心に落ちる

「元気ないね」
「え、そう、でしょうか」

 昼。ふらりとわたしのところにやってきた及川様は、他愛ない世間話の後、唐突にそう言った。

「なんかね、こうね、ずーんとしてるよ」

 ずーんと、と彼は盛大に肩を落として縮こまって見せた。そこまではなっていなかったと思うけれど、少々落ち込んでいるのは事実だ。

「少し、ありまして」

 悩みといえば、わたしとすずさんの間にある縮まらない距離。けれどそのことを詳しく説明するのは躊躇われて、わたしは曖昧に濁した。

「えー、なに?岩ちゃんと喧嘩でもした?」
「いえ、そのようなことは」

 慌てて首を振れば、及川様はそんなにすぐ否定しなくても、と楽しそうに笑った。
 はじめさんと喧嘩するなんて今は想像もつかない。ゆくゆくは、そう…なっていくのだろうか。

「じゃあ、あれだ。女中さん…、えーと、すずちゃんか」

 危うく卵焼きを詰まらせそうになった。この人はいったい何を言ったのだろうか。むせながら湯呑みに入れてきたお茶を飲んで流していると、及川様はまた楽しそうに笑った。

「当たってるんだ」
「なぜ…そうだと…」
「俺、小さい頃から岩ちゃんとこ行ってるからね。まぁ、あの家で***ちゃん悩ませそうなのは、すずちゃんくらいかなって」
「…ということは、」

 気付いている、ということだろうか。彼女の気持ちに。言葉を切ったわたしに及川様は、ひとつゆっくりと頷いた。

「岩ちゃんち行ってるうちに、なんとなくね。…あの子、いろいろあってこーんな小さい頃から、岩ちゃんちにいるんだよ」

 こーんなと及川様はすずさんの背丈を手で示してみせた。及川様の言う"いろいろ"の中には、わたしには分からない苦労があったのだろう。涙も、たくさん流してきたのかもしれない。

「でもねぇ、それは関係ないからね」

 ひょいと、及川様がわたしの弁当箱から卵焼きを指で摘まむ。食べていい?と目で訴えられたので、わたしは頷いた。摘み上げてから聞いてくる人は始めてで、思わず笑ってしまう。
 もぐもぐと咀嚼したあと、及川様はひょいと立ち上がってこちらを見下ろした。

「***ちゃんは岩ちゃんのお嫁さんで、岩ちゃんが好きなのは***ちゃんだからね」

 だから、そのままでいいんだよ。ひらひらと手を振りながら去っていく。座っていたから思わなかったが、及川様は背が高い。はじめ様も充分高いけれど。
 わたしは、はじめ様の嫁。伊代さんも同じことを言ってくれた。そのままでいい。すとんと及川様の言葉が胸に落ちた。わたしは、わたしのままでいい。
 少し冷めてしまったお茶を飲み干す。店へ戻りながら、今日家に帰ったら、すずさんに話し掛けてみようと決意した。


「遅い」

 仏頂面に出迎えられた俺は、ごめんごめんと軽く頭を下げた。皆はもう作業中だ。ほんの少しだけ***ちゃんと話すつもりだったのに、長居してしまった。

「***ちゃんと話しててさ」
「知ってる。見た」

 そう。それは俺も知ってる。お弁当を食べてて俯いていた***ちゃんには分からなかっただろうけれど、俺の位置からはこちらを見詰める岩ちゃんがしっかりと見えていた。

「…ありがとな」
「ん?なんて?」
「……別に。さっさと仕事しろ跡取り」

 ふいと顔を背けて岩ちゃんは大股で歩いていってしまう。阿呆な顔をして聞き返したが、勿論ちゃんと聞こえていた。
 俺が悩みを当てたのを、***ちゃんは驚いていたけれど、この仏頂面の幼馴染みの方がきっともっと早く気付いていて、それでも何も言わずに見守っているのだ。そして俺が彼女を励ましたのにも気付いていて、滅多に言わないお礼を言った。***ちゃんは***ちゃんで、岩ちゃんに心配をかけたくなくて、きっと普通にしようと努めているのだろう。彼女のことだ。きっとそうだ。あぁ、なんかもう、このふたり。

「もう、なんか、健気!いい!いいわ夫婦って!」
「及川さん、仕事しないならそこどいてください」
「国見ちゃん!いいね、夫婦って!」
「え、いきなり何なんですか」

 本気でお嫁さん探そうかな、俺も。

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