目下の悩み

「あ、すずさん。わたし手伝いますよ」
「いえ、結構です」

 洗濯物が山ほど入った籠をふたつ抱えた女中さん――すずさんを見掛けたのはわたしが店の手伝いを終えて帰ってきた時のこと。わたしよりも年下で小柄な彼女には辛かろうと思い、慌てて駆け寄ったが間髪入れずに帰ってきたのは淡々とした一言。
 あ、はい。と出しかけていた手を引っ込めるしかなかった。スタスタと歩くすずさんの足取りは全く危なげがなく、それでも籠は重そうで、わたしの中で情けなさと恥ずかしさと、そして寂しさが渦巻いた。

「相変わらず、ですか」

 いつのまに隣にいたのか、伊代さんが苦笑いしながら声をかけてきた。

「…そう、みたいです」

 岩泉家に嫁に来てからふたつきが経過した今、わたしの目下の悩みは女中すずさんとの関係だ。

  ぺらりと書物を捲りながら思わずため息が漏れた。排球に関する細かな決まり事、"るーる"なるものが詳しく書き付けてあるこの書物も、先程から全く頭に入っていない。
 思うのはすずさんのことだ。「相変わらず」と伊代さんが言ったように、すずさんのわたしに対する態度は、わたしが嫁に来たときからずっとあんな感じだ。きつくあたってくるわけでは全くないが、心を開いてくれないというか、認めてくれてないというか。元々感情が読み取りにくいような子なのだろうけれど、わたしに対する淡白さは明らかに別格だった。時がたてば打ち解けあえるだろうと思っていたが、それは無理なのではないかと不安になってきた。
 伊代さんが言うには、すずさんははじめさんを慕っているのだそうだ。

『けれど、そんなことは関係ありません。あの子は女中。***様はここの若奥様です。堂々と、していてくださいませ。きっと時が解決してくれます。あの子は、賢い子ですから』

 伊代さんはそう言ってくれていたし、自分でもよくよく理解しているつもりだ。下手に自分がすずさんに接近していっても、逆効果になってしまうだけなのも分かっている。けれど、ただただ時間の経過を待つだけなのは、何とも切ない。

「何、そんなに難しいか?それ」
「え?あ、」

 二度目のため息が漏れた時、ひょいと書物に影が落ちた。後ろを見上げると、こちらを覗き込むはじめさんの姿。おそらく戸口でただいまと声をかけてくれたのだろうけれど、全く気が付かなかった。

「いえ、ちょっとぼうっとしてて…。おかえりなさい」
「ただいま。…ほんと眠たいんなら先に休めよ?」

 洗濯する練習着等を受け取りながら、大丈夫ですと首を振る。女中さんとの関係に悩んでいましたなんて、そんなこと言えない。言ったところで、これはわたしとすずさんとの問題。ましてやはじめさんは、思いきりこの件の渦中にある人だ。
 ごそごそとお風呂の準備をするはじめさんの背中を見ながら、わたしはそっと細い息をつく。全てを話せたらどんなに心が楽だろうか。

「あ、そういえば店、変なの来なかったか?」
「え?変なの…ですか」
「…及川とか」

 ぐりんとはじめさんが急に振り向くので、わたしは内心どきりとした。変なの、と言われて何のことか全く分からなかったが、どうやら青城組の方々のことらしい。

「あ、いらっしゃいましたよ。午前中に松川様が」
「はぁ?あいつ一番興味無さそうにしてたくせに何やってんだよ」
「あと、午後から金田一様と国見様。それから夕方に矢巾様と花巻様」
「おいおいおい。何人行ってんだよ。あいつらふざけんな」
「で、わたしが帰る前に及川様が」
「……明日しばいてやる」

みるみる眉間に皺が寄るはじめさんを見て、思わず笑ってしまう。そうしたら、憂鬱気味だった心がほんの少しだけ楽になったような、そんな気がした。

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