柚香る

 夕飯と風呂を済ませたわたしは離れへ戻った。彼はまだ帰っていない。ここ三日間は、夕飯を組の皆と及川家で取らせてもらっているらしいのでおそらく今日もそうだろう。
 排球の稽古場は及川酒造から少し離れたところにあるそうだ。かなりの敷地面積であり、試合が行われることもあるとお義母さんが言っていた。

 あくびを噛み殺す。繕い物をしている手の動きが段々と遅くなっているのが自分でも分かる。まだそこまで遅い時間でもないのに随分と眠たいのは、午後から店にお客様が押し寄せてきて、大忙しだったからだろうか。とりあえず針を針山に戻す。夫婦になって10日で帰りを待たずに先に眠ってしまうなんて、有り得ない。有り得ないと思いつつも、瞼はゆっくり下がっていく。


「ただいま」

 そんな声がぼんやりと頭に響いたと思えば、スッと襖が開いて、はじめさんが顔を出す。完全に寝こけていたわたしは、一瞬何が起こったか分からなくて、はじめさんに向かって呆然と瞬きを繰り返した。

「ふっ、大丈夫かよ」

 堪えきれなかったのか、はじめさんが吹き出す。さぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。わたしは小さくなるしかない。

「ごめんなさい、いつの間にか寝てました」
「気にすんな。…面白かったし」
「……」

 寝まいと思っていたのに、完全に意識が飛んでいた。恥ずかしさで顔を上げられずに、膝からずり落ちた繕い物を拾っていると、目の前にふわりと石鹸の香り。

「お風呂…入ってきたんですね」
「おう、そのまま行ってきた」

 ほんのりと柚の香りがする。岩泉家お気に入りの石鹸なのだと、お義母さんが教えてくれた。わたしもこの香りが好きだ。
 そうですかと言おうとしたら、先になぁ、とはじめさんが口を開いた。

「はい」

 顔を上げてはじめさんを見る。すると、彼の目線はふらりと宙をさ迷った。今朝と同じく。ただ今朝と違ったのは、さ迷った視線が決意したようにわたしを捉えたこと。

「明後日……、試合見に来るか?」

 全く予想してなかった言葉に驚いた。と同時に、今朝感じた疑問がすとんと解決した。あぁ、そうか。朝から何か言いたげだったのは、これだったのか。

「はい。行き、ます」

 噛み締めるようにゆっくりと伝える。わたしの返事を聞いて、おう、と笑ってくれたはじめさんに、わたしの心臓がトンッと一瞬大きく鳴った気がした。眠気など、何処かへ消えてしまっていた。

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