蝶子さんと樹くん 前編
今日は金曜日。
HRが終わり、家路につこうと帰り支度をいそいそと始めた僕の、ズボンのポケットの中でマナーモードにした携帯電話が震えた。
『樹、私のお願い聞いてくれるわよね』
これは彼女の要求に対して拒絶の色を示したり選択に迷ったりしているとき必ず発せられる言葉。
これに素直に頷かなかっただけで、今までと数えきれないほど理不尽な目にあってきてる。
これは蝶子さんには決して逆らってはいけないと言う教訓を守ったにも関わらず、散々な目に遭ったある日のお話である――。
いかにもお金持ちらしい高層マンションの入り口に立ちすくむ一人の男子高校生。
それが僕だ。
黒の学ランに包まれた体を縮こませ、そわそわと落ち着き無く辺りを見回しながら人気が無いことを確認する。
こんなにも警戒心を露わにしているのは蝶子さんに買ってくるように頼まれたこの紙袋の中身が原因だった。
鞄で隠すように持っていた紙袋は汗ばんだ手のせいで皺くちゃになり、力加減を間違えば容易く破れてしまいそうだ。
動く度にそれ等がぶつかる音して羞恥心をこれでもかというほど煽られる。
オートロック式の分厚いガラス扉を早く開けて貰おうと、部屋番号を入力してから呼び出しボタンを押せば、インターフォンの間延びした電子音の後で蝶子さんの凛と澄んだ声が聞こえた。
『――あら、早かったわね。ちゃんと買ってこれたの?』
「う、うん…」
『そう』
「…ぁ、開けてよ」
『まだダメ』
「…っ!ど、どうして…っ」
『もし間違っていたら買い直しに行くの面倒でしょ?そんなの時間の無駄だもの。だからそこで買ってきた物を見せてくれたら開けてあげるわ』
「そ、そんな…っ」
『うるさいわね。大きな声出さないで。近所迷惑』
興奮して大きくなってしまった声を指摘されて我に返り、黙り混んだ僕は、次に聞こえてきた言葉に耳を疑わざるおえなかった。
『何買ってきたの?』
「え…っ?…な、なに、って…?」
『どんなの買ってきたのって聞いてるの。あなたが見せれないって言うから口頭での説明で我慢してあげようってんじゃない』
「…こんな所で…い、言えないよ…っ」
『駄々こねてないで早くしないと…」
「え」
「あーあ。ほら、来ちゃった』
自動ドアが開く音に振り向くと、一人の男性が立っていた。
「はい…は、いやいや、ですからその件は全て春川さんに任せてありますと何度も言っとるでしょうが」
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