榎本さん

廊下は走っちゃいけない、ってわかってるはずなのに全力疾走してしまった。
理事長室直通のエレベーターの前まで来てようやく止まり、乱れた呼吸を正そうと深呼吸する。


『………どうかしました?』


耳が勝手にさっきの言葉を反芻する。
まるで心配してくれてるみたいだった。
じわじわと胸の辺りから温かいものが溢れてくるみたいだった。


………………そういえば、つい先日大破した理事長室の扉は新しいものに付け替えられ、以前と同じ威厳をすっかり取り戻していた。
一回だけ深呼吸をしてからノックした。


「はい」

「あ、藍沢です」

「どうぞ」


すぐに声が聞こえて両開きの扉の片方だけを開き、体を滑り込ませる。

その声の主はもちろん榎本さんだ。


「すいません、急に呼び出してしまって」

「い、いえ、そんな…」

「もう少し掛かりそうなんで座って待ってて下さい」


榎本さんの言いつけ通り大人しくソファーに腰掛けた。

重苦しい不安が心臓の辺りをぎゅうぎゅうと締め付ける。
仕事中だというのに今日は余計な事が起こりすぎて中々集中できずにいた。
妙な汗をかいた掌を握り込むと反射的に唇もキュッと引き締まる。
そんな僕を榎本さんは一瞥し、一拍程度の空白を挟んでから理事長の机に向き直りトントンと書類を揃えた。
机の所有者である理事長は不在である。


「………」


聞こえるのは紙切れの捲れる音だけ。
どうやら並べられた紙を確認しながら仕分けしているみたいだった。

こっそりと榎本さんの姿を盗み見ると、後ろからでも分かる体のラインに目を奪われた。
僕も筋肉質な方だけど厚みが違う。

初めて会ったあの日、この体に抑え付けられ体の自由を奪われた。
あの情景を思い出してしまって慌てて目を反らした。
初めて会った時の刷り込みのせいなのか、僕にとって榎本さんは、逆らっちゃいけない存在であり、絶対的な脅威、尚且つ、無条件に従える人だったりする。
思い返せば第一印象、第二印象ともに良いとは言えないけど、この人と一緒にいると、"甘えたな僕"がひょっこり頭を出してきて、うっかりすり寄ってしまいそうになる。

最近の泣きたくなるような出来事の数々だとか、悩みや泣き言を言ってしまいたいけど、でも、やっぱりそこは、立場が違うんだから、とか、そんな事話してどうなるんだとか、結局僕は慰めてほしいだけなんじゃないかとか、僕の中の"一応大人な僕"が出てきて何とか収めてくれてる。


「この書類を、」

「は…っ!」


ぼーっとしているうちにだいぶ時間が過ぎていたらしい。
いつの間にかテーブルの上には出来上がった書類が置かれ、榎本さんが覗き込んできていた。


「生徒会室へ運んでいただけますか」


僕の座っているソファーに左手を、テーブルの書類の上に右手を添えて。
勢い良く顔をあげてしまったせいで縮まった予想外の距離に僕はビビり、怯み、後退った。
そして顔面に身体中の血液が集まり、じわっと涙まで浮かんだ。


「っ、ゎ、かりました…」


慌てて俯いて書類に手を伸ばすと、それを遮るように手首を掴まれた。


「見慣れない服、着てますね」

「??………ぁ!お、…っお昼に、ご飯を溢しちゃっ…て…」

「……」

「…………??」

「ご飯を溢した?」

「……え。あ、ラーメンを、溢してしまって…」

「溢した?自分で?」

「い、いや、、………溢された、…です」

「……………」

「……?」

「で?」

「え?あ、で、着替えなくちゃ、と、思って、部屋に向かって歩いてたら、早川先生が…」

「早川…?」

「はい、か、貸してくれました」

「なるほど。…だからアンダーシャツ着てない訳だ」

「あんだー?」

「乳首、透けてますよ」

「え」

「しかも起ってるし」

「…!」

「このキスマークは誰の」

「え」


言われて気付いた。
さっき保健室で青柳になんかそれっぽい事をされた気がする。


ーーブチブチブチッ


「…………………………………?」


頭で理解するより先に体がブルっと震えた。
何が起きたのかわからなくて、驚きすぎて眉一つ動かせない。


「あんた、何されちゃってんの」


榎本さんの怒気を含んだ、いつもよりも低い声をきいて、ぎぎぎ…っと音がなりそうなぐらいゆっくりゆっくりと自分の体を覗き見た。

せっかく早川先生に貸してもらったYシャツのボタンはすべて綺麗に弾けとんでいる。



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