わたしはコラさんにドンキホーテファミリーから逃がしてもらった。こんなところにいてはいけないと、彼はローを連れ出す時にわたしの手を引っ付かんで、一緒に連れて行ってくれた。

『お前はもう自由だ』

そう言って、わたしをとある島に降ろしてくれた。きちんとわたしを育ててくれる人まで探してくれたれ、言い尽くせないほどの感謝の気持ちでいっぱいだった。ローとコラさんは病気を治すために、病院を回るのだと言って、旅立っていった。
それから十数年。
診療所の診察室の机で、わたしは微睡んでいた。カーテンの隙間から月明かりが一筋射し込んでいる。時刻は夜中を通り過ぎた頃。こんな小さな診療所でも、丸一日仕事をこなせばやはりそれなりに疲れは溜まる。ゆっくりと確実に眠りへと誘うその心地よい疲労感に、わたしは抗っていた。なぜなら、彼が、ここへ来てしまうかもしれないから。

『近いうち、この島を出る』そう彼は言った。今まで、彼はそんなことをわざわざわたしに言いに来たりはしなかった。ふらりとこの島に来て、またふらりと去って行っていた。そんな彼が、島を出ることをわたしに告げてきたのだ。おそらく、もうここへ来ることはないのだろうと思った。
"近いうち"がたぶん今日だと思ったのはなんとなくだ。海は凪いで、空もよく晴れていて、穏やかな夜。港が近いこの診療所からは、船が見える。きっとあれが、彼の船だろうというものが一隻あった。ちらりとカーテンをめくると、今も見える。まだ、彼は島から出ていない。必ずここへ来る、来てくれると信じてわたしは眠らない。いってらっしゃいと、気をつけてと、さようならと、言わないといけないから。
前髪がそっと払われて、柔らかく優しい感触。それから、足音が聞こえてぱたりと扉が閉まる音がした。ぼーっとする意識の中でわたしはそれを聞いていた。今、額に何か…と手をやろうとした時、覚えのある香りをふわりと感じて跳ね起きた。ガタガタと椅子が鳴って、机の上の物が何か落ちたような音がしたけれど、そんなことは気にならなかった。
体当たりするほどの勢いで扉を開けて外に出ると、音に気付いてこちらを振り返るローが見えた。港へ向けて歩いていたであろう彼に、わたしは一歩一歩近づく。

「行く、んだ」
「あぁ」
「そっか…」

なにか、何か言わなければならない。いってらっしゃいと、気をつけてと、さようならと、言わなければならないのに。わたしは何も言えなかった。ローを見ることさえもできずに、子どものように拳をぎゅっと握り締める。夜風になびく白衣が、こんな子どものわたしとは酷く不釣り合いに思えた。
ざっと足音がして、わたしは少し視線を上げた。目の前にローがいる。それでもわたしは何も言えなかった。
コラさんは殺されたと随分前にローに聞かされた。ローまで死んでしまったら、どうしたらいいのだろう。あの深い深い悲しみをまた味わうことになるなんて、そんなのもう嫌だ。けれど、行かないでだなんてそんな陳腐な台詞は言えない。彼の覚悟は、わたしなんかが止められるものではない。
せめて涙だけは流すまいと、唇を噛み締め俯いていると、もう一歩彼が近づいてきた。

「ろ、ロー?」

彼の腕がゆっくりと伸びてきて、そのまま抱き締められた。あまりに予想外の出来事に、思わず戸惑いの声が漏れる。彼は何も言わず、深く長いため息をついた。押し殺していたものを吐き出すような、そんな長い長いため息だった。

「あの…、ロー」

もう一度控えめに名前を呼ぶと、彼はそっとわたしを解放した。そして今度は短く、ふっと諦めたかのように息をつく。

「こんな、つもりはなかったんだがな」
「え?」

右手をとられる。そして、そのままローは歩き出した。つられてわたしも一歩二歩と歩き出す。

「え、あの、どういう…」
「…海賊らしく、拐っていくことにした。文句は聞かねぇ」

先を行く背中に問えば、振り返ることもなくそう返された。その言葉が何を意味するかなんて、考えなくても分かる。あぁ、わたしはこの人にいってらっしゃいと、気をつけてと、さようならと、言わなくていいのだと思ったら、あっという間に視界が滲んだ。ぐすぐすと泣きながら手を引かれて歩くなんて、やっぱり本当に子どもみたいだ。
明かりのつけっぱなしの診療所が、どんどん遠ざかっていく。もう、わたしがあそこに戻ることはない。



title by コペンハーゲンの庭で

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