第十一夜 7.5 「仕事が忙しくって、あんまり来れなくってごめんね、”紅覇”」 母親に向かって、自分の名前を呼びかける。 でもそれに向かって帰ってくる言葉はない。 昔、自分に優しく声をかけてくれた母親に出来る限り似せた声色と、丁寧な口調で言葉を紡ぐ。 赤子のように親指を口に咥え、変形してしまうくらいに爪を食んでいる母親。 その母親に膝枕をしながら、声をかけて髪の毛を優しく撫でる。 紅覇の母親は、紅覇が幼少の時に心を病んでしまったせいで、もう赤子のような行動しか取れなくなってしまった。 父親である紅徳は、そうなった母親と自分を見捨てるように後宮から追い出して人目の少ない屋敷の奥に隠すように追いやった。 まるで、見られることが恥だというような態度に嫌悪感しか湧かなかった。 母親を守らなければという想いと父親に対する憎しみ。 今だって正直、父親のことは許せない想いがある。 ……そんな僕を気に掛けてくれた炎兄や明兄が居なければ、今の僕は居なかっただろう。 だから、二人には感謝しかない。 今の僕が炎兄達のおかげで在るなら、二人に恩返しをするためにも懸命に働こうと思う。 明日は、その為の遠征だ。 母上の髪を撫でながら、言い聞かせるように穏やかな声で呼びかける。 「明日ね、ちょっとお出かけすることになったの。しばらくうちを空けるから、留守をお願いね」 「あーうー」 「なんだか、調子が良さそうね。嬉しいことでもあったの?」 「んん。しゃらーしゃーらーる!しゃらしゃらー」 「ん!?」 「きらきらー」 きゃっきゃと嬉しそうな声を上げて宙に手を伸ばす母上。今まで見られなかった行動を目にして首を傾げる。 そもそも、こうして毎日のように声をかけても反応を返してくることさえ稀なのに…。 「シャラールって、誰が……」 「にゃんにゃん〜」 「………」 (シャラール……と、猫……) その二つの関係性を考えた時、真っ先に頭の中に人物が浮かび上がり、一人で「……嗚呼、そう言う事」と納得の声を漏らす。 母上の部屋に来るちょっと前まで自分の頭の中を占めていたのだから、思いつくのは容易だった。 「もう……様子を見ていつか紹介するつもりだったのに…。あの子ったら」 ため息を漏らしながら、母上の頭を優しく撫でる。 ぐっと生唾を飲み込み、普段の自分の地声でゆっくりと母上に語りかける。 「……ねぇ、”母上”。僕ね、もう大人になって結婚してお嫁さんが出来たんだよ。 奥さんの内の一人がね、魔導士なんだ。 お転婆で、面白くって、目が離せなくって……」 思い出すように苦笑すると、穏やかな声色で優しい笑みを浮かべる。 いつものように、反応を返して貰えないかも知れない。 でも、今だけは「母親の母親役」ではなく「息子の紅覇」で居たかった。 「僕、あの子の事が好きなんだ。 だから守ってあげたいし、今度の戦から帰ってきたら……ちゃんと話をしようと思ってるし、改めて紹介するからね。 それまで、待ってて」 「しゃらー、しゃららー」 「……まあ、そう上手くいかないよね」 膝枕を止めて母上を寝台の上に横たえさせ、前髪をそっと撫でる。 すると宙に向けていた視線を此方に向け、「きゃっきゃ」と嬉しそうな声を上げながら無垢な顔で笑う。 その顔に穏やかに笑いかけて立ち上がる。 「まずは、このあと側室の方と会ってみないといけないから、もう戻るからね。 明日の朝も早いから、こっちには寄る時間ないと思うよ」 「あーうー」 「行って来ます、母上」 「ばいばー」 「うん、じゃあ行ってくるよ〜」 お休み、と小さく呟いて背を向け、半開きだった扉をしっかりと閉ざした。 2018/11/19 戻る ×
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