると、小さい頃に見た顔がそこにはあった。
にこりと笑うさわやかな表情、若干困っているようにも見える。
幼い頃まわりのみんな、全員が憧れていた人だ。
「こんにちは。事務員の古羽さんですか?」
「ひ、あ、は…い。古羽伊代です…あ、あの…」
土井先生、ですか。なんて声を出したら死んでしまいそうな気がして口を噤んだ。
何故知っているのか。と問われても何も言えない。それに、私がこの世界に来てから土井先生は初めて見たから違う人かも知れなかった。
「あ、私教育実習生の土井半助と申します。夏休みが明けたら本職員になりますので、よろしくお願いします」
「土井先生…、よろしくお願いいたします」
穏やかな表情はテレビで見たものと全く変わらなくて、ああ、やっぱり土井先生だと感じた。
先ほど噤んだ言葉は軽く口から出てきて、恐怖心は何故だか消えていた。
「はは…先生なんて照れますね!まだ実習生で生徒を持っていませんから…いや、一応試験には受かっているので持った事はあるのですけれども」
「そ、そうですか…あ、えと…私部屋を散らかしてしまって…すぐに片付けますね」
照れ笑いを浮かべている先生にホッとしたのもつかの間で、部屋の中は掃除道具が散らかっていて見苦しかった。
けれど出したのはハタキとホウキくらいだったのでそれもすぐに片付けると、いつのまにか土井先生は座って紙を机の上に大量に乗っけていた。
慌てて向かいに座ると、土井先生は先ほどまでの柔らかい表情をなくして真面目な表情になっていた。
「古羽さんは字が書けないだけで読めますよね?」
「えと…だいたいは読める…と思います」
「そうですか、それは良かった!紙は持ってきたのでこれで練習しましょう。私が書いたとおりの書き順でやってみてください」
「…え?紙を使うのですか?」
さっと目の前に出された白い紙を見て、思わず眉間にしわが寄った。
練習で紙を使うなんて恐ろしい。私は今までチョマチョマと筆に水をつけて廃材の木の板(許可をもらっていただきました)で練習をしていた。
しょっぱなから紙に炭をつけるなんて恐ろしくてどうしようもない。だって私は何もできないただ飯食らい。
紙を無駄にするというのはお金を無駄にする事であって私には何も払えなくてこの真っ白い紙の経費はどこから出ているの私借金しても返せるあてないのよ!
あああどうしようどうしようこんな白い紙を私の汚い字で汚すとか考えられない!けど最終的にこの紙に綺麗に字を書けるようにならないと私はこの学園内で生存できる可能性はとても下がってしまう…駄目だ考えていて気持ち悪くなってきた。
「む、無理です…」
「そんなに顔を青白くしないで下さいよ!」
「で、でも私こんな紙を買うお金なんて全くありません…!」
「大丈夫ですって!一番安い紙ですから…ほら、筆持って、姿勢正して!はいッ書く!」
「ひぃ…」
土井先生がサラサラとゆっくり書いた字を見て、震える手でそのまま書き写す。
あああ、私これがうまく綺麗に書けないと死んでしまうのね。できる限りうまく書けるようにならないとああでも土井先生字がうますぎて無理無理でもこのくらいのレベルで字を書けるようにならないとやばい。
死ぬ。
ああ字がつぶれたやばい怒られるかも、真っ白い紙がどんどん無駄になっていく、炭がどんどん私の所為で無駄に…!もったいなさすぎて泣けてくる。
「…古羽さん漢字を書くの本当に初めてなんですか?」
「は、はい…ご、ごめんなさい!こんな、ああまたつぶれッ!!ひぃ…」
この時代に来てから漢字を書くのは初めて!なんて言うにも言えないし、殆ど授業でも書いたと言っても小学生の頃だったから昔過ぎる。
どんどんミスを繰り返して、つぶれてしまう字にパニックになっていく。
そんな私に、土井先生は特に何も言う事なく丁寧に字を教えてくれた。
「うん。今日はここまで!」
「は、はい…ありがとうございます」
真剣に書いていた所為か、手がものすごく疲れた。
ぷるぷると震える手になんとも言えない気分になりながら、筆の毛先を整えて後片付けをした。
墨汁が床に落ちていない事にホッとすると、土井先生にドサッと紙を渡される。
「え、えと?」
「ああ、紙を持っていないんですよね?古羽さんは勉強熱心だと吉野先生に聞いたものですから、復習するときにこの紙を使って下さい」
「え、ええ!?も、勿体無いですよ…私なんかに」
苦笑いを浮かべながら、土井先生はどっさりと私の腕の中にある紙の上に、本を一つ乗っけた。
重いと苦言を言うわけにもいかないので、首を傾げて土井先生を見た。
「仕事のためなんですから、きちんと覚えるためにも必要ですよ。これは手本の字…まぁ私の字なのでそこまで上手くはないのですが、これを見て練習してください」
両手がふさがっているためめくる事はできないけれど、じぃっと教本の表紙を見つめる。
崩し文字は読める読めないくらいでしか判断していないので、綺麗かどうかは正直わからないけれど、勝手な判断で土井先生の字は綺麗だと思った。
吉野先生が講師に土井先生を選んだのだ。その時点で私に土井先生のような字を書いて欲しいと思っているのに違いないので、綺麗なのだと思う。
そして、紙を使わなければ字は絶対うまくならないだろうというのも理解できるし、仕事のためと言われると、使わなければ私の首は飛ぶというのはすぐに理解できた。
こわい。こわすぎる。
遠回しに予習復習しなければ容赦しないと言われていると思える言葉に一瞬ぶるりと身体が震えたけれど、「ありがとうございます」と頭を下げるだけにした。
言って墓穴を掘る事はできるだけしたくないからだ。
「それじゃあまた明日。古羽さん、今日と同じ時間にここで勉強しましょう」
「はい。よろしくお願いします」
とりあえず必死こいて今日よりも確実に明日うまくなっていないと私の命はすり減るのだ。
これからある学園の掃除を終えたら即座に勉強を開始しよう。
ああ、でもお風呂沸かさないと…くのたまが居ない今日、沸かす意味があるのかと問われれば山本シナ先生や他諸々の女性の先生方にご迷惑をかけないためと自分少しはできる子なんですアピールをしておかないと好感度が下がって私は一瞬でお陀仏である。
そんなるのは嫌なので、今日は早めにお風呂を沸かして日が暮れる前に勉強をして、朝日が昇ってからすぐに勉強をしよう。
勉強時間が少なくて不安だけれど、私には部屋に火を灯す道具を買うお金もないのでお日様に頼るしかないのです。
私は何もできないただ飯食らい。
できるだけお金をかけないで暮らしていかないと死んでしまうのです。
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