春風が告げるのは

 祝言を挙げて10日が経った。
 朝、わたしはまだ眠っている彼を起こさぬようにそっと床から出る。布団は別々だ。"そういうこと"はゆっくりで良いからと、彼は最初の日の夜に言った。お互いを何も知らないも同然な状態で、焦る必要はないと。正直、わたしはホッとした。今まで同世代の男性と殆ど関わることのなかったわたしは、どうしたらいいのか全く分からなかったから。
 離れを出て、母屋の台所へと向かう。離れで暮らすとはいっても、あそこには台所は無いし、風呂もないので、実質寝るだけの場所となっている。それで充分なのだけれど。
 四月の朝はまだ寒いし、薄暗い。風に小さく身を震わせながら台所へ入ると、中から丁度女中さんがふたり台所へと降りてきた。

「おはようございます」
「おはようございます、***様。今朝も冷えますねぇ」
「そうですね」

 ひとりの女中さんは外へ水汲みに行き、もうひとりの女中さんは味噌汁の具材を切る。そしてわたしはご飯を炊く。この10日間で自然とそんな役割が決まった。

「はじめ様は昨日も随分遅いおかえりだったそうですね」

 軽快に葱を切るわたしより少し年上の女中さん――伊代さんが言う。

「忙しいみたいです。もうすぐ試合があるとかで」

 排球士である彼は、日中は仕事。夕方から夜までを排球の稽古という、実に多忙な日々を送っている。今は特に忙しいようだ。

「まぁ、夫婦(めおと)になったばっかりなのに…」
「ふふっ、仕方ないですよ」

 釜の火が安定してきたので立ち上がる。外が明るくなってきた。彼が起き出すのはもう少し後だろう。


 朝ご飯は後からでいいですよ。と初日に言うと、

『阿呆か』

 と言われて、食卓の席に半ば引きずるようにして連れていかれた。皆が食べている間に弁当の用意をしたいのになと思っていると、お前は嫁なんだからと諭された。返す言葉もなく、またその言葉が存外嬉しかったわたしは、翌日から朝食作りの途中から、わたしだけ弁当作りをさせてもらうことに落ち着いた。

「はよ…」

 食卓を拭いて立ち上がると、頭上から声が落ちてくる。若干眠そうなその声に振り返ると、あくびを噛み殺すはじめさんの姿。

「おはようございます」

 ゆっくりと彼は食卓に着く。そろそろお義父さんとお義母さんも起きて来られるはずだ。膳を運んでこようとした時、なぁと声がかかる。

「はい」

 返事をして振り返ったが、はじめさんは机に肘をついて言葉を探すように視線を宙にさ迷わせ、あーと言い淀んだ。

「いや、いい」
「?…はい」

 それから仕事に出るまで、やはり何か言いたげなように見えたけれど、わたしも特に聞くことはせずにそのまま彼を見送った。

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