雨音と鈴鳴り

嫌いなわけじゃない。

『はじめまして。***と申します。これからよろしくお願い致します』

そう言ってゆっくりと頭を下げた彼女を見たとき、私の中で長い間小さく小さく燻っていた想いがふっと消えた。
私は九つの時に岩泉家に拾われた。父親を流行り病で亡くし、母親は私を置いてひとりで出ていった。私はふらふらと町をさ迷っていたところを、旦那様に声をかけて頂いた。家が貧しく、他に親戚もいない私は、誘われるまま岩泉家に住まわせてもらうことになった。
あの人に惹かれたのは、いつだったか覚えていない。ただ、いつの間にかあの人から目が離せなくなっていった。強く、正しく、真っ直ぐで、私にないものをたくさん持っていた。

ぽつりぽつりと降り出した雨が次第に本降りになっていき、買ったものをずぶ濡れにするわけにはいかないと、私は空き家の軒先に入った。
雨は好きじゃない。母親が私を置いて出ていった日が、雨だった。行かないでとすがることもできず、私は夜が明けるまで真っ暗な部屋で雨の音を聞いていた。
だから、雨は好きじゃない。けれど、見上げた空は鈍色でまだまだ降り止みそうになかった。家では、伊代さんが私の帰りを待っているはずだ。この食材を早くもって帰らねば、いつまでも夕飯の支度が出来ない。
走り出そうかと空から視線を戻したとき、鮮やかな緋色が目にとまった。

「あぁ、やっぱりすずさんだ。良かった、一緒に帰りましょう」

安堵したようにほっと息を吐く***さんに、すぐに言葉が返せなかった。

「ほら、今丁度ほんの少しだけ小降りですし」

ぽたりぽたりと***さんの傘から水滴が落ちる。私はゆっくりと頷いた。
決して大きくはない傘の下、***さんと並んで歩く。傘を持ちますと言おうとしたが、どう考えても私の方が荷物が多い為、黙っておいた。私が傘を持てば、***さんは私の荷物を持つと言い出すだろう。それでは意味がない。

「どれくらい雨宿りしてました?」
「ほんの少しです」
「急に降り出しましたよねぇ」
「はい」

思えば***さんとの会話らしい会話なんて、これが初めてな気がする。彼女の方から声をかけてもらうことは何度もあったというのに。

「…傘、持って出ていかれたんですね」

ぱらぱらと落ちる雨の音に掻き消されそうな声で、私は呟いた。もうひとりの女中である伊代さんは、いつも***さんを見送りに出ているけれど、私はいつも手が離せないふりをして出ていない。嫌いなわけじゃない。ただ、私は本当に子どもなのだと思う。

「ふふ、そうです。雨が降りそうな気が少しでもしたら、持って行くようにしています」
「…そうですか」
「この傘、お気に入りで。もう使いたくて使いたくて仕方なくって」

そう言って***さんは嬉しそうに緋色の傘を見上げた。最近では洋傘を差す人も多いけれど、***さんのそれは和傘だ。

「これ、岩泉商店の品なんです。初めて見たときからずっと欲しくて、この間のお給金で買ってしまいました」
「そう、ですか」

相変わらずぱらぱらと雨は降っていて、傘の端から見える空は鈍色だ。それでも、ちらりと伺った***さんは笑みを浮かべて楽しそうに歩いている。緋色の傘が、彼女に柔らかい赤を落としている。

「雨、好きですか…?」

私は気付いたらそう口にしていた。明確な意図があるわけではない。ただ何となく、この人に聞いてみたかった。

「そうですねぇ。こんな素敵な傘が差せるなら、悪くないですよね、雨も」

あぁ、でも傘がない時は災難ですよね、だなんて***さんが苦笑いする。私は何だか無性に泣きたくなった。
雨は嫌いだった。ひとりぼっちになった日が、雨だったから。去り行く母の背、真っ暗な部屋、響く雨音。今でもはっきりと覚えている。
それでもこんな美しい傘の下では、雨に対する想いも変わるのかもしれない。今度また雨が降った日には、私は母の背中よりも先に***さんと帰った今日のことを思い出すのかもしれない。
嫌いなわけじゃない。あの人と同じように強く、正しく、真っ直ぐなこの人を、嫌いになれるわけなんてない。

「ありがとう、こざいました」

岩泉家に着く直前、相変わらず雨音に負けそうな小さな呟きに、***さんは笑って頷いてくれた。

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