365 | ナノ




君の名の慟哭が世界を救う。
2012/03/12 03:56

こんばんは。
今日は京都と滋賀に行ってきました。
睡眠時間二時間とか、相変わらずなことやっているので結構疲れましたが、楽しかったです。

そんな今日は朝から京都に行って、まず北斎展を見に行ってきました。
北斎の本物の浮世絵をあんなに間近に見れて感激です!
あの独特な絵柄と表現は北斎なら出端感じですよね。
そして富士山の見える名所を描いた『冨嶽三十六景』は本当に素晴らしかったです!
富士と山々の景観の美しさと、人々の暮らしを叙情豊かに表現していて、誇張してあるにしてもきっととても美しい景色だったのだろうなと見ていて思います。
勿論今の富士も美しいですけれどもね。
でも現代では山が削られたりビルが建ったりとして、その殆どが絵とは形が変わってしまってはいるのがちょっと残念だったり。
でも現代は現代で、その時代によっての趣きがあるのかもしれません。
富士に思いを馳せるのは、いつの時代も変わらないのでしょうね。

そんな北斎。
絵が魅力的なのは当然ですが、それと同じくらいにそれを美しく表現する彫り師と刷り師の技術力が素晴らしいですね!
どうやったらあんなに絵をそのまま活かした、細かく美しい線を表現出来るんでしょう。
現代の彫り師さんでも首を捻ってしまうくらいに昔の人の彫りの技術力は高いようで、中々当時の繊細さを表現するのは現代では難しい浮世絵が多いようです。
それをあの時代は短時間で高技術で仕上げて、刷り師も絶妙な力加減と配色のセンスで手作業の印刷をこなして行く。
版画をずらさないようにしながら何枚も何枚も作り上げるんですよ、凄いです。
浮世絵は決して一人だけでは出来ない、素晴らしい技術と力を持った人たちの全てを兼ね備えて、初めて出来上がる素晴らしい作品なんでしょうね。
しかし、当時それが今の印刷技術と同じような評価で当たり前の存在であったから、海外の輸出用の商品の包み紙に浮世絵を使っていたと言うのは、なんと言う贅沢か・・・・。
まあ要は当時の浮世絵の貴重さは、新聞紙には言っている折り込みチラシに近いくらいの価値しかなかったんでしょうから、仕方ないのでしょうけどね。
でもその浮世絵の真価を、最初に見出して収集して現代に残したのが海外の人である、というのはちょっと皮肉のようにも感じました(汗
でもそれが時代なんでしょう。
いつの時代も、自国にあるものはそれが当たり前で、珍しくもなんともなくなってしまうわけですからね。
それは日本だけではなく、全国共通なのだときっと思います。

とまあ、意味も無く語ったわけですが、北斎と言ったら、『北斎漫画』も有名ですよね。
あれの現物をガラス越しとは言え見れたのは本当に凄いです!
拝見出来たのは見開き六ページ分くらいでしたが、どれも味のある絵で、すっごく魅力的でした。
文字は殆ど無いのに、絵が物語っているとでも言いますか、どれも生き生きしていてとっても面白かったです。
そして面白過ぎたが故に、最後のグッズ販売で文庫本サイズの北斎漫画三冊セットを買ってしまいました。
・・・・先日東京行って来て大出費しているのにね。
約五千円も出費してしまいました。
おばか(汗
それでも印刷の感じが現物に近くしてあったので、どうしても欲しかったんです!
だから懐が淋しくても後悔はしていない。
・・・・うん。

そんな北斎展に行った後は、お昼を挟んでから電車に乗って、滋賀へと。
滋賀と行っても、びわ湖ホールに行ったのでそんなに遠くないんですけどね。
今回見に行った演目はワーグナー作曲のオペラ『タンホイザー』ドレスデン版です。

タンホイザーについてここで補足的にざっとあらすじを説明しておきます。
『騎士で吟遊詩人のタンホイザーは、彼を待つ純潔の女性エリーザベトから離れ、歓楽の世界ヴェーヌスベルクで、女神ヴェーヌスとの愛欲に浸り続けていた。だがやがて彼はそれにも飽き、ヴェーヌスを振り切って地上の世界に戻る。
ヴァルトブルク城で彼は「遠い国への度から戻って来た」と語り、窮地の騎士・詩人たちやエリーザベトに温かく迎えられる。だが間もなく城内で開催された歌合戦の場で、吟遊詩人たちが精神主義的な愛のみを讃えているのに侮蔑の念を抑えきれなくなったタンホイザーは、ついに激昂のうちに、肉欲愛を讃える歌を歌ってしまった。
彼が禁断のヴェーヌスベルクに足を踏み入れたことを知った一同は激怒、彼を非難し、騎士たちは剣を閃かせて彼に迫る。しかしそれにも増して、彼に裏切られたエリーザベトの衝撃はいかばかりだったろう。彼女は絶望に沈むが、間もなく気を取り直し、タンホイザーへの許しを人々に乞う。彼女の必死の懇願に、人々もついに折れた。領主は彼に、許しを求めてローマへの巡礼に出るよう命ずるのであった。
だが、タンホイザーの懺悔の旅は空しかった。ローマ教皇の許しは出ず、彼は絶望に打ちひしがれ、自棄的になって帰国する。親友ヴォルフラム・フォン・エッシュンバッハにローマでの出来事を語り終えると、彼は再びヴェーヌスベルクに向かおうとする。必死に押し止めるヴォルフラム、不気味に近づく官能の世界の空気と、女神ヴェーヌスの甘美な声―――。
その時、彼を救ったのは、友ヴォルフラムが高らかに口にしたエリーザベトの名だった。彼女は、タンホイザーが救済を得られなかったのを知り、悲嘆のうちに生を終えたのである。今はタンホイザーも悔悟の念に満たされ、エリーザベトの棺にすがりつつ、そのあとを追う。
折しも、ローマから帰国した人々が、不思議にも緑の葉が生じた杖を携えていた。それは、「木の杖に二度と葉の生えぬごとく、汝タンホイザーの罪も許されることなし」と無常に宣言した教皇の言葉を否定する、神の恩寵が為した奇跡の表れなのであった・・・。』
* タンホイザーパンフレット一部抜粋

とまあ、タンホイザーはこんなお話。
当然素晴らしい演目でした。
でした、が・・・・第一幕、殆ど寝てました(死
流石に睡眠時間二時間は無謀でした、ごめんなさい。
もうホール内温かくって、薄暗くって、心地良い素晴らしい音楽が流れていて・・・と、正に寝るに最適な境遇にその状態で放り込まれたら、睡魔の誘惑に勝てませんでした・・・。
もう駄目じゃん、私。
本当、自分に呆れ返るばかりです・・・・。
でも隣にいた親も第一幕は寝ていたので、家族してどっちもどっちでした(汗
しかし休憩挟んだ二幕以降はちゃんと起きていましたよ!
途中何度か焦点ズレそうになって焦りましたけど、今度はちゃんと起きて舞台を見ました。

二幕目は歌合戦が見所なお話。
歌合戦のシーンは正に圧巻で、素晴らしかったです。
一幕の時に寝てしまったので、登場人物の性格を掴むのがここからと言う阿呆なことをやっていますが、それでも皆の性格がよく判る第二幕。
タンホイザーは良くも悪くも正直な男でした。
パンフレットには「ついうっかり肉欲愛を訴える歌を謳ってしまった」と描いてありますが、演目を見ている感じだとついうっかりという感じではありませんでした(汗
一人目の吟遊詩人が歌う歌を聴いて、二人目であるタンホイザーは初っ端から堂々とそれを歌ってるんですから。
三人目の吟遊詩人は友人ヴォルフラムで、彼は実は密かにエリーザベトに恋をしているのですが、それと同じくらい友人想いな男性です。
だから内心タンホイザーが帰って来たことを複雑に思いつつも、それでも友人が誤った道を進まぬよう正そうとする真心と、エリーザベトを大切に思う心から、それを正そうと真っ直ぐに歌います。
けれどもタンホイザーはすぐにそれを否定する歌を歌い、思い空しく届かない。
当然残りの吟遊詩人の二人にも同様に返します。
しかもただそれを否定するだけでなく、愛欲を知らない彼らの方が芯の愛を知らないのだと馬鹿にもして。
ものすっごく堂々としています。
これはどう考えてもついうっかりじゃない!(笑

そしてそんな堂々と歌っているのですから、恋人である純真な心を持つエイーザベトは大層傷つくわけです。
歌合戦を聞きに来た人たち皆に罵声を浴びさせられ、死して購わなければならないと言われるタンホイザー。
普通の女性がそれを聞いたら、まあ怒ったりとか、罵ったりとかしてもおかしくないわけなんですが、彼女は傷つきながらもそうはならない。
今にも殺されそうなタンホイザーを庇い、彼を殺さずに生きて罪を購うことを皆に願います。
皆はエリーザベトの真摯な訴えを無下に出来ようはずも無く、剣を下げ、彼がローマに行って罪を許してもらいに行くことを認めます。
そこでタンホイザーは漸く我に返る。
こんなにも自分を真っ直ぐに思ってくれる人がいるのに、自分は他の女性と、しかも精神的なものではなく肉体的な欲求を欲して傷つけてしまった。
彼はそれに気づいて罪の意識を漸く得ます。

この二幕を見ていて、周りが彼を責める気持ちは判ります。
判りますが、同時に彼らも少し異常だなと思ったりしました。
何故かと言うと、彼らは潔癖過ぎるからです。
精神的な愛は確かに崇高だと思うのですが、それが潔癖過ぎる。
潔癖過ぎて、どこか異常に映るんですよね。
肉体的欲求は、全て罪。
極端に言えば、触れることすらも許されないとでも言いたげなほどに。
タンホイザーが肉欲に溺れて堕落しているのは確かに頂けない。
エリーザベトという大切な人がいながら、その純真な気持ちを無下にしたわけですし、自分の行為が如何に彼女を傷つけるものなのか理解していなかったわけですからね。
だから彼の取った行動は悪いことであるし、その女神の誘惑に負けてしまった彼の弱さも責めたくなる。
けれどこれって、人間であれば誰でもあることだと思うんですよ。
彼の罪は許されるべきではないけれど、しかし精神愛のみを美徳とする彼ら王国も完全な善と肯定するべきなのかは少し迷います。

第三幕は、ローマからタンホイザーが帰って来るお話。
エリーザベトがタンホイザーを思ってヴォルフラムと共に待っている中、巡礼者たちが戻ってきます。
彼らは洗礼を受けて罪が許された者たちでしたが、その中にタンホイザーの姿はいくら探しても見つかりません。
それでエリーザベトはタンホイザーは罪を許されなかったことを悟り、絶望します。
そして嘆きながらも、彼女は自分が天に召しますからどうか彼をお許し下さいと願い歌いながら、その場を去って行く。
彼女が去って行く際に、ずっと黙っていたヴォルフラムが「どうか私に送らせてくれませんか」と声を掛けるのですが、エリーザベトは無言でそれを断わり、その場から退場します。
ヴォルフラムは彼女がもう死んでしまうことを判っているから、彼女のことを思っている彼はとても辛かったと思います。
彼には想いを打ち明けることも出来ず、また彼女を止める術を持たないし、彼女の助けになることも出来ない。
物凄く歯がゆくて、辛くて、哀しかったと思います。
だから彼女の去り際に述べた一言がすっごく切なくって、彼女に向けて歌った歌が物凄く哀しかった。

そうして彼女が姿を消してから暫くして、タンホイザーが現れます。
彼はエリーザベトを裏切ってしまった罪悪感と自分の邪な欲求を裁ち切るために、周りの巡礼者たちよりも辛い境遇に自ら曝し、ローマまで行って来たことをヴォルフラムに語ります。
しかしローマまで行って、皆が己の罪を懺悔して教皇に許されて行くのに対し、タンホイザーは許されませんでした。
それは彼が禁断のヴェーヌスベルクに足を踏み入れたことが理由。
ヴェーヌスベルクに足を踏み入れたものは、何人たりとも許されない。
だからタンホイザーは未来永劫許されること無く罪を背負って生きていかなくてはならない。
そう言われてショックを受けたタンホイザーは気絶してしまいます。
意識を取り戻すと遠くから許された巡礼者たちの祝福の歌が響き、それが一人広場に残されたタンホイザーを絶望に導くのと同時に、彼らが偽りの許しを賛美していることに吐き気を覚え、その場から逃げ出しました。
そうして絶望の淵に立たされたタンホイザーは、自分を救ってくれるのはヴェーヌスベルクしか無いと思い、ヴェーヌスベルクの地を探して彷徨い始めます。
その末に行き着いたのが、ヴァルトブルク。
そしてヴォルフラムに出くわしたわけです。

全てを語り終えたタンホイザーは、気違いのようにヴェーヌスベルクを探し求めます。
それをどうにか止めて正気に戻ってもらおうと、ヴォルフラムは一生懸命説得をしますが、相手は全く聞く耳を持ってくれません。
そうしている内に、淀んだ空気がその場に流れ始め、タンホイザーはヴェーヌスの気配を感じ取ります。
当然タンホイザーはそれに歓喜。
もはや狂気のように喜ぶタンホイザーの前に、求めた女神ヴェーヌスが現れます。
女神ヴェーヌスはタンホイザーを妖艶に笑って自分の元へと来るよう誘い、タンホイザーは今にも駆け寄り享楽に耽りたいとヴェーヌスを求めますが、ヴォルフラムがそれを一生懸命止めます。
けれどもやはりタンホイザーは聞く耳を持たない。
もうこのままでは彼は女神の元へと堕ちてしまう―――その際に、ヴォルフラムはエリーザベトの名を叫びました。

その名を聞いた瞬間、タンホイザーははっと我に返る。
今までの気違いが嘘のように冷静になり、落ち着きを取り戻します。
そして死者を哀しむ者たちが目の前にやって来て、エリーザベトの亡骸を見せる。
タンホイザーはそこで初めてエリーザベトを失ったことに気づいて、嘆き哀しみます。
そこでもう、タンホイザーにはヴェーヌスへの未練は裁ち切られ、女神ヴェーヌスは彼を手に入れられなかったことを悔しがりながらもその場から姿を消しました。
そうしてエリーザベトを弔いながら、決して芽が生えることのない枝から芽が生えたことの奇跡を目にし、タンホイザーは神が自分の罪を許し、彼女の元へと連れて行ってくれることを悟り、その枝に手を触れて命を失いました。
そうして歌が響き、幕は閉じます。

もうこの劇の終盤、私涙がガラにも無く止まらなくって困りました(汗
あのヴォルフラムの「エリーザベト!」の一声にもうやられた。
彼が一番色々なものを抱えていて、その感情が全部あの一言に込めてあるだと思ったら、もう涙が止まらなくって。
だって彼はエリーザベトを愛していて、想っていて、大事にしていて、そして死に際も見ているじゃないですか。
あんなにも一心にタンホイザーのことを想って、死すらも彼が救われることを願っていたエリーザベトを知っているから、タンホイザーがヴェーヌスに堕ちようとしているのが許せないのと同時に物凄く切ない。
どうして彼はあんなにもエリーザベトに想われているのに、大切にされているのに、別の女性を想い、求め、彼女を裏切ることが出来るのか。
自分はこんなにもエリーザベトのことを愛しているのに、どうして彼は真っ直ぐに彼女のことを愛してあげないのか。
自分が求めて止まないものを全て持っているくせに、何故それを簡単に捨てることが出来るのか。
そんな嫉妬と羨望があるのと同時に、友人としても彼のことを大切に想ってもいるから、堕落の道に走らず戻って来て欲しい。
昔のように友として互いに喜びを分かち合いたいし、笑い合いたい。
友として友人が間違いを犯そうとしているのならそれを止めたいし、彼がこれ以上堕ちて行く姿を見たくない。
それなのに、こんなにも自分と、またエリーザベトが大切に想っているのに、どうしてその心に届いてくれない。聞いてくれない。
そんな切なさと、またこれ以上自分ではどう足掻いても彼を引き止められない悔しさと、彼女への想いと苦しさ。
それら全てがないまぜになって、そして彼を助けたい一心と、彼を助けられるのが彼女だけだという確信と、どうか彼を助けてくれという嘆願が、あのたった一言に全て入っているんだと思ったら、もうどうしようもなく苦しくって、切なくって、哀しくって。
それらを考えたら、本当に涙が止まらなくなってしまいました。

その後の下りは感情移入をしているのかどうなのか判らないのですけれど、もう無性に泣きたくなって。
哀しいのか辛いのか喜んでいるのかとか、もう全く判らないのですけれど、劇が終了して暫くしても、帰り道の途中になっても、涙が止まらなくて困りました。
兎に角ヴォルフラムのあの一言の感情を考えたら、今でも涙が出て来て苦しいです。

話は少し変わりますが、この世界は人間、ここではタンホイザーを通しての人間の精神界を表しているのではないかと思いました。
ヴァルトブルクの人々は天と精神と理想を指し、ヴェーヌスベルクは地と肉体と現実を指している。
生まれたときは真っ白なのですから、タンホイザーはヴァルトブルクの側にいる。
けれど年を取れば様々なことを知り、それは綺麗なことだけではないことに気づく。
それは疑念のようなものになり精神が大人になるために彷徨って、それと同時に肉体も大人になっていき、物理的な欲求にも興味がわいて来る。
その成長を表すのが、ヴァルトブルクを離れた旅のようなもので、終に肉体的欲求に辿り着いた、つまりある種大人になったことによって、彼はヴェーヌスベルクへと身を置いた。
けれども彼はヴェーヌスベルクに途中で飽きます。
それは精神を伴わないだけの欲求は、人間らしくなく、面白味に欠けることに無意識に気づいたからではないでしょうか?

だから彼はヴァルトブルクに戻って来た。
そこで清らかで純真な美しさを持つエリーザベトが今まで以上に美しく映る。
それは大人になってしまったが故に子供のときのような清らかさと純真さを失ってしまった彼に対し、彼女はそれを持っている。
自分が失ってしまったものは時に眩しく見え、酷く愛おしい。
だから清らかで美しく映る彼女が恋しい。
それは自分が失ってしまったものを、欲しているからだと思います。
でも大人になって暗い欲も持った彼には、ただ純粋に彼女を思うことは出来ない。
人は慈しむ心があれば、それと反対に貶める心も持っている。
美しいものを大切にしたいと思うのに、同時に壊し穢したい欲求にも駆られる。
だから彼はヴェーヌスベルクから帰って来て彼女と出会った最初に、彼女を愛おしく思ったのと同時に彼女に触れて穢したい衝動に駆られた。
それは羨望と同時に嫉妬も表しているようで、落ちてしまった自分の元へと彼女を引きずり込もうとしているようでもあります。
きっとエリーザベトはタンホイザーにとって子供のような純粋さと純真さ、そして誠実さを表す存在で、且つ彼にとっての最も尊い理想なのだと思います。

それと相対するのが、女神ヴェーヌスの存在。
彼女はタンホイザーにとって欲望の表れで、不実と快楽と興味、そして怠惰と残酷な真実を表しているような気がします。
彼女は言うなれば成長して行く時に周囲から影響する興味。
現実には沢山のものがあり、ことがあり、誘惑ばかりが蔓延っては溢れている。
成長して行けば必然と興味が沸き、触れたくなる。
それは新しい発見と同時に、どこまでも怠惰で堕落的な一面も持ち合わせていて、中毒性がある。
一度嵌れば抜け出せない。
快楽を得たらもっと欲しくなる。
止めるのは至難の業で、それは憧れというよりも欲求に属し、際限なく求め始める。
そうすればそれを求めるあまり、他のことには目を向けなくなる。
考えることも放棄して、それを得ること以外には不実になる。
だから彼は周囲を気にせず己の欲望のまま歌を歌い、自らの欲求を露呈し、求めた。
でもそれは、ただ身勝手だけが残るものではなく、同時に知恵を表しているような気がします。
彼は大人になって、現実を知ってみて、現実が綺麗でないことを知ります。
だからヴァルトブルクに戻って来た時、周りの歌っていることが幻想主義的な精神論で、現実が一切見れていない盲目的な思想なのだと思ったのではないでしょうか。
だから彼は歌う。
現実を知らずに愛を歌っているなんて馬鹿らしくて滑稽だと。
現実はそんなに綺麗なものではなくて、もっと昏いものなのだと。
そして現実を見て、様々なことを知る喜びと、その背徳感もまた素晴らしいものなのだと言っているだと思います。

そうしてヴォルフラムの存在ですが、彼はタンホイザーのもう一人の彼なのではないかと思ったりします。
タンホイザーは不実で、優柔不断で、自分勝手な人です。
それに対してヴォルフラムは誠実で、真っ直ぐで、友人思いな人です。
タンホイザーは途中ヴェーヌスベルクに身を置き、享楽に身を投じましたが、対してヴォルフラムはヴァルトブルクに残ったまま、誠実さに身を投じています。
お互いに同じ女性を愛しているのにも関わらず、彼女への想い方が互いに違い、タンホイザーは肉体的愛情を思い、ヴォルフラムは精神的愛情を思っています。

お互いが同じ場所から始まり、同じ女性を愛している。
性別も同じで、友人関係。
しかし境遇は真逆の立ち位置にいて、全く正反対な面を持っている。
この話ではタンホイザーが主役。
つまりは彼が表の人格であり、現実を生きている人。
対してヴォルフラムは脇役。
つまり彼は裏の人格であり、思想を生きる人。
ここに現実と精神の二対が出ているのではないかと思ったり。
タンホイザーは誘惑に弱く、堕落しそうになるのを、ヴォルフラムは一生懸命更生させようと力を尽くして必死で止めます。
つまり現実に打ち負けてはいけない、誠実さと理想を確りともって生きなければいけないと、そう言っているような気がします。

とは言っても、必ずしもヴォルフラムが誠実だけの人と言うわけではない気がします。
タンホイザーは確かに身勝手なところがありますし、誤摩化しはしますが、彼自身の本質は素直だと思います。
自分の思った感情を嘘偽りなく話し、周りにどんな評価をされても自分を貫く意志も持っている。
彼自身は割と素直で、裏表がないんですよね。
そして他人が自分に対して向ける真っ直ぐな心には、とても真摯に受け止めて、悔い改めようと努力します。
対してヴォルフラムは相手想いで真っ直ぐですが、それが逆に自分を打ちに閉じ込める内向的な部分があるのと、相手がいる女性に恋情を抱いてしまう邪な思想を持っているところもあります。
隠匿の精神を持ち、理想思想の幻想を抱きながらも、不誠実な憧れも持っている。
大切な相手を思う心があり罪悪感を抱いているが、その感情を捨てきれない。
欲望に忠実か否かの差がこの二人の分け目で、基本的にこの二人はどちらも似たようなラインに立っているような気がします。

ただ、演劇の後半まで差し掛かるまで、タンホイザーはボーダーラインからヴェーヌスベルク側に立っているような感じですね。
三幕目精神世界の象徴であるエリーザベトが死んで、上下関係の均衡が崩れてヴェーヌスがタンホイザーを誘惑してそちらに堕ちそうになるんですけれど、それを何とかヴォルフラムが引き止めて、最後に彼の言葉が精神の象徴を思い出させ復活させて、タンホイザーが堕ちるのを阻止する。
そして最後は堕ちそうになるのを神が救った、と言うことで、彼は現実と欲に堕ちずに、精神と清らかさを取り戻し、精神世界へと旅立って行った。
残されたものたちは皆精神側の存在だから、肉体は滅んで精神だけになった、つまり死んだ、ってことなのではないかしら、と、長々と考えて思ったのでした。
本当に長いよ(汗

でまあ、オペラを見終わった後はまた京都に戻って、伊勢丹七階の美術館で『アンリ・ル・シダネル展』を見に行ってきました。
淡い色彩の印象派の画家で、すっごく素敵な絵が沢山ありました!
個人的に月光の色合いと、夕暮れ時の色合いの絵が凄く好きです。
あと、リトグラフ。
どの絵も見ているととってもかわいくて、和みます。

・・・何やらオペラをやたらと長々と考察、感想とか書いてしまったから、もう各気力が残っていません(汗
『アンリ・ル・シダネル展』すっごく良かったんですがね・・・・もうそれを描くだけの精神力はないですよ。
というわけで、今回はこれで切り上げます。
だらだらした長さになり、且つ眠いが故に文脈ぐだぐだですが、ここまでお付合いして下さった方、ありがとうございました。
では、おやすみなさい。



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