ファウストの囁き モリアーティ邸の朝は早い。 屋敷の管理者である三男のルイス兄様は、誰よりも早く起きて身支度を調えて暖炉掃除をして火を起す。 紅茶好きなウィリアム兄様のために、寝室へモーニングティーを持っていく。 ルイス兄様が給仕をしている間に私も起きて自分の身支度を行い、ルイス兄様とサッと簡単な朝食の準備をする。 食事の準備を終えたら、ルイス兄様が配膳をしている内に他の兄達を呼びに階段を上がった。 中央階段を上がりきる前に左棟から長兄のアルバート兄様が顔を出し、軽く言葉を交わして反対の右棟へ向かう。 ノックをすると「どうぞ」と柔和な声が返され、扉を開けるとカーテンが開いた部屋でシャツのボタンを締めているウィリアム兄様と目があった。 黄金色の髪に、珍しい緋色の瞳。 白磁の肌と整った目鼻立ち。 私の兄は、今日も美しい。 「おはよう、アメリア」 「おはようございます、ウィリアム兄様」 片足を引いてメイド服のスカートの裾を持ち上げ、主人に対する礼をすると、少し呆れたような笑みを漏らしながらもジャケットの袖に腕を通して近付いてくる。 その首もとに、まだネクタイが結ばれていないことに気がついて顔を上げた。 「タイを結びましょうか?」 「じゃあ、椅子にかけた方が良いかい?」 「ええ、お願い」 いつもウィリアム兄様が愛用している赤色のネクタイを手に取り、優雅な所作でゆったりと椅子に腰掛けた兄様の前で極力息を潜めて立つ。 6フィート以上もある身の丈をしているウィリアム兄様の、あまり見ることがない登頂部を見つめながら華奢な首もとに手を伸ばす。 「……そんなに登頂部が薄い?」 「いえ!そんなことはっ」 「冗談だよ。あまり熱心に見てるものだから。つい、ね」 クスクスと笑っているウィリアム兄様のタイを少しキツめに締めると気安い声で謝られる。 「いつも屋敷に居てくれて、毎朝呼びに来てくれる日常が嬉しくてね。 ……ただ、僕の"リア"の美しい手が、水仕事で荒れてしまうのは少し悲しいけどね」 「うちには屋敷内の使用人が居ないのだから、こういうことは任せて。 嫁ぎ先の公爵が死んで没落した後、未亡人になった私を家に呼び戻してくれた兄様達には感謝しかないわ。 ウィリアム兄様たちは、自分たちの仕事をして欲しいもの」 「公爵がああいう方とは思わなかったからね。…残念だよ」 おいで、"リア"。 指を絡め取られ、手を引かれる。 明らかにさっきよりも質の変わった薄笑いを浮かべながら頬を撫でられ、背中がゾクゾクとした。 さっきまで虫も殺さなそうなくらいに清廉な青年の顔をしていたのに、紅色の瞳の奥に私でも分かるくらいに湿った色が宿る。 「二人の時は、何と呼ぶのだっけ?」 「………"ウィル"」 「良い子だ。……そういえば、挨拶がまだだったね」 犯罪卿モリアーティとしての裏の顔を覗かせながら、やんわりと有無を言わせない。 グッと繋がれた片手を引かれて体勢を崩すと、椅子に腰掛けたウィリアム兄様に覆い被さるような形になってしまい、吐息が耳にかかる。 「おはよう、"リア"」 「おはよう、"ウィル"」 囁くような声と共に頬に口付けが落とされ、此方も同じようにウィリアム兄様の滑らかな肌に唇を押し当てる。 引き寄せられ、そのまま緩く抱き締められてブラウンの髪を撫でつけられる。 幼い頃から、密かに続いていた二人だけのスキンシップ。 「誰にも言ってはいけませんよ。アルバート兄さんにも」と言い聞かせられながら続いた密事。 私が十代で一度嫁に貰われていった時、兄の一人とだけこのようなスキンシップを取るのは異常なのだと知ってからは、気恥ずかしさと罪悪感を感じている。 少しでも早く終わらせるために、同じように腕を回してウィリアム兄様を抱き締め、背中を軽くトントンとする。 すると此方を抱き締めているウィリアム兄様が細い腕を締め付けて、腕の中に閉じ込めるように深く抱き締められて、首筋に顔を埋められる。 唇を噛んで目をギュッと閉じ、荒くなってしまいそうな息を飲み込みながら必死に自分を落ち着かせる。 「………そろそろ行かないと。ルイス達を待たせてしまうね」 「はい」 ウィリアム兄様が飲んだモーニングティーのカップとポットをお盆に乗せて調理場に戻しては、メイドのエプロンを外してすぐに食堂に向かう。 家族が家にいるときは可能な限り全員で食事を。というのがモリアーティ家の方針でもあるため、私が戻らなければ兄達は食事に手をつけずに待たせて仕舞うことになる。 ルイス兄様お手製の美味しいオムレツを食べ、家族で穏やかな談笑をしながら食後の飲み物を配膳する。 不意にアルバート兄様が食堂にある大時計を見上げ、ため息のような声を吐いた。 「ウィル、今日も大学の講義なのだろう?そろそろ行かなければ、列車に間に合わなくなるよ」 「そうですね。……ルイス」 「はい。馬車の支度はしてあります。いつでも」 「ありがとう。じゃあ、行ってきます」 「そうだ、ウィル。ロンドンからダラムに通うのも大変だろう。 大学の傍に別邸を購入することも考えているから、もう少しだけ待って貰えるかい?」 「僕もそのうち提案しようと考えていました。この距離だとうっかり寝坊も出来ませんからね。それに、今度午前にある新一年生の授業も行う話も出ていましたし、助かります」 食事を終えたウィリアム兄様に合わせて席を立って馬車の方へいくルイス兄様。 サッと手を拭き、玄関先まで二人を見送りに行く。 帽子を被って革鞄を手にしているウィリアム兄様にステッキを差し出すと、にこやかな表情で「ありがとう」と言いながら受け取ってくれる。 「ウィリアム兄様、行ってらっしゃいませ」 「行ってくるよ」 「ルイス兄様も、お気を付けて」 「はい」 此方に背を向けて馬車入り口を開けようとルイスの視線が外れた瞬間、ウィリアム兄様の緋色の目が柔らかく細められて、頬を撫でられる。 「もう少し、家族皆との時間をとれるようにするよ」 「楽しみにしてますね」 「……二人の時間もね」 「……」 ルイス兄様に声をかけられ、馬車に乗って去って行く姿が見えなくなるまでその場で見送ると、ギュッと騒がしい心臓を静かにさせるように胸の前で手を握りしめて一息ついてから踵を返した。 「私が運ぼう。今日は朝からスケジュールが詰まっていたようだから」 「こうなってはしばらく起きませんからね」 「お帰りなさい、兄様たち」 ほぼ深夜の静まりかえった屋敷に帰ってきた兄様たちの声を頼りに、身の整えるようにネグリジェの上のガウンを羽織直して、蝋燭を手に玄関を押し開ける。 そこには、ルイス兄様とアルバート兄。そして、そのアルバート兄様に背負われているウィリアム兄様の姿があった。 金色に縁取られた瞼を閉じてアルバート兄様の背で微かに上下する身体は、声をかけても起きないくらいに深い眠りに落ちていた。 ウィリアム兄様の鞄やステッキなどを持ったルイス兄様から、書類が入った革鞄を受け取って両手でしっかり持って兄達の後ろを付いて歩く。 「駅でウィリアム兄さんを乗せて、宮殿へアルバート兄様を迎えに行っていた間に眠ってしまった様で…」 「授業を終えてダラムとロンドンを一日で往復するのは、なかなかのハードスケジュールだもの。 仕方ないです」 「早く物件を探してやりたいのだが……手っ取り早くホテルで過ごして貰おうにも、ダラムにはあまり質の良いホテルが無いからね。かといって、下手な所でウィルを下宿させると下心で近づいてくる者が居そうで心配だ…」 「潔癖なアルバート兄様のお眼鏡に叶う場所は、ダラムのような田舎では厳しそうね」 「ですね」 表のウィリアム兄様は天才的な数学者として一部の界隈では有名であり、裏では私立相談役として犯罪卿(クライムコンサルト)をしているから、常日頃から昼夜頭をフル回転させて何かを企んでいる。 その反動として、短時間だけれどかなり深い眠りが必要になる。 その間は、揺すっても叩いても起きることはない。 まあ、眠っているウィリアム兄様を叩こうモノなら、鬼の形相をしたルイス兄様が怒り狂うだろうから、叩いて起そうなんていう人間は居ないだろうが。 アルバート兄様の背中に背負われているウィリアム兄様の脇腹を、こっそり指で突くも全く反応が無い事に小さく忍び笑う。 二階のウィリアム兄様の寝室でアルバート兄様がそっとベッドに降ろし、ルイス兄様が靴を脱がせてその身体に毛布を掛ける。 「もう夜も遅い。あとは自分達でやるから、アメリアは先に寝ていなさい。 ウィルのことは、ルイスに任せていいかな」 「勿論です。僕は、馬車を厩舎に置いてきます」 「私は、取り敢えず湯を浴びてくるよ」 「はい。お休みなさい、兄様たち」 長兄たちがそれぞれのことをしに部屋を出て行くのを見送ると、革鞄を書斎に置いてきてからウィリアム兄様の寝室に戻って部屋の窓のカーテンを閉めて回る。 ベッドサイドの燭台の灯りを確認してから、ふとベッドで安らかに眠っているウィリアム兄様に目を向ける。 蝋燭の淡い光に照らされた顔は、いつも以上に青白くて、長い睫毛が目元に影を落としてる。 何かを含んだ薄笑いをしていなければ、ただただ美しい高貴な麗人にしか見えない。 安らかに眠っているウィリアム兄様を見つめ、サッと部屋の中を見渡して誰もいないことを確認する。 「ウィル?」と小さく声をかけるも、規則正しい吐息は変わらない。 ネグリジェの裾に手を添えながら膝を折り、息を潜めながらそっと美しい顔に唇を寄せる。 「……………」 眠っているウィリアム兄様の唇に唇を合わせ、少ししてから離す。 「おやすみなさい」と囁くような小さな声をかけ、部屋を後にする。 薄暗い屋敷の中を歩き、ウィリアム兄様の部屋の真上にある三階の自室までゆっくりと上がっていく。 ウィリアム兄様へ密かに懸念して、公爵との白い結婚を維持したのは私だ。 そして、戻されて一番喜んだのも。 昔から明らかに妹に向けられるものとは違う熱量を感じつつも、突き放すことも完全に受け入れる事もしない自分の狡さも自覚してはいる。 アルバート兄様とそっくりな髪色と瞳は、兄と違って女性としては汎用でパッとしない見た目だし、特別惹かれるものはない筈なのに。 そして……長兄のアルバート兄様は、ウィリアム兄様をどこか崇拝しているような気がある。 崇拝対象と役に立たない実妹、比較になるわけがない。 几帳面で潔癖な実兄のアルバート兄様に、私がウィリアム兄様に対して害があると思われてしまったら、間違いなく遠ざけられてしまうだろう。 犯罪卿として人々を救い、導く役目を背負っている人間を余計な色恋沙汰で惑わすわけにはいかないからだ。 せめてそれ以上踏み込まないことがケジメだと考えて、妹の立場を甘んじて利用している私はなんて卑しい人間なのだろうか。 「……ウィリアム……」 兄達がいるフロアと違って、燭台に一つも光が灯されていない暗い中を手探りで進んで部屋まで辿り着き、小さく声を漏らしてベッドの上に丸く縮こまって目を閉じた。 その時、下の階では赤い瞳がゆっくりと開き、じっと此方のいる天井を見つめている事は、知る由もなかった。 ×
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