船だと思っていたものは、潜水艦だった。ちらりと振り返ると、診療所が遠くに見える。

「逃げてみるか?」

前を向いたままローが聞く。わたしは首を横に振った。逃げたくなんかない。むしろ連れて行ってと、離さないでとそう言いたかった。けれど、それだけは言うことが躊躇われた。わたしから頼んで連れて行ってもらうのではなくて、彼の意思で彼に拐って行って欲しいのだ。なんて浅ましい心だろうか。殊勝なふりしてさようならなんて、最初から言えるはずもなかったのだ。

「あれ?キャプテン…その子」
「どこで拾って…。え、しかも女医…?」
「え、まさか……夜のお相手?」

お揃いのツナギを着た船員達が、甲板からこちらを見下ろしているのが見えた。引かれていた手が、すっと解放された。

「…出航だ」

わたしを物珍しそうに見ながら口々に呟く彼らを無視して、ローはさっさと潜水艦に乗り込む。そして後に続けばいいのか戸惑うわたしに、一瞥くれた。来るなら来いと語る目に促されて、わたしも続けて乗り込んだ。
この部屋にいろと言われた場所で、わたしは大人しくしていた。ローはすぐに部屋を出ていってしまった。
丸窓から月明かりが漏れている。どうやら船はまだ海水へと潜っていないらしい。上からあわただしく動き回る足音が聞こえてくる。船に乗り込んだわたしのことを、あれやこれやと問いただす船員達を、さっさとしろとローが一蹴したのはつい先程のことだ。いつもあんな感じなのだろうか。小さい頃、チビだクソガキだの言われていたローを知っている分、キャプテンキャプテンと慕われているのを見ると、なんだか少し笑ってしまう。
薄暗い室内で、所在なく立っていたわたしは白衣を近くの椅子にかけて、壁際にあるベッドに座った。ふうと脱力すると、一気に疲れと眠気が襲ってきたような気がして、わたしはそのまま横になった。もともと微睡んでいたところを、飛び出してきたのだ。時刻も、もう真夜中を回ってしまっている。
ローはこの部屋にはもう戻ってこないのだろうか。彼と同じ船にいるのに、この期に及んでもまだ連れて行ってもらえることが信じられなかった。メリットなんて、何もないだろうに。わたしは一応医者ではあるが、ローがいれば船医は必要ないし、かといって戦闘能力が高いわけでもない。ドンキホーテ・ファミリーにいたときに、護身術を身に付けた程度だ。悪魔の実だって食べていない。
島に残るべきだったのかもしれない。彼のことを想うのなら。けれど、わたしはそんな聞き分けの良い女ではなかったらしい。残念なことに。

ギシリとベッドが軋む音がした。本日二度目の微睡みの中、すぐそばに少し冷たい温度が来たことにわたしは身じろぎをした。トンと肩が壁に当たって、ゆっくりと意識が覚醒していく。ベッドの上に座ってそのまま横になったはずなのに、いつの間にか布団に入っていて、壁際に移動していた。
自分のすぐそばにある体温と、今日診療所で感じた香り。それに気付いてそろそろと視線を上げると、肘をついて頭をもたげたローがこちらを見下ろしていた。

「あの…ここで、寝るの?」
「俺の部屋だからな」

狭いベッドにふたり、向かい合って寝転んでいる事実に気付いた瞬間、目をそらして問いかけた。そして返ってきた何とも完結な答え。部屋を宛がわれたと勝手に思っていたが、ここは船の中だ。都合の良い空き部屋なんてあるはずもない。わたしはローの部屋のベッドを乗っ取っていたらしい。

「ごめん、わたし…どこか」

行くね、と起き上がろうとした瞬間、背中に腕が回って引き寄せられた。逞しい胸板がすぐそばにあって、もうどうしたいいのか分からなくなった。

「ここにいろ」

引き寄せられている為、ローの顔は見えない。けれど、落ちてきた言葉は短くも微かに優しい響きを含んでいたから、すがりついて泣いてしまいたくなった。それだけはしたくない。言葉を紡いだら共に涙も落ちてしまいそうだったから、ひとつ頷いてローの服の裾を小さく握った。
背中に回っていた腕が離れ、前髪をそっと払われる。思わず目を閉じると、額に柔かな感触。ゆっくり離れていくローをまばたきしながら見詰めていると、溜まっていた涙が一粒、真っ白なシーツの上に落ちていった。それにほんの少し驚いたような表情を浮かべたローはしかし何も言わず、わたしを再び自身の元へと引き寄せた。
結局わたしはローにすがりついて泣いていた。今この瞬間がどうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく切ないから、涙が後から後から溢れてくる。

これから何があっても、きっとわたしはこの夜を忘れることはない。そう思った。



title by 星食

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